ルカ11:5-13 『ルカ52 求め、捜し、たたき続ける』 2016/03/13 松田健太郎牧師
ルカの福音書11:5~13
11:5 また、イエスはこう言われた。『あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに生き、『君。パンを三つ貸してくれ。
11:6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。
11:7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締りもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
11:8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって必要な物を与えるでしょう。
11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
11:10 だれであっても、求める者は受け、探す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
11:12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物をを与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」
今日も、先週に引き続き、祈りに関してのメッセージです。
なので、少し先週のおさらいをしておきましょう。
先週は、イエス様が教えてくださった祈り、“主の祈り”を通して祈りの極意を学びました。
祈りの極意は、私たちが自分の願いを叶えてもらおうとすることではなく、私たちの思いが神様の御心に近づいていくという事でしたね。
主の祈りで語られていることはすべて、自分中心の価値観から、神様中心の価値観へと変換されていくものです。
なぜなら、どんな時でも神様の御心が最善だからです。
私たちは自分の思いが実現することを求めてしまいがちですが、神様の計画は私たちの思いを遥かに超えて素晴らしいものなのです。
ところが、今日の聖書個所で話されていることは、それとは逆のメッセージとしてよく引用されています。
今日の聖書個所を通して、「神様に自分の願いを伝えなさい。すぐに叶えられなくても、何度も何度も祈り続けていれば、やがて神様は心を変えてあなたの願いを叶えてくださる。」という事が教えられるのです。
もしかすると皆さんも、そのように理解してこの個所を読んでいたかもしれません。
でも、それではその直前の話と矛盾することになってしまいます。
では、今日の聖書個所を通してイエス様が教えようとしていたのは、どんなことだったのでしょうか?
① イエス様のたとえばなし
まずは、イエス様のたとえ話の意味を考えてみましょう。
11:5 また、イエスはこう言われた。『あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに生き、『君。パンを三つ貸してくれ。
11:6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。
11:7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締りもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
このたとえ話の主人公は、あなた自身です。
話を聞いている当人に、このシチュエーションを考えてもらいたかったのです。
だから私たちも、自分自身の身に起こったこととして想像してみましょう。
ある夜、突然あなたの家に旅人が訪れました。
いきなり私たちには考えにくいシチュエーションですね。(笑)
イスラエルは砂漠の文化ですから、旅人が突然訪れるという事はしばしばありました。
そして砂漠では、旅人はもてなさなければならないという暗黙のルールがあります。
人々はそうやって支え合っていかなければ、生きていくことができないからです。
さて、突然訪れた旅人をもてなそうにも、家には食べさせるものが何もありません。
そこであなたは、近所に住む友人の家に行ってパンを貸してくれないかと頼みます。
ところが友人は、もう家族も寝てしまったので、パンはあげられないと言いました。
大家族が一つの部屋で雑魚寝していると思ってください。
家族が寝てるこの時間に、家族を起こすことなくパンを持ってくるのは無理と言うものです。
こういう状況を想像してもらう中で、イエス様はこのように言いました。
11:8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって必要な物を与えるでしょう。
友情だけで、この人が頼みを聞いてくれるわけではありません。
でもあなたが切実に頼み続けるなら、友人の心も動いて、あなたの頼みを聞いて、必要な物を与えてくれるでしょう。
そして、有名なこの言葉に繋がっていくのです。
11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
先ほども言いましたが、主人公はあなた自身ですね。
