ルカ12:13-21 『ルカ60 富かいのちか』 2016/05/15 松田健太郎牧師

ルカの福音書12:13~21
12:13 群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」と言った。
12:14 すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」
12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
12:16 それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
12:17 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
12:18 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
12:20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
12:21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

今日も先週のメッセージを振り返りながら、話を進めていきましょう。
先週は、これまで3週間に渡ってお話してきたテーマの締めくくりでした。
そのテーマとは、私たちがいろいろな事を心の内に留めるのではなく、外に出していこうという事でしたね。
ひとつは、私たちの内にある罪を、包み隠してしまうのではなく、認めるという事。
次に、自分の信仰を隠してしまうのではなく、表に滲み出して以降という事。
そして先週が、信仰を積極的に伝えていこうという事でした。
そんな話がされた直後に、今日の箇所の出来事が起こるんです。

12:13 群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」と言った。

この人が話している事は、これまでの話とどういう関係があるんでしょうか?
一見、何のつながりもないようですが・・・、実は本当に何のつながりもないんですね。(笑)
つまりこの人は、イエス様の話を何にも聞いていなかったのです。
そして唐突に、自分が抱えている問題の事をイエス様に訊ねたのです。

こういう事って、結構よくありますよね。
電車の中で、大きな声で、楽しそうに話しているおばちゃんたちの会話を聞いていると、お互いに全然違う話をしていてかみ合っていないまま話している事がよくあります。
「うちの嫁がね~、○○で…」
「あらそうなの? 大変ね~。実はわたしったらこの間財布を忘れちゃって…。」
「まぁおかしい。そう言えばうちのチロちゃんが…」
この人たち、話していて本当に楽しいんだろうかと思うのですが、それぞれに自分の話したい事を話していて、お互いの話はまったく聞いていないんです。
皆さんも、そういう会話を聞いたことがありませんか?
案外、自分がそういう会話をしていたりするかもしれません。
この、脈絡もなく話し出された問題に対して、イエス様はどのように答えるのでしょうか?

① この世の問題で頭がいっぱいの相談者
さて、この人が抱えている問題は何だったのか、もう一度見てみましょう。

12:13 群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」と言った。

このひとりの人が抱えていたのは、遺産相続の問題だったという事がわかります。
たまに法律相談の番組があって観ると、遺産相続のトラブルというのは今でも多いですね。
同じ両親のもとで育った血を分けた兄弟が、相続の話しが折り合わなくて、憎しみ合ったり、殺し合ったりすることさえあります。
この人が話していたのは、「兄弟が遺産を分けてくれない」という事でした。
兄なのか弟なのか分かりませんが、この人の兄弟は父親の遺産を独り占めにしようとしていたんですね。
ユダヤ教のラビたちは、律法の問題に答える事が仕事のようなものでしたから、こういう家庭的な問題が話されることも少なくはありませんでした。
この人は、イエス様も律法学者か何かだと思っていたのでしょう。
法律相談と仲介者となってもらうために、このような話をしたわけです。
噂に名高いイエス様なら、この問題を解決してくれるに違いないと思っていたのかもしれません。

ところが、イエス様はその問題の詳細を聞くまでもなく、このように答えたのです。

12:14 すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」

これだけです。しかも若干怒ってもいます。
牧師がこんな風に応答したら、信徒はつまずくでしょうね。(笑)
実際、牧師をやっていると、こういう専門外の話を相談されることも少なくはありません。
話を聞かせていただきながら、「こういうことは僕に聞かれても困るなぁ」という話がよくあります。
でも、そういう時にイエス様のような言い方はしませんね。
とりあえず話を聞きながら、「市役所とか、弁護士とか、お医者さんに相談した方が良いですよ。」とアドバイスをするわけです。

イエス様は、どうしてこれだけしか答えてくださらなかったのでしょう。
それは、この人の本当の問題は、別のところにある事を、イエス様は知っていたからです。
そしてイエス様は、それがこの人だけの問題ではなく、多くの人たちが持っている根本的な問題であることを知っていました。
そこでイエス様は、他の人たちも巻き込みながら、このように話し始めたのです。

12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

この人を始め、多くの人たちが持っている根本的な問題は、「貪欲という罪」と、「『いのちが財産にある』と思っていた勘違い」でした。
それはつまり、具体的にはどんな問題なのでしょうか?
イエス様は、たとえ話を通して話し始めました。

