ルカ13:1-9 『ルカ65 悔い改めるなら』 2016/06/26 松田健太郎牧師
ルカの福音書13:1~9
13:1 ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。
13:2 イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。
13:3 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。
13:4 また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。
13:5 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」
13:6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。
13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』
13:8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。
13:9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」
私たちは教会にいると、いろいろな素晴らしい証を聞く機会があります。
病気が癒された話、経済的に成功した話、事故から奇跡的に助かった話。
そのひとつひとつは素晴らしいことで、私たちはその話を聞きながら、神様の素晴らしさを思い、希望が膨らんだりするわけです。
しかしその一方で、ふとこんな風に思ったりもするのです。
「素晴らしい奇跡が神様の証だとするなら、奇跡が起こらなかった人たちを、神様はどうして助けなかったのだろうか?」
皆さんは、そんな風に思った事はないでしょうか?
癒しや奇跡を否定するつもりはありませんが、それが強調され過ぎると、悪いことが起こるのは罪のせいだとか、天罰だという話になってきてしまうように思うのです。
熊本地震の時にも少しありましたが、2011年の東日本大震災の時には、多くの牧師やクリスチャンが、「天罰だ」という発言をしているのを耳にしました。
世の中には悲惨な事件が日々起こっています。
思いもよらぬ災害によって、たくさんの人たちが亡くなります。
その人たちはどんな悪いことをしたので、そんな目に遭ったのでしょうか?
そんな悲劇が起こらない私たちは、良い人間だから悪い事が起こらないのでしょうか?
自分の事を考えてみても、何か悪いことが起こった時、「自分は何か悪いことをしたのだろうか?」とか、「最近あまり祈っていないから」と思った事はないでしょうか?
今日はイエス様と一緒に、その疑問に向き合っていきたいと思います。
① 災難は罪のためか?
さて、イエス様が群衆に向かって「神様と和解しなさい」という話をしていると、あるニュースを携えた人がそこにやってきました。
13:1 ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。
これが、歴史的にどういう出来事だったのかという事はわかっていません。
しかし推測できるのは、ローマ総督ピラトの命令で、ガリラヤ人が殺されたという事。
それは恐らく神殿で生贄を捧げていたところで、生贄の血とガリラヤ人たちの血が混ざりあったという事です。
これは、ユダヤ人たちにとってはかなりショッキングな出来事でした。
神殿とは神様がいる場所であり、神様の守りの場所だったからです。
彼らは、どんな事があっても神殿に逃れれば神様が助けて下さると信じていました。
その神殿で、しかも礼拝の最中に殺されるという事はあってはならない事だったのです。
この時、人々の心の中にあったのは、このような思いでした。
「神様の御前にいながら神様に守られなかったなんて、彼らはよほどの罪を犯していたのではないか?」
人々のそんな思いを読み取られたイエス様は、彼らにこのように答えました。
13:2 イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。
13:3 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。
人々が災難、苦難、困難に遭うのは、罪のゆえでしょうか?
結論だけを言うなら、それは「YES」です。
私たちは神様から離れ、“罪人”となりました。
そして、私たちが神様から離れてしまったために、この世界もまた呪われた世界となってしまったのです。
人生には痛みや苦しみが伴い、世界には病気や、災害が起こるようになりました。
それは全て、私たちの罪のゆえだという事ができるでしょう。
でもそれは、私たちが特定の罪を犯したから、その罪の罰を受けて災難に見舞われるという事とは全く違います。
ガリラヤ人たちが守られなかったのは、彼らが特別悪い罪を犯したから天罰を受けたのだと、多くの人たちが思っていました。
でもイエス様は言うのです。
「そうではない。もし彼らがその行いのゆえに天罰を受けて死んだと思っているなら、あなたたちも悔い改めない限り、同じようにみんな滅びる事になるだろう。」
天罰を受けるのに十分な罪なら、私たちの中にもあります。
それどころか、私たちはみんなこの罪のゆえに、体が滅びるだけでなく、永遠の魂の滅びに直面する事になるのです。
② 悔い改めること
さらにイエス様は以前起こった出来事を通して、悔い改める事の大切さを話します。
13:4 また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。
13:5 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」
シロアムというのは、エルサレムの貯水池がある場所です。
そこにあった塔が倒れて、18人の人たちが死亡したという事故が起こったようです。
これもまた、悲惨な事故でした。
しかし、彼らが死ななければならなかったのは、彼らの罪がエルサレムのだれよりも罪が深かったからでしょうか?
