ルカ10:38-42 『ルカ50 どうしても必要なこと』 2016/02/28 松田健太郎牧師
ルカの福音書10:38~42
10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。
皆さんはどんなことを大切にして生きているでしょうか?
何を大切にしているかという事によって、いろんな事が変わるものだと思います。
例えば、会社が何を大切にしているかという事。
社長が儲かることが大切な事なのか、利益を社員に還元することが大切なのか、あるいは社会に貢献することが大切なのかによって、会社のあり方は変わるでしょう。
結婚生活に何を求め、何を大切にしているかという事は、幸せな夫婦の関係を築く上でとても大切な要素です。
この価値観が一致していないと、あらゆる所ですれ違いが起こりますから、結婚生活を保っていくことさえ難しくなることがあります。
そして私たちは、生きていく上で何か大切にしているものがあって、何を大切にしているかによって人生観が違い、生き方が変わります。
その価値観次第で、私たちは同じような環境の中にいても、幸せに生きられるか、不幸だと感じるかという事まで変わってくるものなのです。
さて、私たちは2016年、イエス様の弟子となり、神様の働き手として成長することをテーマにしていきたいと思っています。
イエス様の弟子として、神様の働き手として、私たちは何を大切にしていく必要があるのでしょうか?
1. マルタのいらだち
今日の聖書個所では、マルタとマリヤと言う姉妹が登場しています。
この姉妹にはラザロという兄弟がいて、ラザロが死んで蘇るという話もありますね。
マルタとマリヤは、イエス様がとても仲良くしていた家族で、彼らの家を何度も訪れているんです。
ある意味、とてもうらやましい環境ですね。
この時にも、イエス様たち一行はこの姉妹の家を訪れました。
イエス様と弟子たちはもちろん、何人もの人々がこの家に入ってきたと思います。
たくさんの来客ですから、それをもてなす姉妹は大変です。
ご飯を作ったり、お茶を入れたり・・・。
ところが、姉のマルタがお客さんたち一生懸命に家事をしているのに、妹のマリヤはいつの間にかお客さんたちとイエス様の前に座って、話を聞いているのです。
姉のマルタは、それを見てカチンと来てしまいました。
自分はこんなに一生懸命にイエス様に仕えて働いているのに、マリヤと言ったら何だ!
こんな不公平が許されてはならない!
そう思って、能天気にニコニコ座っているマリヤを見ていると、マルタの中で怒りはどんどん大きくなって行きました。
そしてその怒りは、次にそれを知っていて何も言わないイエス様にも向けられたのです。
マルタはついにイエス様のもとに来ると、怒りを露わにしてこう言いました。
「イエス様、私ばっかりこんなに奉仕して、妹はそれを見ていて何もしようとしないんです。あなたはそれを見て、何ともお思いにならないのですか!? 妹に、私を手伝うようにイエス様の方から言ってください!」
イエス様には、とんだとばっちりですね(笑)。
まぁ、ここまでは言わないものの、マルタの気持ちがわかる方もいるかもしれませんね。
幸い僕は、この教会でその手の話は聞いたことがありませんが、言い出すことができないだけで、「私はこんなに色々奉仕しているのに、あの人は何もしない。」という事を密かに思っている方がいらっしゃるかもしれません。
でもそんなマルタに、イエス様はこのように言ったのです。
「ああマルタ、マルタ、あなたはいろんなことに気を使っていますね。でも、本当に大切な事、どうしてもするべきことはひとつです。マリヤは、その良い方を選んだのだから、それを取り上げてはいけない。」
2. 自分が基準になること
ひとつ気を付ける必要があるのは、これは仕事なんて止めてイエス様の言葉だけを聞こうという話ではないという事です。
マルタのように人々をもてなし、お茶を入れたり、ご飯を作ったりという働きをする人は、もちろん大切です。
誰かが、あるいは自分自身が仕事をし、ご飯を作るという事をしなければ、私たちはどうやって生きていくことができるでしょう?
マルタの問題は、台所仕事をしていた事にあるのではなく、やらないマリヤに対して怒りを募らせ。大切なお客様であるはずのイエス様に対してまで不満を爆発させたことです。
なぜ、そんな事になってしまったのでしょうか?
