ルカ12:8-12 『ルカ59 聖霊をけがす罪』 2016/05/08 松田健太郎牧師
ルカの福音書12:8~12
12:8 そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。
12:9 しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。
12:10 たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されません。
12:11 また、人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。
12:12 言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」
先週は素晴らしい洗礼式でしたね。
洗礼を受ける事、その場に立ち会う事は、いつも本当に嬉しい、素晴らしい体験です。
先週メッセージの中でお話したことですが、洗礼式の目的の一つは、主にある家族の前で自分の信仰を明らかにするという事でした。
私たち日本人は、本音や自分の意見を始めいろいろなものを隠してしまう傾向があります。
しかし、自らの罪も、自分の信仰も隠してしまうのではなく、明るみに出していく事が大切だという事が、ここしばらくのテーマでしたね。
罪を内に閉じ込めてしまうと、私たちは自分には罪がないかのような錯覚に陥って、偽善的な生き方をするようになってしまいます。
また、人の目を恐れて神様との関係を隠そうとするなら、私たちは神様との関係において成長すること事もありません。
クリスチャンとして私たちが成熟していくなら、私たちは自分自身も、神様との関係も隠すことはなくなっていくようになるでしょう。
今日は、そこからさらにもう一歩先に進んでみたいと思います。
① 光を表す
さてそのようにして、「隠さない」という私たちの心の在り方は、私たちの心をもっと自由に、健康にしていきます。
そうすると私たちの心は、もっと外側に向いていくようになるんです。
そしてそれは、積極的に福音を伝えるという事に繋がっていきます。
イエス様は他の所でこのように話していましたね。
ルカ 11:33 だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。入って来る人々に、その光が見えるためです。
おいしいラーメン屋さんを見つけたら、誰かに紹介したくなるじゃありませんか。
ラーメン屋さんと神様を一緒にしてはいけないかもしれませんが、そこに起こる気持ちは同じです。
光をわざわざ隠す人がいないように、私たちクリスチャンが「福音を伝えたい」と思うようになる事は、実は当たり前の事、自然な事なのです。
もし私たちの内に、福音を伝えたいという気持ちが起こらないとしたら、そこには何か問題があるという事になります。
もしかすると私たちは、福音を誤解してしまっているのかもしれません。
私たちは福音を、単なる宗教だと思ってしまっていないでしょうか?
あるいは、私たちの神様との関係が崩れてしまっているのかもしれません。
福音が私たちを幸せにしていないのであれば、誰かに伝えたいと思えない事も当然の結果でしょう。
私たちは本当に神様との関係を味わい、そこに喜びを感じているでしょうか?
神様との関係が修復されるにしたがって、私たちの心にはもっと喜びが起こり、幸せがあふれ、誰かに「伝道しなさい」なんて言われなくても、もっと多くの人たちに福音を知ってもらいたいという思いが沸き起こるようになる事でしょう。
② 聖霊をけがす
さて、イエス様の話は唐突に聖霊の話に移ります。
12:10 たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されません。
この言葉がここに挟まれているのはちょっと不自然な感じもしますが、だからこそ意味があっておかれている言葉でもあります。
後でちゃんとつながりますので安心してくださいね。
それにしても、ぱっと読んだだけでは意味が分からない難解な言葉です。
少し、解説が必要でしょう。
似たような言葉として、マルコの福音書ではこのようにも言われています。
マルコ 3:28 まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。
3:29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」
ルカの福音書では「人の子」の悪いことを言っても「聖霊」を否定してはいけないという事。
マルコの福音書では、「神」をけがしても、「聖霊」をけがしてはならないという事が書かれていました。
総合して考えると、「父なる神様」と、「人の子つまり子なる神であるイエス様」を否定したり、けがす事を言っても、その罪は赦される。
しかし、「聖霊」を否定し、けがす事は赦されないという事になります。
「父」「子」「聖霊」は三位一体のひとつの神ではないのでしょうか?
イエス様は一体、何を言おうとしているのでしょう?
これは、「父」「子」「聖霊」のそれぞれの役割や性質を考えてみるとわかる事なんです。
「父」なる神様は、私たちが「神様」という時にまずイメージする神様ですね。
全知全能であり、世界の創造主である神様です。
父なる神様は、「遍在」と言いますがあらゆる場所に存在していて、しかし目に見ることはできません。
私たちに見ることができるのは、「子」なる神であるイエス様です。
イエス様は新約時代には人として地上に生きてくださり、私たちがどのように生きればよいのかというお手本を示してくださいました。
そして、私たちの罪を贖うためにいのちを投げ出し、死を打ち破って復活したのです。
では、「聖霊」なる神様とはどんな存在でしょうか?
