ルカ12:1-5 『ルカ57 人をおそれず』 2016/04/24 松田健太郎牧師

ルカの福音書12:1~5
12:1 そうこうしている間に、おびただしい数の群衆が集まって来て、互いに足を踏み合うほどになった。イエスはまず弟子たちに対して、話しだされた。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。
12:2 おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。
12:3 ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。
12:4 そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。
12:5 恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。

先週は信徒総会でしたので、ルカの福音書のシリーズから少し離れたお話でした。
今日はまたルカの福音書に戻りますので、前回どんな話だったかを思い出してみましょう。

前回は、イエス様がパリサイ派の人たちと食事をした時の話でしたが、そこでイエス様は、パリサイ派の人々の信仰がどれだけずれてしまっているかという事を話したのです。
パリサイ派は、信仰熱心な人々としてみんなから尊敬されている人たちでした。
彼らの信仰の何が問題だったのでしょうか?
それは、彼らがルールを守り、表面的にきよい人間として行動することに一生懸命になっていて、内面は罪だらけの状態だったという事です。
これを聖書では「偽善」と言い、神様がもっとも憎んでいる罪です。

今日は、この偽善の問題にもう一歩足を踏み込んで、どのようにすれば解決できるのかという事を一緒に考えていきたいと思います。

① パリサイ派のパン
聖書の中で使われているギリシャ語の「偽善」という言葉は、もともとは「芝居」という意味の言葉でした。
昔の芝居がどんなものだったかというと、役者が仮面を被って演技したのです。
日本でも、能のように仮面を被って演技をするものがありますね。
そうして仮面を被って演技をする様子から、「偽る」という意味が加わっていき、新約聖書の時代には「偽善者」という悪い意味しかもたない言葉になってしまったと言われています。

そういうところから、善を行うように見せかけることを偽善と言います。
またユダヤ人の間では、神様を敬うように見せて、邪悪な心を持っている人たちの事を偽善者と呼ぶようになりました。
この「偽善」について、イエス様はこのように言っているのです。

12:1 そうこうしている間に、おびただしい数の群衆が集まって来て、互いに足を踏み合うほどになった。イエスはまず弟子たちに対して、話しだされた。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。

パン種というのは、イースト菌や酵母菌のように、パンを膨らませるものですね。
これは少しでも混ざっていると、小麦全体に影響を与え、膨らませる力を持っています。
それと同じように偽善の罪というものは、私たちの心にいつの間にか忍び込み、どんどん膨らんで大きくなっていく厄介なものです。

私たちのうちに偽善が大きくなっていくと、表面的には正しい者であろうとしている内に、自分は正しい人間であるような気がしてくるんです。
そして、自分は正しい人間だという思い込みから、神様に助けを求めることも少なくなっていきます。

しかし表面的な罪に対しては敏感ですから、他の人たちの罪はたくさん見えるんですね。
そして自分の中の見えない罪は棚に上げつつ、他の人たちの罪は許すことができず、人を裁くようになっていきます。

そうなると、自分の内側の罪を認めることはますますできなくなっていきます。
結果的に、隠されている部分の罪はどんどん大きくなり、心の中は見えない怒りや嫉妬、イヤらしい事や、ずるい事、プライドなどでいっぱいになっていく。
これが、偽善という罪の恐ろしいところなのです。

皆さんの中に、このような偽善の罪はないでしょうか?
「自分は大丈夫」と思った方がいらっしゃったとしたら、その方が一番アブナイんです。
偽善とはそのように、私たちが自分の罪を認めないところから起こり、私たちの心を気づかない内に蝕んでいくものだからです。

② すべては明らかに
さて、イエス様は偽善に対する警告として、このように言葉を続けています。

12:2 おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。
12:3 ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。

偽善という罪の根は深く、最初の人アダムとエバの時代に遡ります。
善悪の知識の木からとって食べてしまったアダムとエバは、ありのままの自分でいることができなくなり、イチジクの葉でからだの一部を隠そうとしました。
それと同じように、私たちはありのままの自分を認めることができず、自らの恥の部分を隠そうとするのです。
しかし、私たちが自分の罪を覆おうとしているのは、イチジクの葉というみじめな葉っぱでしかありません。
そんなものはすぐにダメになり、破れてしまうのです。

