ルカ9:43b-45 『 ルカ42 隠されていた真理 』 2015/12/20 松田健太郎牧師

ルカの福音書9:43b~45
9:43b イエスのなさったすべてのことに、人々がみな驚いていると、イエスは弟子たちにこう言われた。
9:44 「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。」
9:45 しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。また彼らは、このみことばについてイエスに尋ねるのを恐れた。

クリスマスが何の日か、皆さんはご存知でしょうか?(笑)
今日教会にいらっしゃる皆さんの中で、「知らない」という方はまずいないだろうと思いますが、「サンタさんの誕生日!」と答えるのがもはやお約束だったりしますね。
さてこのクリスマス、実は「キリストさまの誕生日」と言うわけではない事も、多くの皆さんはご存知だと思います。
イエス様が生まれたのは、本当は春先だったのではないかと言われていたりします。
でも、実際にはいつだったか、誰も知らないんですね。
記録されていないわけですから、誕生日の日にちがいつだったかという事は、全然大切な事ではなかったという事がわかります。

色んな説がありますが、クリスマスはもともと、ローマで祝われていた収穫のお祭りだったと言われています。
ローマ帝国の国教がキリスト教になった後、民衆が楽しみにしていたこの日のお祭りを続けるために、イエス様の誕生を祝う日としたのだそうです。
イエス様とは、何の関係もない日だったわけです。
ユダヤ人でもローマ人でもない私たちにとっては、クリスマスを祝う理由など全くないと言えば、ないという事になります。
だから、クリスマスをあえて祝わないクリスチャンの人たちもいますね。
それはそれで、正しい事なのだろうと思います。

その一方で、僕は思うのです。
祝わなくてもいいけど、別に祝ってもいいじゃない? と。
クリスチャンのお祭りとしてこれだけ一般的になった日なのですから、教会の外の人たちにイエス様の事を伝える素晴らしい機会となります。
それに、それがいつだったかはともかくとして、神様がイエス様を地上に送られたことを改めて思い出し、喜び、祝う事は、素晴らしい事だと思うからです。

① 神様の約束
では、イエス様が誕生したという事の、何がそんなに素晴らしかったのでしょうか?
第一にそれは、神様の約束の成就だったからです。

初めに、神様がこの世界を創造した時、すべては完璧で、素晴らしいものでした。
そこに私たち人間が、神様に似た者として、神様を愛し、神様に愛される者として創造されました。
人間にはこの世界を管理する仕事が与えられ、全てのものが喜びに満ち溢れていました。
しかし、ある時事件は起こったのです。
悪魔の誘惑に乗り、人は神様に背いてしまったのです。
その時人は霊的に死んだ者となり、神様との関係が完全に断絶してしまいました。
神様から離れた人間は、神様が創ったままの素晴らしい存在ではなくなり、この世界も呪われた物となってしまったのです。
これで人も、この世界も終わり。
全てが台無しになって、滅ぼされるしかない存在となった・・・はずでした。

しかし神様は、人とのこの世界をそのままで終わらせる事はしなかったのです。
人が罪を犯し、神様から離れ、滅びるべき存在となったその時から、神様は人を回復させるための計画を始めました。
そして神様は約束して下さったのです。
私たちの元に救い主を送り、私たちのために救いの道を拓くことを。

神様はその約束を果たすために、アブラハムという一人の人を選びました。
そして、アブラハムの子孫から救い主は生まれると約束したのです。
その約束は、アブラハムと妻であるサラとの間に生まれたイサクに受け継がれました。
イサクからヤコブへ、ヤコブからユダへ、そしてアブラハムの子孫はその数を増やし、イスラエルと言うひとつの民族、ひとつの王国を形成していったのです。
救い主を生み出す約束は、ダビデ王の上に改められ、ユダ王国の王族の家系を通して受け継がれていきました。

そんな中、神様はイスラエルを、色んな方法で神様の道に導こうとしていました。
時には祭司を通して、時には裁き司を通して、時には王を通して、時には預言者を通して導いていましたが、どれもうまくいきませんでした。
人々は何度も神様から離れ、自分にとって都合の良い事を願える偶像を造り、欲望のまま罪の道へと走り続けたのです。

彼らが神様に背き続けたために、やがて国は南北に分裂し、北王国はアッシリア帝国によって滅ぼされ、南王国もバビロン帝国によって滅ぼされました。
ペルシア帝国の台頭によって、ユダヤ人の一部はイスラエルへと帰還しましたが、戻るとすぐに傲慢になり、神様から離れ、再びボロボロになっていったのです。

これが、罪人の姿でした。
神様がどのように手を貸そうと、人間には可能性がない。
残された唯一の道は、神様が一方的に救いの道を拓く事だけでした。
その頃神様の約束の成就を求める思いが、イスラエルの中にも広がりつつあったのです。

② 救い主の誕生
そのような待望の中、救い主イエス様は、地上に生まれました。
救い主は、どの様な方だったでしょうか?
救い主は、空から突然まばゆいばかりのの光とともに、地上に降りてきたのではありませんでした。
あるいは、どこかの国の王のように、偉い家柄に生まれてきたのでもありませんでした。

