ルカ11:37-54 『ルカ56 宗教という重荷を降ろす』 2016/04/10 松田健太郎牧師
ルカの福音書11:37~54
ルカ 11:37 イエスが話し終えられると、ひとりのパリサイ人が、食事をいっしょにしてください、とお願いした。そこでイエスは家に入って、食卓に着かれた。
11:38 そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て、驚いた。
11:39 すると、主は言われた。「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。
11:40 愚かな人たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。
11:41 とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。
11:42 だが、わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛はなおざりにしています。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もなおざりにしてはいけません。
11:43 わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです。
11:44 わざわいだ。おまえたちは人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。」
11:45 すると、ある律法の専門家が、答えて言った。「先生。そのようなことを言われることは、私たちをも侮辱することです。」
11:46 しかし、イエスは言われた。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。
11:47 わざわいだ。おまえたちは預言者たちの墓を建てている。しかし、おまえたちの父祖たちが彼らを殺しました。
11:48 したがって、おまえたちは父祖たちがしたことの証人となり、同意しているのです。彼らが預言者たちを殺し、おまえたちが墓を建てているのだから。
11:49 だから、神の知恵もこう言いました。『わたしは預言者たちや使徒たちを彼らに遣わすが、彼らは、そのうちのある者を殺し、ある者を迫害する。
11:50 51 それは、アベルの血から、祭壇と神の家との間で殺されたザカリヤの血に至るまでの、世の初めから流されたすべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。そうだ。わたしは言う。この時代はその責任を問われる。』
11:52 わざわいだ。律法の専門家たち。おまえたちは知識のかぎを持ち去り、自分も入らず、入ろうとする人々をも妨げたのです。」
11:53 イエスがそこを出て行かれると、律法学者、パリサイ人たちのイエスに対する激しい敵対と、いろいろのことについてのしつこい質問攻めとが始まった。
11:54 彼らは、イエスの口から出ることに、言いがかりをつけようと、ひそかに計った。
今週のメッセージは、「神様が表す光を健全な目で見よう」という事がテーマの話でした。
その話の直後、聴衆の中にいたパリサイ派のユダヤ教徒がイエス様に声をかけ、食事に招いたんです。
この人は、他のパリサイ派のユダヤ教徒たちとは違い、イエス様に対して反感を持っている様子はありません。
それどころか、食事に誘うほどですから好感を持っているようにも見えました。
しかし、招かれて行った食事の場には、彼だけではなくたくさんのパリサイ派の人々、そして律法学者たちがいたのです。
そして、いよいよ食事をしようという時、その食事の場で問題が起こります。
当時のユダヤ人たちは、食事の前のきよめの洗いというしきたりを守っていました。
食事の前に手を洗うのですが、それは衛生の配慮からではなく、宗教的儀式としてそれを行っていたようです。
ところが、イエス様はそのきよめの洗いをしなかったのです。
それを見て、パリサイ派の人々は驚いたと聖書には書かれています。
イエス様はこの時、どうしてきよめの洗いをしなかったのでしょうか?
それは、“きよめの洗い”というものが神様によって定められたものではなく、人が作ったしきたりだったからです。
そうは言っても、せっかく食事に誘ってくれたわけですし、この場は穏便に済ませることだってできたでしょう。
何だってイエス様は、わざわざそんなカドが立つことをしたのでしょうか?
もちろんイエス様は、意味もなく彼らに反抗して喧嘩をしようとしていたのではありません。
イエス様の目的は、これをきっかけとして、パリサイ派の信仰の問題について、明らかにしていくことでした。
この出来事を通して、彼らが自分たちの信仰のあり方を見直し、神様に立ち返る機会を与えようとしていたのです。
彼らの問題は、一体どんなことだったのでしょうか?
① 内側からきよめられる
まずイエス様は、このように言いました。
11:39 すると、主は言われた。「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。
11:40 愚かな人たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。
見た目だけを気にして、食器の外側はきれいに洗うけれど、肝心の内側は洗っていないなどという事はあるでしょうか?
