ルカ10:17-20 『ルカ48 私たちの喜び』 2016/02/07 松田健太郎牧師
ルカの福音書10:17~20
10:17 さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」
10:18 イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。
10:19 確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。
10:20 だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」
礼拝のメッセージでルカの福音書のシリーズが始まって、すでに一年以上経っています。
昨年の後半位からは、イエス様が弟子を訓練し、送り出すというテーマになりましたね。
これは、2016年度の、クロスロードのテーマでもあります。
わたし達も、イエス様の弟子となり、“働き人”として生きていけるように、そしてより多くの働き人を求めていく事が出来るようにと、心から願っています。
9章の前半では、イエス様の権威を受けて12弟子たちが送り出され、10章では70人の弟子たちが送り出されました。
先週のメッセージでは、イエス様が70人の弟子たちに教えた伝道の秘訣を、方法から心構えまでを共に学びましたね。
彼ら70人の弟子たちは、そうして悪霊を追い出し、病を癒す権威をイエス様から与えられ、それぞれの地へと旅立って行ったのです。
さて、今日はそこから数週間、あるいは数か月後の話です。
あの70人の弟子たちが、それぞれの使命を終えて帰ってきたのです。
1. イエス様の御名
70人の弟子たちは、大喜びで帰ってきました。
10:17 さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」
彼らがなぜ喜んでいたのかと言うと、イエス様が教えてくださったようにイエス様の御名を使うと、悪霊たちでさえも、彼らに服従するのを体験したからです。
悪霊とは何でしょうか?
悪霊とは、悪魔の手下ようなもので、文字通り悪い霊ですね。
この世界は、このような悪霊で満ちています。
私たち人間は神様に背き、神様か離れてしまったので、気づかないうちに悪魔や悪霊に支配されて、奴隷のような状態になっていました。
それが今や、イエス様によって悪霊から解放され、イエス様の名前によって命じると、あの悪霊が自分の言葉に従って去っていく。
悪霊による影響や支配の中にあることはあっても、悪霊が自分たちに従うなどという事は、見たことも聞いたこともない出来事だったのです。
一体、どうしてそのようなことが起こるのでしょうか?
それは全て、イエス様の御名によるのだという事を、彼らは経験しました。
イエス様の権威が授けられるというのは、そういう事を言うのです。
それは、12人や70人の弟子たちだけの事ではありません。
私たちにもまた、すでにイエス様からの権威が与えられているのです。
私たちは祈る時に、何と言って終わりますか。
「イエス様の御名によって祈ります。」と言ってはいないでしょうか?
私たちがイエス様の御名によって祈るなら、その祈りはイエス様の権威によって祈られる言葉だという事なのです。
私たちの名による権威ではダメですね。
私たちは、神様がもともと作られた本来の姿から大きく外れてしまった罪びとの状態ですから、そこには何の力も、権威もありません。
でも、イエス様の御名が使われる時、それは小切手の署名のように力を発揮し、神様からたくさんの業や、力や、祝福を引き出すことができるのです。
でも忘れないでください。
イエス様の御名が使われるなら、そこにはイエス様の名前を使うだけの責任も伴うという事です。
私たちがイエス様の御名によって求めるなら、それはイエス様の御心にかなったものであるべきでしょう。
私たちがイエス様の御名によって見当違いのものを求めてしまうなら、それはイエス様の御名と権威を汚すことにもなります。
罰が下るとかそういう事ではなく、私たちはイエス様を心から愛するからこそ、イエス様の御名をも大切にしたいと思うのではないでしょうか。
2. サタンは天から落ちた
さて、そんなわけで弟子たちは、イエス様が教えたことに従って、イエス様の御名で人々を癒し、悪霊を追い出しました。
彼らが心から信じてそれをした時、その祈りは現実のものとなったのです。
だから弟子たちはその事を喜び、イエス様の御名で祈ることの素晴らしさを心から味わいました。
その報告を聞いたイエス様は、このように言いました。
10:18 イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。