もちろん、罪深い人から順番に災いが起こっていくわけではありません。
多くの人たちは、普通の人たちです。
しかし、罪によって呪われた世界となり、災いが起こった。
そして私たちは、みんな滅びへと向かっている。
今、災いを経験していないから自分は大丈夫だと思ったら、大間違いです。
罪とその結果という事だけを考えるなら、そこには絶望的な状況しかないのです。
③ 和解となられた主
さて、話がこれだけで終わったら、とても暗い気持ちになって皆さんに帰っていただくことになってしまいますね。
しかしイエス様は、そんな話の流れの中で、たとえ話を始めるのです。
13:6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。
13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』
13:8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。
13:9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』
いちじくは、イスラエルではぶどうの次に身近な果物でした。
多くの家庭にイチジクの木があって、栽培していたのです。
イチジクは乾燥した地域では育ちやすい木で、植えれば次の年には実を成らせるのが常識でした。
しかし、たとえ話に出てくるこの木は3年もの間実を成らせません。
イチジクは大きな葉を茂らせる木ですが、実を成らせなければ何の意味もない。
それどころか、土地の養分を吸い上げるだけ吸い上げて、周りのぶどうまで痩せてきてしまう。
農家としては、こんな木はすぐに伐り倒してしまうのが当たり前の事だったのです。
このイチジクの木が表しているのは、私たち罪びとの姿です。
神様から、実を成らせるものとして創られたのに、神様が意図していたような実は一向に成らせようとしない。
それどころか、自分自身ばかりが肥え太る事ばかりを考えて、自分たちの幸せ、自分のたち満足、自分たちの喜びを求めていこうとする。
そして少しでも困難があると、神様のせいにしてもんくばかり言う。
こんなムダな存在はありません。
切り倒され、滅ぼされても仕方がない存在、それが私たちです。
しかしブドウ園の番人、イエス様はこう言うのです。
「もう一年待ってください。木の周りを掘って耕し、肥料をやってできる限りの世話をしてみますから。まだ切り倒さないでください。」
イエス様が神様との間に開いてくださる和解の道とは、このようなものです。
今は、滅びへと向かう「あと一年」の時代です。
最後の時。
終末に向かって、裁きを待つ時です。
イエス様が地上に来て、十字架にかかり、蘇りました。
信じる者たちには聖霊が与えられ、世界中に福音が述べ伝えられています。
これこそ、どんな枯れ木をも活かす肥料です。
この肥料がまかれてもなお、悔い改めの実を結ぼうとしないならば、その木を救うすべはもうありません。
しかし、あらゆる手段をもって、イエス様は私たちを救おうとして下さっているのです。
「あと一年」と言いつつ、かれこれ2000年が過ぎてきました。
終わりの時、イエス様がもう一度の地上に来るのはいつなのでしょうか?
ペテロは手紙の中でこう書いています。
Ⅱペテ 3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
「あと一年」「あと一年」と、イエス様は粘りに粘って、なかなか実を実らせようとしない私たちに忍耐を持って、その時を遅らせて下さっているのです。
「あと一年」が、あとどれくらい続くのかは、私たちには誰にもわかりません。
いつまでもそれに甘えているわけにはいかない。
イエス様が開いてくださった『神様との和解』の道を歩み、それによって実っていく御霊の実を見ていこうではありませんか。
ガラテヤ 5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
私たちがこのような実を実らせるとき、それを通して私たちの周りにはもっとたくさんの実りが起こっていくのです。
祈りましょう。