隠されているものは必ず明らかにされるのだ、とイエス様は言います。
私たちがどれだけ巧みに隠し、自分自身をだましていたとしても、それは必ず表に出てきてしまうものなのです。
ベッキーや乙武くんについての報道が、記憶にも新しいですね。
私たちは彼らのように有名人ではないですから、週刊誌に暴かれるようなことはないかもしれませんが、隠そうとしていたものが明らかにされてしまうのは、本当に恥ずかしい事であり、私たちにとってはとても怖しい体験でもあります。
場合によっては自分の立場を失ったり、関係が壊れてしまう事もあるでしょう。
それによって自分も大きく傷つきますが、それ以上に周りの人たちを傷つけることになるかもしれません。

どれだけ巧みに隠そうとしても、私たちの心のうちにあるものは、やがて外に漏れだして、明らかにされる時が来ます。
神様から隠すことができる罪なんてありませんし、神様が自らその罪を暴かれるからです。
ではどうすればいいか、パウロは手紙の中でこのように書いています。

エペソ 5:11 実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。
5:12 なぜなら、彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。
5:13 けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。

放っておけば、その罪は神様によって明らかにされ、全ての人が知るようになります。
それは私たちには痛い体験です。
だからこそ、私たちは神様によって罪の暗闇が明らかにされる前に、自ら明らかにしていく必要があるのです。

何度もお話ししている事ですが、僕は月に一度友人と罪の告白をし、祈る時を持っています。
それがなければ、僕はこうして牧師として生きてくることはできなかったでしょう。
人に自分の罪や闇の部分について話すのは、とても恥ずかしい事です。
でもそれは、誰かほかの人たちに暴かれたり、神様によって明らかにされるよりはずっと楽な体験です。
そして私たちが自ら自分の罪を光の中にさらすなら、そこには癒しと、回復が始まります。
誰にでも話せることではないでしょうが、そのような祈りのパートナーを見つけることを、皆さんに強くお勧めしますよ。

③ 本当に恐れるべきもの
そもそも、私たちはなぜ、自らの罪を隠そうとしてしまうのでしょう。
そして、自分に罪なんてないかのように振る舞い、他の人たちを裁いてしまうのでしょう。
それは、私たちが目に見えるものの事だけを考え、目に見える他の人たちの目を恐れているからです。

「私が本当はこんなことを考えている人間だと知られたら、皆に嫌われてしまうのではないか」という恐れや、他の人々に弱みを見せる事が嫌だから隠してしまう罪がたくさんあります。
しかし、イエス様はこのように言っています。

12:4 そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。
12:5 恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。

私たちが本当に気にかける必要があるのは、他人の目ではなく目に見えない神様の目です。
人の目にどう見えるかではなく、私たちが神様の目にどう見えるのかという事です。
みなさんは、私たちが神様の目にはどう見えていると思っていますか?
「高価で貴い。」「神様は私を愛している」
それも確かな事でしょう。
でも残念ながら、それは私たちが罪のない素晴らしい人間だからではありません。

私たちがどれほど神様の御心から離れてしまっているか、神様が創って下さった素晴らしい自分をどれほど台無しにしてしまっているか、神様が創ったこの世界や人々を、どれだけ傷つけ、壊してしまっているか。
それが、ありのままの私たちです。
神様は、「だから」私たちを愛しているのではなく、「にもかかわらず」私たちを愛してくださっているのだという事を忘れてはなりません。

神様の目に見える私たちの姿を考えた時、私たちは自分や他人の目に見える体裁だけを整えることがどれほど下らない事かという事がわかってくるはずです。
そして私たちは、どれほど神様から離れた罪人であり、赦されなければならない罪がどれほどあるかという事を思い知る事になるでしょう。
そうして自分の罪の大きさを理解したとき、私たちは初めて、こんな私たちをそれでも愛し、こんな私たちのためにひとり子を十字架にかけてくださった神様の愛の大きさを知る事が出来てきます。
私たちが人ではなく神様の目を恐れる時、私たちが「赦しの恵み」というどれほど大きな愛に包まれているかを自覚することができるのです。
神様の愛の中に飛び込みましょう。
そして、私たちを支配している罪の呪いから解放されようではありませんか。
人ではなく、神様を恐れることから、それが始まるのです。
祈りましょう。

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