第一にそれは、自分とマリヤとを比較してしまったからではないかと思います。
神様は私たちを、それぞれ別の働きをするように、別々の個性、賜物を与えています。
ある人は、他の人よりも一つの物事によく気が付きますし、要領よくそれをこなすことができます。
でも、すべての人がそのことに頭が回るわけではなく、同じことをやらせても要領が悪い人もいます。
ところが他の事をやらせてみると、その立場が逆転してしまう事も少なくありません。
私たちの問題は、ついつい自分を基準にして他の人たちを比べてしまう事です。
私たちが、自分と同じようではないという事に腹を立て始めたら、私たちは個性を失いみんな同じことをしなければならなくなってしまいます。
「わたしはクリスチャンとして毎日3時間祈っています。あなたはクリスチャンなのに、どうして3時間祈らないんですか?」なんて言われてもみなさん困るでしょう?
でも私たちは、無自覚の内にそういうことをしてしまっているのです。
実を言うと、マリヤも最初から全然何もしていなかったというわけではないようです。
40節にある『妹が私だけにおもてなしをさせているのを』という言葉は、日本語の翻訳だとわかりにくいですが、本来は「妹が私だけを残しておもてなしをさせている」という意味が含まれているんです。
つまりマリヤは、イエス様たちが家に来て話し始めるまでは、ちゃんとするべき事をしていたのです。
でも、イエス様が来て話が始まったら、おもてなしなんて放りだしてその話に聞き入ってしまいました。
マルタはマリヤに比べて外交的で、おもてなしという事にとても気の利く人だったのでしょう。
それはそれで素晴らしい賜物ですが、性格も性質も違う妹に同じことを求めることはできないのです。
3. マリヤの決意
マルタが怒り出すことになってしまったのには、もう一つの原因があります。
それは、イエス様が言う『どうしても大切な事』を後回しにして、目先の仕事を一番にしてしまったという事です。
『どうしても大切な事』とは、何でしょうか?
それは、イエス様の言葉を聞くという事です。
先週のメッセージではよきサマリア人の話をしましたね。
そこで大切なポイントが何だったか覚えているでしょうか?
それは、「みんなで一生懸命がんばって、よきサマリア人になろう」・・・という事ではなく、まずは神様がよきサマリア人として私たちを愛してくださったその愛を受け取るところから、私たちも隣人を愛せるようになるという事でした。
私たちはどんな時でも、与える前にまず神様から受け取る必要があるのです。
もし私たちが、神様からの愛を受けた結果ではなく、形だけよきサマリヤ人の真似をしたらどういう事になると思いますか?
私たちは途端に自分を誇るようになるか、他のクリスチャンを見て、「なんで自分と同じようにしないんだ」と文句を言うようになります。
でも神様の愛から始まり、信仰によって出てくる行動は、決して私たちを傲慢にしたり、自分を基準に他人を比較するような方向には向かわせません。
なぜならその人は、すべての良いことは自分から出ているのではなく、神様から来ていることを知っているからです。
他の聖書個所を見てみると、このマリヤは恐らく遊女だったのではないかという事がわかるんです。
マリヤは、自分が穢れた罪人で、姉のように気が利いて、人をもてなす賜物も持っていないどうしようもない人間だという事を知っていました。
でも彼女は、ひたすらイエス様の話に耳を傾け、神様の愛をいっぱい受け止めました。
そしてある時、マリヤはついに勇気をもってひとつの決断をします。
彼女は遊女としての仕事をするために持っていた非常に高価なナルドの香油を持ち出すと、それをイエス様に注ぎ、自分の髪の毛で愛おしそうにぬぐい始めたのです。
それによってマリアは、イエス様への愛を表現し、商売道具である香油を使い切ってしまう事によって、もう遊女としての仕事から足を洗う事を表明したのです。
それを見て、イスカリオテのユダを始め、弟子たちは「もったいない」と言って怒りを露わにしましたが、イエス様はそのプレゼントを心から喜びました。
私たちは、マルタのようにいろいろなことを心配し過ぎて、思い煩ってしまってはいないでしょうか?
「自分はこんなに一生懸命にがんばっているのに、あの人は何もしていない」と比較の精神になってしまってはいないでしょうか?
イエス様は言っています。
10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。
イエス様のみことばを第一のものとし、大切にしていく事によって、私たちは内側から変えられてゆき、本当になすべきことが明らかにされていきます。
私たちはまず、マリヤのようにイエス様の前に座って、幼子のような純粋な心で、イエス様の言葉に耳を傾け、吸収していきませんか?
もちろんそれで終わってしまうのではなく、神様の愛、イエス様の愛を心から受けとめてそこから、私たちはその愛を次の人たちに流していけばいいのです。