② 貪欲な金持ちのたとえ話

12:16 それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
12:17 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
12:18 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。

ここまでは、何も問題ありませんね。
作物を蓄えておくことは、決して悪い事ではありません。
イソップの寓話の中に『蟻ときりぎりす』という話がありますが、怠け者のきりぎりすは愚か者とされ、働き者の蟻は食べ物を蓄えていたので厳しい冬を乗り越えることができました。
しかし、この話に出てくる金持ちは、この事のため、逆に愚か者と呼ばれるようになります。
それは、ここから先に問題があるのです。

12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
12:20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

この金持ちの問題は、蓄えさえあれば、自分の魂は安泰で、何も心配することがないと思っていたことにありました。
しかし神様は言うのです。
「愚か者よ。おまえのたましいは今日この地上から取り去られるのに、地上の蓄えをして何を満足しているのか。」と。
地上でどれだけ財産を蓄えても、それは天国にも地獄にも持っていく事ができません。
どれだけ貪欲に富を集め、将来の安心を手にしたように思っても、死んでしまえばそれで終わりです。
富によって、いのちを買う事はできません。
お金で、魂を救う事はできません。
“地獄の沙汰も金次第”なんて言う言葉もありますが、お金持ちだから天国に行けるという事はありません
イエス様がこのたとえ話の前に言っていましたね。
どれだけたくさんの物を持っていても、財産が人の命に代わる事はないのです。

③ 宝は天にある
そしてイエス様は、最後にこのように締めくくっています。

12:21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

世の中の多くの人たちは、非現実的で、非理性的な宗教の話ではなく、自分にとってもっと現実的な、今の事を考えた方が賢いと考え、神様を信じる私たちをバカにします。
そして今のこの世界で、自分がどれだけ力を持ち、どれだけ裕福になり、どれだけ楽しい経験をしてよい暮らしができるかという事に熱心です。
実は、こういう人たちはクリスチャンの中にもたくさんいます。
「わたしは30年前に洗礼を受け、毎週教会に通っていますが、聖書の事は全く分からないんです。わたしはもっと現実的な事に目を向けているから…」と、自慢げに話されたことがあります。

私たちは、魂の安心のために貪欲になるという勘違いをしてしまってはいないでしょうか?
私たちは賢いつもりで、イエス様の言うような愚か者になっている事はないでしょうか?
私たちは目に見えない神様では心配になり、ついつい目に見えるものだけを現実として、頼ってしまいたくなる傾向があります。
だからイエス様は、山上の説教でこのように話されたことがありました。

マタイ 6:19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
6:21 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。

この言葉は、多くの人たちが誤解しているように「善い行いをして、徳を積んで、天国に行ってから報いを受けましょう。」という話ではありません。
そんなのは、結局貪欲から来ているものですね。
目に見える富ではなく、見る事の出来ない神様からの祝福を宝にしなさいという事です。
本当に大切なものは、直接目で見たり、触れることができません。
愛や、喜びや、平安、赦し、恵み、希望・・・
多くの人たちは、それもお金で買えると思っているようですが、お金で買える愛や喜びは、ほんのひと時私たちを満足させるだけの代用品でしかありません。
新しいいのちにあるのは、刹那のものではなく、環境に関わらず永遠に続く愛や喜びです。
永遠のいのちの中にある、永遠の愛、永遠の喜び、永遠の平安、それが私たちの宝です。

「財産を分けるように兄弟に行ってください。」とイエス様に言った人が、この事に気づき、永遠の愛に生きることができたら、この財産の問題はどうなったでしょうね?
財産を求める価値観の先には争いしかありませんが、財産などなくても愛し合い、赦し合う関係が兄弟の中に生まれたら、素晴らしい事が始まると思いませんか。

『あなたの宝のあるところに、あなたの心もある』とイエス様は言っています。
私たちの心はどこにあるでしょうか?
何を求め、何を得ようとしていますか?
お金で得られる満足を得るために、富や財産を求めますか?
それとも、お金がなくても変わる事のない、愛や、喜びや、平安でしょうか?
私たちは、やがてなくなってしまう者を求めるのではなく、決して変わらない永遠のものを宝としませんか。
祈りましょう。

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