ルカ12:54-59 『ルカ64 和解の道』 2016/06/19 松田健太郎牧師

ルカの福音書12:54~59
12:54 群衆にもこう言われた。「あなたがたは、西に雲が起こるのを見るとすぐに、『にわか雨が来るぞ』と言い、事実そのとおりになります。
12:55 また南風が吹きだすと、『暑い日になるぞ』と言い、事実そのとおりになります。
12:56 偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。
12:57 また、なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか。
12:58 あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解するよう努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行きます。裁判官は執行人に引き渡し、執行人は牢に投げ込んでしまいます。
12:59 あなたに言います。最後の一レプタを支払うまでは、そこから決して出られないのです。」

この福音書のシリーズ、今日で12章が終わるわけですが、これまでどのような話の流れで進んでいたかという事を復習しながら、今日の聖書個所を見ていきましょう。

まずは『パリサイ派のパン種に気をつけなさい』と言う話から始まり、神様がどれほど私たちを気にかけてくださっているかという話をしましたね。
私たちはスズメよりも大切にされているはずであり、頭の毛を数えられるほど、私たちを気にかけてくださると言ってくださいました。
そこに『相続問題を解決してほしい』という人が突然現れ、イエス様は『お金よりも大切なものがある。それは永遠の中にある神様との関係だ』という話をしました。

それからしばらくの間、イエス様は弟子たちに向かっていろいろな話をしてきました。
必要は満たされるという事。
それからイエス様の再臨に準備をしておく必要がある事。
そして、イエス様は聖霊の火を投げ入れるためにこの地上に来られたという事です。

さて、弟子たちに話されていた話は終わり、イエス様者ここから再び群衆に向かって話をされています。
弟子たちではなく、群衆に向けて話しをされたという事は、そこにいた多くの人たちは、イエス様の事をよく知らない人たちだったという事ですね。

先週の話も分かりにくかったですが、今日の話も理解することが少し難しい話です。
わたしたちが聖書の言葉を理解していく上でヒントになる事がいくつかあるんです。
ひとつは、話の全体の流れに気を付ける事。
そして、それが誰に向けて話されている話かという事に気を付けて読むことです。
そのふたつを念頭に入れながら、今日の聖書個所を読み解いていきましょう。

① 時代を見分ける
さて、毎朝出かける前に、天気予報を見る方はどれくらいいらっしゃいますか?
今日は何を着るべきか、傘は持っていくべきかどうか、特に今のシーズンはとても重要な情報ではないかと思います。
農業や牧畜によって生活をしていた昔の時代ではなおさら、天気を知ることはとても重要な事でした。

12:54 群衆にもこう言われた。「あなたがたは、西に雲が起こるのを見るとすぐに、『にわか雨が来るぞ』と言い、事実そのとおりになります。

パレスチナから西に何があるかと言えば、地中海です。
地中海の上空に雲が起こると、必ずにわか雨が降ることを、人々は理解していました。

12:55 また南風が吹きだすと、『暑い日になるぞ』と言い、事実そのとおりになります。

南には何があるかというと、砂漠です。
南から風が吹いてこれば、砂漠の熱気を帯びた風がイスラエルに吹くわけですから、その日は暑く乾燥した日になるのです。

さて、人々はこんなに天気を当てることができるのだから、もっと色んなことが推測できるように思いますが、逆にわからなくなってしまうようなこともあるようです。
イエス様は、このように言っています。

12:56 偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。

今のこの時代とは何でしょう?
それは、救い主が地上に来られた時代です。
人々は様々なしるしによって天気を言い当てることができたのに、それ以上のしるしを目にしながら、イエス様が救い主だという事を見分ける事はできませんでした。
ここに集まっていた人たちの多くは、イエス様の御業を目の当たりにし、その話を生で聞いていました。
イエス様の生涯を通して、聖書に約束されていた救い主の条件はすべて整っていました。
彼らが目の当たりにしていた出来事は、イエス様が救い主である事の証拠に他なりませんでした。
それでも、多くの人たちはその事実に気が付かないでいたのです。