そうして弟子たちが送り出され、イエス様の御名によって様々な奇跡を体験したとき、イエス様はサタンがいなずまのように天から落ちるのを見たというのです。
それは、サタンの野望が砕かれ、そこにイエス様の勝利があったことを表しています。
サタンと戦い、勝利するのは私たちではなく、イエス様です。
でもその勝利は、イエス様ご自身が何かをする事によってではなく、弟子たちが神の国を述べ伝えた時にもたらされたという事が、私たちにはとても興味深いことではないでしょうか。
悪魔、悪霊はいつも人々を支配しています。
そして私たちクリスチャンをも惑わし、誘惑し、働きの妨害をしてきます。
しかし、私たちが立ち上がり、イエス様の御名によって神の国がもたらされ、福音が伝えられる時、そこに勝利があるという事なのです。
ヤコブの手紙にも、このように書かれています。
ヤコブ 4:7 ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなた方から逃げ去ります。
私たちは、悪魔を侮るべきではありません。
しかし、悪魔を恐れる必要もありません。
イエス様にあって、私たちはもう勝利しているからです。
立ち上がって、福音を述べ伝えましょう。
そして、神の国が悪魔、悪霊の支配を断ち切り、人々を解放していくのを見ようではありませんか。
3. 名が天に書きしるされていること
さて、悪霊が彼らの命令に従って人々から離れていくのを喜んでいた弟子たちに、イエス様はこのように言いました。
10:19 確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。
10:20 だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」
確かに悪霊は彼らに従います。
神様の守りの中にある、彼ら弟子たちに、悪霊は害を与えることすらできません。
私たちにも、そのことは素晴らしいことのように聞こえます。
しかし、それよりももっと素晴らしいもの、もっと喜ぶべきものがあるとイエス様は言います。
それは、私たちの名が天に書き記されている事だと言うのです。
悪霊を追い出し、人々を解放することは素晴らしいことであり、何よりも大切な事のように思えますが、自分の名が天に記されていることをまず喜ぶというのはどういう事なのでしょうか?
それは、多くの働き手が経験するある問題があるからではないかと僕は思います。
私たちは福音を知り、自分が神様から離れていた罪人だったという事に気づき、悔い改め、イエス様の十字架によってその罪が贖われたという事を信じました。
救いは私たちの力にあるのではなく、神様からの一方的な恵です。
でも私たちは、救われて今度は福音を伝える側になると、福音を伝えることに夢中になっていきます。
もちろん、それ自体悪いことではないのですが、私たちは福音を伝えることに夢中になってしまって、いつの間にか福音に生きることを忘れてしまう事があるのです。
私たちは、自分自身も救いを必要とする、罪人のひとりであることを忘れてしまってはいないでしょうか?
私たちは、他の人たちが助けを必要としているのと同じように、自分自身も助けを必要としている人間のひとりだと言うことを忘れてしまっていないでしょうか?
イエス様に従い、聖霊の力を受けているなら、私たちの周りで素晴らしいことが起こり、悪霊が逃げていくのは当然の事です。
でも、そこに起こる出来事や、働きをする事ばかりに夢中になってしまうと、福音を伝える私たち自身が福音的な生き方をしないという矛盾が起こります。
私たちはいつの間にか、神様の恵から離れ、自分の力を頼りとしてしまうのです。
僕自身もこのような状態になって燃え尽きそうになったことがあります。
神様が新しい出会いとともに、歩むべき道を示してくださるのでなければ、牧師であることを辞めていたかもしれません。
そして、多くの牧師たちが、実はこのような状態に陥っているのが日本の現状なのです。
訓練を受けた牧師たちでさえそうなってしまうならば、働き手になろうとする私たちには、いつでも、誰にでも起こりうる問題だという事ではないでしょうか。
私たちは、聖書に書かれているこのみ言葉にしがみつかなければなりません。
エペソ 2:8 あなたがたは、恵のゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
私たちは、福音を伝えるものだからこそ、まず福音の中に留まりましょう。
そして、どんな奇跡が起こったかより、どんなたくさんの人たちを導いたかより、どんなに感動があり、すばらしい出来事が起こったという事よりも、私たちの名が天に刻まれているというその事実をこそ喜んでいましょう。
私たちが福音の中に生きる限り、必ず道は拓かれ、行き詰ることはないのですから。