ルカ10:25-37 『ルカ49 隣人はだれか』 2016/02/21 松田健太郎牧師
ルカの福音書10:25~37
10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
10:26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコヘ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。
私たちは、ひとりで生きていくことはできません。
時には煩わしいと思いながら、それでも私たちは、他の人と一緒に生きていかなければならない存在ではないかと思います。
そうした人の中にあって、私たちはどのような隣人を持つことができるかによって、人生は大きく変わってくるものではないでしょうか。
よき隣人と出会えた人は、思いもよらない幸せを体験することもあるでしょう。
ある人との出会いが、神様との出会いにつながり、今みなさんをこの教会に集わせているのかもしれません。
そして私たち自身が、誰かのよき隣人となることもできるのです。
隣人とは、一体だれの事なのでしょうか?
そして、どうすれば私たちは、誰かの良き隣人になれるのでしょうか?
今日は、『よきサマリア人』と呼ばれているイエス様のたとえ話から、そのことを共に学んでいきたいと思います。
1.『よきサマリア人』
ある時、イエス様は律法学者からの挑戦を受けました。
「どうすれば、天の御国に入ることができるのでしょうか?」
その質問に対して、イエス様は質問で答えます。
「あなたはどう思いますか? 聖書にはどう書かれているでしょうか?」
彼は律法の専門家でしたから、このように聞かれると答えないわけにはいきません。
そこで彼は、「神を愛することと、隣人を愛することだ」と答えました。
これはまさに、聖書の中に書かれている事であり、すべての律法をまとめるとこの言葉に集約できるわけですから、理想的な答えだという事ができます。
そこでイエス様は答えました。
「あなたの言う通りです。あなたもそれを実行しなさい。」
『それを実行しなさい』と言われているという事は、今までは実行できていなかったという事です。
だから「あなたは、もしそれをする事ができれば天の御国に入ることができる。できるものならやってみなさい。」と言われたわけです。
いくぶんムッとしながら、この人はイエス様に尋ねます。
「できていないと言うのですか? それでは、隣人とは一体だれなのでしょう? 隣人を愛するとはどういう事なのでしょうか?」
その質問に対してイエス様がしたのが、このたとえ話なのです。
さて、エルサレムからエリコに向かう道での出来事です。
ある人が人が一人でこの道を歩いていて、強盗に襲われ、半殺しにされてしまいました。
そこに宗教指導者でみんなから尊敬されている祭司や、レビ人が通りかかりましたが、ふたりともこの旅人を無視して、通り過ぎてしまいました。
3番目に登場したのは、サマリヤ人でした。
サマリヤ人と言えば、ユダヤ人たちとは仲が悪く、登場するときは大抵悪役です。
この話を聞いていた人たちは、祭司やレビ人でさえ何もしなかったと言われるなら、このサマリヤ人がどんな酷いことをしでかすのだろうかと期待して聞いていたことでしょう。
ところがこのサマリヤ人は、倒れた旅人を起こし、介抱し、宿屋に連れて行って「この旅人を介抱してあげるように」と主人にお金を渡し、「足りなければ帰り道でお金を払う」とまで言ったというのです。
「この旅人の隣人になったのは誰でしょうか?」
と尋ねるイエス様に、律法学者は「あわれれみをかけてやった人です。」と答えます。
『サマリヤ人』と口にするのも嫌だったのです。
イエス様は言います。
「これが、隣人を愛するという事です。あなたも同じようにしなさい。」
2.『隣人を愛する』ことはできるか?
祭司やレビ人は、どうしてこの旅人を放置してしまったのだと思いますか?
彼らが悪い奴だったから・・・ではなく、彼らには彼らなりの理由がありました。
ひとつには、倒れているこの旅人は、すでに死んでいるかもしれないという事です。
死体に触ると汚れてしまうので、7日間きよめなければならないと律法には書かれています。
もしここに倒れている旅人が死んでいたら、祭司が触れてしまう事によって、これから行うべき儀式を執り行う事ができなくなってしまうかもしれなかったのです。
第2の理由は、倒れているこの人は、盗賊のおとりかもしれなかったからです。
盗賊がおとりをたてて、倒れている人を助けようとした途端に茂みから襲い掛かってくるという事も少なくありませんでした。
こういう場合は近づかず、放っておくのが自分の身を守るための常識だったのです。
彼らの行動は、彼らが職務に忠実であったり、自分を守る知恵を持っていたからに他なりません。
しかしそのために彼らは、この旅人を隣人として愛することができず、神様の御心にかなう事ができないとイエス様は言っているのです。
このように考えていくと、天の御国に入るとは、なんとハードルが高い事でしょう。
愛するという事に関して神様が私たちに求めているのは、ちょっとやさしくしてあげるという話しではありませんでした。
その人が困っている時、自分を犠牲にしてでもその人のために尽くしてあげるという事なのです。
そして隣人とは、私たちにとって身近な人、好きな人の事ではありませんでした。
それどころか、私たちから遠く、敵のように嫌っている人たちに近づいていくことを、神様は求めていたのです。
私たちが天の御国に入るためには、このようにして隣人を愛する必要があります。
もしそうなら、皆さんは、天の御国に入ることができるでしょうか?