話の流れからすると、これは祈りの話であり、ここに登場する友人は神様のことです。
だから、「たとえ神様が望んでいなくても、熱心に祈り続けるなら神様はそれを与えてくれます。」という解釈が生まれてきてしまったりするわけです。
でも、この話にはもうひとり登場人物がいますね。
あなたがもてなそうとしている旅人です。
あなたは自分のために何かを友人に求めているのではなく、旅人をもてなすためにパンを求めているのです。
つまりこの話は、自分では祈って神様に求めることができない誰かのために、私たちがする執り成しの祈りについての話しだという事なのです。
私たちクリスチャンは、自分の願いが叶う事ではなく、神様の御心を求めるように主の祈りで教えられました。
でも、まだ神様との関係を築いていない人は、自分でそれを求めることができません。
だから私たちが祈るのです。
このたとえ話でイエス様が話しているのは、祈りは祈りでも執り成しの祈りであり、福音を伝えるためのミニストリーの祈りだという事がわかるのです。
② 求め続け、捜し続け、たたき続ける
さてイエス様は、「求め、捜し、たたきなさい。」と言われました。
この言葉をもう少し忠実に訳そうとすると、「求めつづけなさい、捜しつづけなさい、たたきつづけなさい。」と言う言葉になります。
ただ求め、捜し、扉を叩くのではないんですね。
私たちは必要を感じれば、神様に求めてみる事、捜してみる事、扉を叩いてみることはするかもしれません。
しかし、ちょっと試しに求めてみたところで、神様からの明確な答えが与えられるとは限りません。
神様に祈っては見たけれど、特に何かが起こるわけではない、答えが与えられるわけでもない。
すると多くの場合、私たちはすぐに諦めてしまうのです。
「あ、これは御心じゃなかったんだな」とか、「神様は私を愛していないんじゃないか」とか、「神様なんていないんじゃないか」という結論に急いでしまうのです。
祈りはすぐに答えられないかもしれない。
でも、私たちは簡単に諦めてはいけません。
諦めることなく、求め続け、捜し続け、たたき続ける必要があります。
それは、そうしなければ神様が答えてくださらないからでしょうか?
もちろんそうではありません。
神様はこの友人のようでなく、私たちに与えたいと願っているのだから、すぐに答えがないからと言って諦めてはならないのだというのが、イエス様の話のポイントです。
神様は与えようとしている。
でもそれには時があります。
そしてその時まで、私たちは求め続ける必要があるのです。
私たちは、神様の時を待って祈り続けることをしないために、どれほど多くの祝福を逃してしまっている事でしょう。
ましてやここで語られているのは、誰かのためにする執り成しの祈りです。
私たちは、自分では祈り、求めることができない誰かのために、心から求め続け、捜し続け、たたき続ける祈りをしていくべきなのではないでしょうか。
その時私たちには、その答えが必ず与えられると、イエス様は約束してくださっているのです。
③ 聖霊を与えてくださる
さて、このたとえ話はこのように続きます。
魚を求める子供に、似ているからと言って危険な蛇を与える父親はいません。
卵を求める子供に、これまた似ているからと言って、毒をもつサソリを与える父親もいません。
欠けだらけ、問題だらけの私たちでさえ、子どものためには良い物とを与えたいと願えるなら、ひとり子を与えるほどに私たちを愛している神様は、もっと素晴らしいものを与えてくださるに違いありません。
神様は、どんな良いものを私たちに与えて下さろうとしているのでしょうか?
ルカの福音書には、明確に記されていますね。
11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物をを与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」
求める人たちに与えられるのは、“聖霊”です。
私たちは、神様を知らずさまよって訪れた旅人たちに、“聖霊”と言うパンを友となってくださった神様に求めて祈るのです。
なぜなら、第一に聖霊によらなければ神様との関係の回復はないからです。
Iコリント 12:3 ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」ということはできなません。
第二に、聖霊こそが私たちに最善の答えである、神様の御心を教えてくださるからです。
Iコリント 2:11 いったい、人の心のことは、その人の内にある霊のほかにだれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
第三に、聖霊は私たちを導くだけでなく、私たちに御心を成し遂げるための力を与えてくださるからです。
使徒の働き 1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。
私たちの周りには、神様から直接助けを受けることができていない旅人たちがいます。
それは、家族かもしれませんし、友だちや同僚、赤の他人化もしれません。
私たちは、その人たちが神様とであるように祈り求めましょう。
その祈りは、すぐには実現しないかもしれない。
でも、あきらめず、祈り求め続け、捜し続け、たたき続けましょう。
神様はその祝福を与えたいと願っておられるのですから。