現代では、昔よりももっと正確に、天気を予測することができます。
僕が子供のころは、天気予報なんてあまり当てにはなりませんでしたが、今はかなりの確率で当たるようになりました。
今では大きな地方別の天気予報だけでなく、もっと詳細な地域に関しても、ピンポイントに予報ができます
しかし、天気がどれだけ正確に予測できるようになっても、そこに様々なしるしや観測結果がありながらも、イエス・キリストが救い主であり、私たちの罪のために十字架につけられた事を、多くの人たちは気づかないでいます。
彼らはたまたま気づかなかったのではありません。
その事から耳をふさぎ、目を背けてきたことの結果に他ならないのです。

② 自分から判断する
神様は、1000年以上の月日をかけて旧約聖書を記させ、そこにやがて来る救い主がどのような方かというヒントを残させてきました。
救い主を暗示するしるしは、旧約聖書の中に何百という数があると言われていますが、それはすべて、イエス様の生涯の中で現実となりました。
イエス様が救い主・キリストであるという事は、これ以上明確な証拠はないでしょう。
それなのにどうして、多くの人たちはイエス様が救い主であることに気づかず、認めようとしなかったのでしょうか?

それは、多くの人たちがイエス様の言葉を自ら吟味しようとはせず、他の人たちの判断や評判に任せてしまっていたからだと思います。
イエス様はこのように言っています。

12:57 また、なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか。

イエス様の話が正しいかどうか、自分から吟味して判断しさえすれば、おのずとその答えに導かれます。
アメリカにルー・ウォレスという弁護士がいました。
彼は無神論者で、キリスト教が大嫌いだった事もあり、ある時友人たちにこのように宣言します。
「わたしはキリスト教の嘘を暴き、キリストを完全否定する本を書く。」
ところが、彼がキリストの事を調べ、否定する本を書こうとすればするほどに、どうしても否定する事の出来ない事にぶつかっていったのです。
そうして彼は、結局イエス・キリストが神であり、救い主であることを認めざるをえなくなってしまいました。
その時彼が書いたのが、のちに映画にもなった『ベン・ハー(キリストの物語)』です。

同じようにして、調べていく内に信じるようになった人たちはたくさんいます。
どうせ否定するなら、本気で調べ、自分自身で判断するべきですよね。

③ 和解の道
さて、最後のこの言葉があまりに唐突なので、意味がさっぱりわかないという人は多いのではないかと思います。

12:58 あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解するよう努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行きます。裁判官は執行人に引き渡し、執行人は牢に投げ込んでしまいます。
12:59 あなたに言います。最後の一レプタを支払うまでは、そこから決して出られないのです。」

イエス様はどうしていきなり、裁判で訴えられた時の話をし始めたのでしょう?
突然、脈略もなく始まっているように見えるこの言葉は、実は告訴された時にどうしたらいいかというアドバイスではなく、イエス様のたとえ話です。
前後の話の流れから、この時イエス様は、神様と和解するように勧めているという事がわかるのです。

私たちは罪人となって、神様に敵対するものになっていました。
そんな私たちを、告訴する者がいます。
私たちを罪人として告訴する者とは何でしょう?
それは、律法です。
パウロは手紙の中でこのように書いています。

ローマ 3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

律法を前に、自分の無罪を主張できる人は誰もいません。
そして律法は、私たちを裁きの座へと連れていくのです。
そのようにして裁きの座に立たされる前に、私たちは神様の和解をする必要があります。
そうでない限り、私たちは最後の一レプタにいたるまで、罪の償いをしなければなりません。
それは、永遠の死、永遠の裁きです。
それは永遠にゲヘナの炎で焼かれるような、地獄の苦しみだとイエス様は言っています。

では、どうすれば私たちは、神様と和解することができるのでしょうか?
神様との和解の道を開いてくださったのが、イエス様です。
律法は私たちに罪を示しましたが、イエス様は私たちの罪をすべて負って、私たちの代わりに十字架にかかって死んで下さいました。
そこに、神様との和解の道が開かれたのです。

イエス様は言いました。

ヨハネ 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

イエス・キリストこそ、私たちの救いの道です。
私たちはこの道を通り、イエス様を通して神様との和解をしない限り、牢に投げ込まれ、裁きを受けるしかないのです。
だから、神様の和解を手にしてください。
イエス様は、命を懸けてその道を開いてくださったのですから。

IIコリント 5:18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
5:19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
5:20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

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