それではまったくの本末転倒で、食器としては使い物になりません。
パリサイ派の人々の問題は、まさに彼らが外側だけをきよめ、内側は汚れた状態にある事でした。
しきたりはしっかりと守って、表面的には信仰熱心できよい人に見せる。
しかし心の中は、嫉妬や憎しみでドロドロしていたり、少しでもお金を搾り取ろうと罪の心であふれている。
私たちクリスチャンも、気を付けなければ同じことが起こってしまいます。
どれだけ礼拝にちゃんと出席し、聖書を毎日読み、よく祈り、よく捧げ、よく奉仕し、よく伝道していたとしても、心から神様を愛し、喜びの中でそれをしているのでなければ、体裁だけを整えようとするパリサイ派の人たちと何も変わりません。
本当に大切なのは、表面的にどのように見えるかという事ではなく、心がどのような状態なのかという事なのです。
イエス様はこのように続けています。
11:41 とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。
どれだけがんばって外側をきれいにしても、それによって内側が変わることはありません。
しかし、私たちがまず体裁だけを整えることを止め、本音の部分から変えられていくなら、私たちは行動においてもきよめられていく事になるでしょう。
まずそのためには、自分の心がどれだけ汚れていて、変えられる必要があるのかという事に私たちが気づく必要があります。
外側だけを整えて、自分には罪がないつもりになっていたら、私たちはいつまで経っても、決して変わることがないのです。
② 偽善者にならないために
続いてイエス様は、このように言いました。
11:44 わざわいだ。おまえたちは人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。」
これには少し解説が必要だと思います。
イスラエルの墓というと、私たちが思い出すのはイエス様の復活の絵などでよく見る洞窟のような絵ですが、貧しい人たちはその辺の地面に葬られることもありました。
その際には、他の人たちが間違って墓を踏んでしまう事の無いように、目立つ印がつけられるものなのだそうです。
律法では、墓に触ると7日間汚れた状態になってしまいますから、知らない内に汚れた状態になるような事がないようにという配慮だったのです。
ところが、時々めじるしもなく、忘れ去られている墓があるのです。
それが、「人目につかぬ墓」です。
そういう墓は、人目につかないので、その上を歩いても誰も気が付きません。
だから人々は、気が付かない内に、いつの間にか汚れてしまうという事があったのです。
それと同じように、パリサイ派の人たちは、みんなから尊敬されて汚れているようには思われないけれど、実は内面的には汚れてしまっていて、近づく人たちにも影響を与えてしまっているというのです。
本当は汚れているのに、汚れていないかのように振る舞っているなら、それは偽善です。
そして偽善こそ、神様がもっとも憎まれた罪でした。
神様はなぜ、偽善を憎まれるのでしょう?
私たちは、自分の罪を認める限り、いくらでも悔い改め、神様に立ち返ることができます。
しかし、私たちが自分の罪を認めなければ、その人は決して変わる事がなく、神様を求めることもないからです。
多くの人々は、パリサイ派のユダヤ教徒たちを信仰熱心な人々として尊敬していました。
彼らはそうして、人から認められ、評価され、褒め称えられる事を最大の喜びとしてきました。
でも私たちが、「他の人たちからの評価」を第一として求め続ける限り、私たちは結局、表面的な体裁の部分ばかりを整え、善を装っていくことになります。
そして表面的な部分ばかりを整えれば整えるほど、私たちの内側はどんどん堕落し、腐敗していく事になるのです。
私たちはまず、自分自身の中にある罪を顧み、神様に救いを求める必要があります。
そして私たちは、人からの称賛や、栄誉を受ける事ではなく、神様が喜んで下さる事を第一に考えていくべきなのです。
③ 宗教という重荷を降ろそう
さて、あまりに厳しいイエス様の言葉に、それを聞いていたパリサイ派の人々、律法学者たちはざわつき始めました。
そしてついに、このように言い始める人が出てきます。
11:45 すると、ある律法の専門家が、答えて言った。「先生。そのようなことを言われることは、私たちをも侮辱することです。」
旧約聖書の律法を定義し、パリサイ派の人たちが守っている細かいルールを作っていったのは、律法学者たちだったからです。
パリサイ派の人々が忠実に守っているものを否定することは、自分たちを否定することにもなるとイエス様に対して抗議をしたわけです。
さあ、この言葉を発端として、イエス様の矛先は律法学者たちへと移ります。
11:46 しかし、イエスは言われた。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。
旧約聖書の律法を勝手に解釈し、人々に規則という重い荷物を背負わせたのは、彼ら律法学者たちです。
しかしそんな律法学者たちは、人々に重荷を背負わせるだけ背負わせて、それが実行できるように指一本貸そうとしません。
そして自分自身はと言えば、勝手に屁理屈をこねて、その規則の抜け道を作ってうまく逃れていたわけです。
そこには、神様が本当に大切にしていた“愛”なんて微塵もありませんでした。
創世記に出てくる最初の殺人事件の被害者アベルから、第2歴代誌のゼカリヤに至るまで、ユダヤ人たちは数々の預言者を殺してきました。
真の礼拝者だったアベルや、神様の言葉を運ぶ預言者を殺したという事は、神様に対する反逆に他なりません。
しかしそういった預言者たちを殺したのは、パリサイ派の人々や律法学者たちのように、福音を勝手に解釈し、真理をゆがめ、人間の権威を第一にしてきた彼らのような宗教的価値観だと、イエス様は言っています。
そういう宗教的価値観が、人々を神様から引き離し、救いの道を閉ざしてきたのです。
私たちの信仰が、神様との生きた関係ではなく、人間の知恵や権威を第一とする宗教になってしまうなら、私たちもパリサイ派の人々や律法学者と同じことになってします。
実際に、そのような価値観がどれだけキリスト教の中にも蔓延しているかを考えると、胸がつぶれそうになります。
私たちには、イエス様が必要です。
救いの道を拓くため、イエス様はこの地上に来てくださいました。
十字架と復活、もちろんそれも大切です。
しかし何よりも先にイエス様がして下さったのは、私たち人間の友になるという事でした。
イエス様は友として、私たちとともに歩んで下さり、私たちとともに食事をし、私たちと語り合い、私たちとともに泣き、私たちとともに笑って下さるのです。
イエス様は、このように言っています。
マタイ 11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
宗教などという重荷は下ろしましょう。
そして、イエス様との生きた関係の中で、喜びをもって生きていこうではありませんか。