貧しい大工の家に、何の変哲もないマリヤという少女から生まれてきたのです。
それも洞窟の様に暗くてくさい家畜小屋で生まれ、飼い葉おけに寝かされました。
誕生を最初に知らされたのは、みんなから軽蔑されていた羊飼いたちと、異国の賢者達。
30年間は、普通の人として、普通の生活をし、育っていきました。
私たちと同じように勉強し、同じように働き、同じように病気になり、同じように人間関係で悩み、同じように友情をは育みました。
だから神の御子救い主イエス様は、私たちの辛さも、痛みも、すべて理解できるのです。

30歳になって、キリストとしての公生涯に入られたイエス様は、偉い人、賢い人とだけ話すのではなく、貧しい人、虐げられている人たちに寄り添いました。
病人を癒やし、目に見えない人の目を開け、歩けない人を歩かせ、こどもを失った家庭に家族を取り戻しました。
人々に、本当の幸いとはどんなものかを教え、神の国にある平安と喜びを伝えました。
周りにはいつも、病人や、罪人、取税人が群れを成し、イエス様の言葉に耳を傾けていました。

多くの人々は、イエス様こそが待ち望んだ救い主だという事に気づいていませんでした。
でも中にはイエス様こそが来るべきキリスト、救い主だという事に気が付いた人もいたのです。
しかしイエス様は、彼らが期待し待望していたキリストの姿とは全く違うものでした。
彼らは、イエス様がイスラエルの王となり、ローマ帝国の支配からイスラエルを解放し、永遠にこの地を支配して下さると思っていました。
救い主とは、政治的にイスラエルを治める新しい王の事だと思っていたのです。
救い主による支配が始まれば、世界に平和は訪れ、虐げられる人もいなくなり、みんなが幸せになれるに違いない!

でも、その時には多くの人たちが気づいていない、隠されていた真理があったのです。
それは、救い主が何のために生まれてきたかという事でした。

③ 隠されていた真理
イエス様は密かに、弟子たちにこのように伝えました。

9:44 「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。」

マルコの福音書の並行箇所では、この時イエス様が殺され、3日後によみがえるというところまで述べられたことが記されています。
イエス様はそこまではっきり言っていたのですが、弟子たちにはイエス様が何を言おうとしているのか理解できませんでした。

9:45 しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。また彼らは、このみことばについてイエスに尋ねるのを恐れた。

『彼らから隠されていた』というと、神様がそれを隠していたように感じるかもしれませんが、要は弟子たちの方が悟ろうとはしなかったのです。
イエス様はイスラエルをローマ帝国から解放し、王となり、自分たちはそれに便乗して高い地位につけると思いこんでいましたから、今のイエス様の言葉は何かの間違いか、またたとえ話だろうとくらいに思っていたのかもしれません。
でも、さらに一歩踏み込んで聞く勇気を持つこともできないまま、イエス様が王となった時には誰が次の地位に就くかという事で議論し始めたのです。

クリスマスは、イエス様の誕生を祝う時です。
そのイエス様が、何のためにこの地上に来て下さったのか、私たちはもう一度よく考えてみる必要があります。
救い主イエス様は、どこか遠くにいるようにいつも感じていた神様が、私たちのそばに来て下さり、私たちに触れ、寄り添って下さった事の現れである事は確かな事です。
確かにイエス様は、私たちを癒やし、慰め、色々な事を教えてくれました。
でも、イエス様が地上に来た最大の目的は、私たちの罪を背負うため、私たちの身代わりとなって死ぬ事によって、断絶してしまった神様との関係を回復するためだったという事です。

多くの人たちがイエス様に求めていたのは、病気を癒やし、死者をよみがえらせ、やがてイスラエルの王となってローマ帝国を倒すことでした。
私たちがイエス様に期待しているのも、もしかしたらこういう奇跡が起こる事だったり、私たちが幸せになるという事だったりというご利益のようなものかもしれません。

でも考えてみてください。
私たちが自分自身を省みてみれば、奇跡によって癒されたり、幸せになる価値のある人間なんて誰もいないというのが本当の事なのではないでしょうか?
私たちはいかに神様が創ったものを汚し、穢し、破壊し、台無しにしてきたか。
私たちはいかに神様を顧みず、自分にとって都合の良い事ばかりを求めてきたか。
私たちはいかに人を傷つけ、神様を傷つけてきたか。
そんな私たちを救うために、イエス様は命を投げ出して下さったのです。
その事自体が、何にも代え難い奇跡であり、私たちに与えられた最大のプレゼントです。

聖霊が与えられていなかった弟子たちの時代と違って、私たちにはもっと明確に、真理が明らかにされています。
私たちは自分の事ばかりを見て、神様に要求するだけである事を少しだけ止めて、神様が既に与えて下さっている途方もないプレゼントに、目を留めてみませんか?
そして、イエス様と言う素晴らしいプレゼントが与えられたことを、改めて、心から喜ぼうではありませんか。

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