2016年イブ礼拝 2016/12/24 松田健太郎牧師

僕は時々こどもに勉強を教えるのですが、うまく伝わらなくてイライラすることがよくあります。
1年生の時は、足し算引き算でも苦労しましたね。
僕たちからすれば、二けたの足し算とか引き算なんて簡単だと思いますが、子どもにはそうではないんです。
繰り上がったり、10の位から借りてきてというのが難しいようなのですが、話していると全然かみ合いません。
何がわからなくて、何ができないのかがさっぱりわからなったりします。

こどもの方も、うまく伝えられなくてイライラしているのがわかります。
そうやって親子喧嘩が始まったりするんですよね(笑)。

思えば、互いにわかりあうという事はとても難しい事です。
同じ血を分けた親子でも難しいですから、元々他人だった夫婦間は難しいですよね。
ましてや、赤の他人と分かりあう事なんてすごく難しい事です。

ちょっと、この動画をご覧ください。

氷の張った池にはまってしまった犬を助けるために、おじさんが服を脱いで近づきますが、犬は恐怖のためかおじさんの手にかみついてしまいました。
このおじさんが何をしようとしているのか、犬にはわからなかったんでしょうね。
おじさんがこの犬に、助けようとしているんだという事を伝えられたら・・・。

私たちも、お互いの意図するところがわからないために、互いに傷つけあってしまったり、勝手に傷ついてしまう事がどれほど多い事でしょう?
そんなすれ違いが夫婦喧嘩にもなるし、大きくなれば戦争や、民族間の争いになってしまったりもするのです。

さて、明日はクリスマスです。
クリスマスというのは、多くの皆さんはご存知だと思いますが、イエス・キリストの誕生日・・・ではありませんよね。(笑)
イエス様が何月何日に生まれたかという事は、誰にもわかりません。
また、クリスマスを祝いなさいという事は、聖書の中にはどこにも書かれていません。
それなのに、どうしてクリスマスを祝うのかと言えば、それを祝わないではいられないからです。

神様は、愛をもって私たちを創造しました。
そして私たちに絶え間なく愛を注ぎ続けています。
私たちを創造した神様は全知全能ですから、私たちを理解する事に問題はありません。

しかし私たち人間は、神様から離れて自分の力で生きる道を選んでしまいました。
私たちは、神様を見る事も、聞くことも、感じる事も出来なくなりました。
私たちにとって神様は、とても遠い存在になってしまったのです。

私たちは神様を、私たちの願い事を叶えてくれる自動販売機のような存在として扱うようになりました。
そして神様というのは、ルールを押し付けて正しさを求め、悪い事をすれば罰を与えるようなイメージとして考えるようになりました。
そして、神様が願いの通りにしてくれなかったり何か悪い事が起こると、神様に逆切れするのです。
神様の愛は、私たちには届かない。
手を差し伸べて下さる神様の手に、私たちはかみつこうとするばかり。
私たちと神様の間には、誰も越える事ができない大きな溝ができてしまったのです。

私たちは、どうしてクリスマスをどうして祝うのでしょう?
それは、神様がその溝を乗り越えるため、自ら人となってこの地上に来て下さったからです。

イエス様は、旧約聖書で預言されていたように、処女マリヤから生まれました。
しかし、彼らが預言通りベツレヘムの町に来た時、宿屋には泊る場所もなく家畜小屋に追いやられたことは象徴的です。
それはまるで、私たちの心の内には神様の居場所はないという様でした。
だからイエス様は、神様として、あるいは救い主として盛大に迎えられるのではなく、汚くてくさい家畜小屋で生まれ、飼い葉おけに寝かされました。
イエス様は大工として育ち、普通の人と同じように仕事をしました。
神様なのに、私たちと同じように過ごしたのです。
喜びも、楽しみも、そして痛みも、怒りも、悲しみも、やりきれない思いも、イエス様は私たちと同じように感じ、私たちと同じように生きました。

そしてイエス様は、私たちにたくさんの事を教えてくれました。
説教臭い、宗教の教えについて・・・ではありません!
むしろそのような宗教者たちから、私たちを守ってくれました。
イエス様が教えてくれたのは、神様とともに生きる事の喜びと、その素晴らしさです。
そしてイエス様は、私たちの痛みを理解し、共感し、ともに泣き、ともに笑いました。

そしてイエス様は、私たちのために十字架にかかり、命を投げ出してくださいました。
神様が命をかけて、その愛を私たちに示して下さったのです。
聖書はこの様に教えています。

ヨハネ 15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

神様の命をかけた愛が、私たちの上には注がれています。
そして、誰にでもそれを受け取る事ができるのです。

イエス様は何のために、命を投げ出して下さったと思いますか?
それは、私たちが神様との関係を回復し、神様が創って下さった本当の私たちとして、永遠に生きるためです。
私たちの幸せは、私たちが最初にそう創られたように、神様とともに生きる中にあるからです。

それは、私たちが時として願うように、何でも思い通りになるというような生き方ではありません。
今まで通り苦難もあれば、問題もたくさん起こります。
それでも、私たちがひとりで、自分の力だけで生きるのとは違う、平安と喜びがそこにはあるのです。

イエス様は言います。

マタイ 11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

すべての重荷を下ろして、イエス様と共に生きてみませんか?
イエス様は、皆さんの心の扉の前に立って、その扉をたたいています。
私たちはただその扉を開けて、イエス様を招き入れれば良いのです。

祈りましょう。

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