僕の知る限りでは、このようにして天の御国に入る事ができる人は、ひとりもいません。
そうです。
イエス様は、不可能なことを言っているのです。
もちろん、意地悪で言っているのではありません。
それは確かに愛であり、正しい事だと誰にも納得できたことでしょう。
でも、できないのです。
正しいとわかっていて、どうしてできないのでしょう?
できない理由(言い訳)はいくらでもあげる事ができますが、シンプルに言うならばそれは私たちも、助けるべき相手も、みんな罪人だからです。
私たちが、もともと神様に作られた通りの状態にあり、神様の御心に従って生きることができているなら、天の御国に入る事ができるかと心配する必要はありません。
私たちはもう、天の御国に生きているという事ができるでしょう。
でも私たちはそうではないのです。
私たちは神様に背き、自分が神になろうとし、神様が創って下さったようには生きていません。
だから私たちには救いが必要であり、それは神様から与えられる必要がありました。
だからイエス様は、私たちのために十字架で命を投げ出し、私たちの罪の支払いをする必要があったのです。
3.隣人を愛する
では、私たちは「隣人を愛する事なんてできないから、仕方がないね、人間だもの。」と言って終わりでいいのでしょうか?
そうではありませんね。
聖書は私たちに、愛することの大切さを繰り返し教えています。
ヨハネ 13:35 もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
と、イエス様ご自身も言っています。
では、どうすればいいのでしょうか?
どうすれば、隣人を愛することができるほどに、私たちは成長することができるのでしょうか?
そこでひとつ、想像してみていただきたいことがあります。
それは、ここで助けられた旅人が、この後どうなったかという事です。
たとえ話に出てきた旅人は、普通のユダヤ人です。
サマリヤ人を嫌い、関わろうともせず、悪口ばかり言ってきました。
でもこうして、命を助けられた後、彼はこのサマリヤ人をどのように見るでしょう?
相変わらず嫌い、関わろうとせず、悪口ばかり言うでしょうか?
このサマリヤ人に恩を感じ、このサマリヤ人を愛するのではないでしょうか?
そしてこのサマリヤ人が困っていたら、助けようとするのではないでしょうか?
それでは、このサマリヤ人自身ではなく、彼が大切に思っている人が困っている時ならどうでしょう?
やはり、この旅人はサマリヤ人の家族や友人を愛し、助けたいと思うのではないでしょうか?
私たちは、自分たちがまずこの旅人なのだという事に気が付く必要があります。
私たちは、神様に対して背き、存在を無視し、神様が創ったものを台無しにしてきた、神様の敵です。
そんな私たちのために、神様はひとり子を送り、犠牲にして下さったのです。
こどもは、親にとって命よりも大切な存在です。
神様は、敵である私たちのために、命より大切な存在を犠牲にしてくださったのです。
それは、どれほど大きな愛でしょうか?
その愛で愛されている事を知った今、私たちは神様を心から愛しています。
その神様が、大切にしている人たちがいるのです。
その神様が、私にしたのと同じように、命より大切なものをかけた存在が、そこにいるのです。
それが、私たちの周りにいる人たちです。
そうやって、私たちが周りにいる人たちを愛し始めたとき、今度はその人たちが、私たちを通して神様の愛を知ります。
そして、私たちがその人たちを愛したように、その人たちの隣人を愛し、助けるようになっていくのです。
もちろん現実には、そんなに簡単な事ではありません。
罪人となってしまった私たちは、心が歪んでしまったりしていますから、不用意に助けると共依存的な関係が生み出されてしまったり、私たちが対応しきれず、燃え尽きてしまったり、様々な問題が起こりうるでしょう。
しかしそれは別の話として、私たちには隣人を心から愛するという使命が与えられていることを、忘れないでいてほしいのです。
皆さんの隣人はだれでしょうか?
私たちがその事を自覚して、隣人に近づいていく時、私たちはイエス様に似たものとして成長していくための一歩を踏み出し始めるのです。