多くの方たちには、これが一番難しいようです。
「聖霊」様というのは、私たちの内に住んでくださる神様です。
私たちに神様の存在がわからないのは、私たちが霊的に死んだ状態にあるからです。
霊的に死んでしまっている私たちには、霊的な存在である神様がわかりません。
霊的に死んだ私たちは、神様との関係が完全に切れた状態になってしまっているのです。
それを、聖書では罪と呼んでいます。
しかし、霊的に死んでしまっている私たちの内に聖霊様が入って下さる事によって、私たちには神様のことがわかるようになるのです。
私たちは聖霊の働きによって、神様の御心を知り、神様の言葉を理解することができます。
そして聖書には、このようにも書かれています。
Iコリント 12:3 ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。
そう考えてみると、聖霊を受ける前の私たち、聖霊が働いて下さっていない状態の私たちが、神様をけがしたり、イエス様をそしるのは、珍しい事ではないし当たり前の事なのです。
私たちが罪びとであるという事は、そういう事なんだとも言えますね。
思えば私たちも、もともとはそういう状態にあったのではないでしょうか?
神様の存在なんて信じられず、信じる人たちをバカにしていた時代もあるかもしれません。
また、神様をあなどる事もあったのではないでしょうか。
しかし、聖霊様が私たちに働きかけて、また私たちの内に入って神様の事を教え、神様の御心を示し、イエス様の愛を伝えてくださる時、私たちには神様の事がわかるようになるのです。
そして、イエス様が私たちの主であり、神なんだという事も理解できるようになるのです。
もしも私たちが、その聖霊様を無視したり、その導きを無視したり、逆らったり、悪霊だと決めつけてしまったらどうなるでしょう。
それでは、私たちは神様を理解し、イエス様を知る事なんて絶対にできなくなります。
イエス様を知らず、受け入れることがないなら、私たちが罪の赦しを受けるという事も絶対にありませんね。
それが、ここで言われている「聖霊をけがす」という事なのです。
そしてだからこそ、「聖霊をけがすなら赦されることはない」と言われているのです。
③ 聖霊が教えてくださる
さて、この話がどのように前の話とつながるのでしょうか?
それは、私たちが福音を伝えるという事を考えるなら、聖霊の助けは必要不可欠なものだという事なのです。
聖霊が私たちに神様の事を教え、導きを示してくださるなら、福音を伝えることにおいても、私たちは聖霊に聞きしたがって話し、行動する必要があります。
確かにある程度の知識も必要ですから、学ぶことは大切です。
聖書には「人々に希望を伝えるために備えをしなさい」とも書かれていますから、何をどのように伝えるか、あらかじめ考えておくことも必要でしょう。
でも、誰かに福音を伝えるために必要なのは、キリスト教に関する完璧な知識や準備ではなく、私たちが聖霊の導きを受けて、必要なことを伝えるという事なのです。
私たちが、福音を伝えるために完璧な知識を身に着けるのを待っていたら、伝道できるようになるまでに私たちはみんな神学校を卒業しなければならなくなり、10年も20年も勉強しなければならなくなるでしょう。
実は、日本のクリスチャンの一番深刻な問題はここにあると思います。
ほとんどの人たちが、「自分には伝道する資格はない」と思ってしまっているのです。
その結果、多くの教会では牧師だけが伝道する人となり、あるいは牧師さえも伝道することをやめて教会に閉じこもってしまっています。
それでは教会に人が増えず、老人ばかりになってなくなってしまうのも無理はありませんね。
福音を伝えることを躊躇する材料となるものが、もうひとつあります。
それは、人から反発を受けたり、迫害されるのではないかという心配や恐れです。
確かに、福音を伝えたことで噛みついてくる人もいますし、迫害が起こる事もないわけではありません。
それによって命を奪われることすらありますから、簡単な問題ではないでしょう。
しかしそれでも、心配する必要はないのだとイエス様は言います。
12:11 また、人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。
12:12 言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」
キリスト教を嫌いな人はたくさんいます。
でも、イエス様がどのような方かという事を知ったとき、イエス様を嫌う人は、僕の経験上ほとんどいません。
安心して、自信をもって伝えようじゃありませんか。
そのために必要なのはまず、自分の中にあるものを隠すのをやめて、自由に、健康にされていく事です。
そうして、私たちの内が喜びと幸せで満たされて行ったら、次は聖霊の声に耳を傾け、私たちが誰に、何を伝え、話すべきかを聞くのです。
私たちが神様に従っていくとき、福音は周りの人たちに伝えられてゆき、聖霊が今度はその人たちの内に働きかけてくださり、その喜びはさらに次の人へと伝えられていきます。
喜びを、幸せを、次の人に伝えていきましょう。