ルカ9:28-36 『ルカ40 霊の目が開かれる時』 2015/12/06 松田健太郎牧師

ルカの福音書9:28~36
9:28 これらの教えがあってから八日ほどして、イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。
9:29 祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。
9:30 しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、
9:31 栄光の内に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。
9:32 ペテロと仲間たちは、眠くてたまらなかったが、はっきり目がさめると、イエスの栄光と、イエスといっしょに立っているふたりの人を見た。
9:33 それから、ふたりがイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ。エリヤのために一つ。」ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである。
9:34 彼がこう言っているうちに、雲がわき起こってその人々をおおった。彼らが雲に包まれると、弟子たちは恐ろしくなった。
9:35 すると雲の中から、「これが、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言う事を聞きなさい」と言う声がした。
9:36 この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。彼らは沈黙を守り、その当時は、自分たちの見たことのいっさい、だれにも話さなかった。

皆さんは普段、どれくらい祈りのために時間を過ごしていますか?
私たちは、やる事がたくさんあって、考えなければならない事にいつも追われていると、祈るという事をついつい忘れてしまいがちだったりします。
忙しいという状況を、祈らない事の言い訳にしてしまったりするのです。

でもイエス様は、いつも祈ることを大切にしていました。
もちろん毎日祈る時をもっていたでしょうが、大切な時や忙しくなってくると山にのぼり、ひとりになって祈る時を持っています。

祈るというのは、神様と対話することですね。
私たちは『忙しいから祈っている時間がない』のではなく、忙しいからこそ、そして大切な決断をしなければならない時だからこそ、神様に祈り、神様から導きを得る必要があります。
私たち人間は、神様に祈らないではどんな事もできないという事を、イエス様は身をもって教えてくれていたのです。

さて、しばらく前にお話しした事ですが、ルカの福音書は、イエス様ひとりが活躍する時から、弟子たちの働きに移り始めているという話しをした事を覚えているでしょうか?
イエス様はご自身が働きをされること以上に、弟子たちを教え、弟子たちがイエス様の代わりに働きをしていく事ができるように訓練し始めていました。
イエス様は一人静まり、神様の前に祈る事はどういう事か、そしてその時どんな事が起こるかという事を見せるため、弟子たちを連れて山に登ったのです。
今日は、“変貌の山”として知られるこの出来事を通して、イエス様が弟子たちに見せた事を一緒に目撃し、その意味を考えていきたいと思います。

① 祈りが霊の目を開く
イエス様はこの出来事を見せるために、弟子たち全員を連れて行く事はしませんでした。
ペテロ、ヨハネとヤコブの、3人だけを連れて行ったのです。
なぜ、イエス様は3人だけを連れて行ったのでしょうか?
イエス様はこの3人をひいきしてたのでしょうか?
そういう事ではなく、この3人が、弟子たちの中心となる12使徒の中でも、さらにリーダーシップをとっている人たちだったからです。
イエス様は、このリーダーたちを中心として弟子たちを育て、訓練しようと考えていたのです。

さて、山に登ったイエス様は早速祈り始めると、驚くべき事が起こり始めました。

9:29 祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。

第一に、イエス様は普段と全く違う姿になっていました。
そして、白く光り輝いていたといういうのです。

弟子たちは眠くて仕方がなかったと書かれていますから、夜だったのかもしれません。
そう考えると、夜の暗闇で祈っているとイエス様の姿が変わり、衣服が白く輝きだしたという事になったら、それはすごい光景だった事でしょう。
弟子たちは驚いて、眠気も吹っ飛んだことでしょう。
でも、そこにはもっと驚くべき事が起こっていました。
イエス様の隣にはふたりの人の姿があって、イエス様と会話していたのです。
それは何と、エリヤとモーセだったと言うのです。

彼らがこの時に目撃したもの。
それは、霊の目が開かれた結果、彼らに見えたものでした。
そこに見えたのは、私たちが死んだ後得る事になる栄光の体、イエス様の本来の姿です。
その姿は変わり、衣は白く輝いていました。
イエス様が復活した時、マグダラのマリヤや、何人もの弟子たちがこのイエス様を見ていますね。

霊の目が開かれる時、そこには神様が表そうとしている事の本質が見えます。
皆さんは不思議に思いませんか?
どうして弟子たちは、このふたりがモーセとエリヤだとわかったのでしょうか?
見たことなんてあるはずはないし、写真や映像も残っているわけではありません。
自ら名乗ったとも思えないし、名札がついていたわけでもないでしょう。
でも彼らは、霊の目で見ているからこそ、そこにいないはずの人たちがいる様に見え、それがモーセとエリヤだという事もわかったのだと思います。

私たちは、どうして祈る必要があるのでしょうか?
それは、私たちの霊の目が開かれて真理を見るためであり、霊の耳が開かれて神様の声に耳を傾けるためです。
イエス様もそうやって、ひとりで静まって、神様とともに時間を過ごしたのです。
だから私たちも、大切な時にこそ祈る時を持ちましょう。
霊的な目が開かれない限りは、わたし達には気づけない事がたくさんあるのですから。

② 律法と預言者
それでは、なぜそこにモーセとエリヤが立っていたのかについて考えてみましょう。
まずは、モーセがどんな人物だったかを考えてみましょう。
彼は、エジプトで奴隷となっていたイスラエルを解放し、約束の地に導いた人でした。
しかし、イスラエルの人々にとって何より大切なのは、モーセは律法をイスラエルにもたらした人だったという事です。

それでは、エリヤとは誰でしょうか?
エリヤは、列王記の中に少し登場するだけではありますが、イスラエル史上最大の預言者として知られています。
モーセとエリヤ、彼らはそれぞれに、律法と、預言者を代表する人物たちだったのです。

律法と預言を代表とする人たちと、イエス様との間には深く、親密な関係がある。
それこそ、霊的に開かれた弟子たちの目に飛び込んできた事でした。
しかし、聖霊をまだ受けていない弟子たちには、そこにある真理を見ることができても、それが何を意味するのかという事までは理解することができなかったようです。
素晴らしい光景を見たペテロは、何か気の利いたことを言わなければと思ってこう言い放ちました。
「イエス様と、モーセ、エリヤのために小屋を建てましょう。」
ペテロはイエス様たちに、可能な限り長くいてもらいたかったのかもしれません。
しかし、その言葉について聖書には、『ペテロは何を言うべきか知らなかったのである』と記されています。

本来ユダヤ人であれば“律法と預言者”と聞いてすぐにピンとくるはずの事があります。
それは、律法と預言という言葉は聖書そのものを現しているという事です。
イエス様も、マタイの福音書の中で“律法と預言者”という言い回しをしていた事が書かれています。

マタイ 5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

ここでも、律法と預言者と言う言葉が表しているのは聖書全体の事です。

イエス様と聖書の言葉は、親しい絆で深く結ばれています。
律法や預言の言葉とイエス様の話は決して矛盾する事がなく、互いに支え合うものです。
そして律法や預言の全てが、イエス様を表してさえいるのです。

③ イエス様の最期について
それではさらに踏み込んで、イエス様がモーセとエリヤとどんな話をしていたか、覗いてみましょう。
ルカは、このように記録しています。

9:31 栄光の内に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。

イエス様の最期とは、十字架での死と、復活についての事を現しています。
つまり、ここにモーセとエリヤが現れて、イエス様の最期の事について親しげに話されていたという事は、律法と預言はイエス様の死と復活について表しているのだという事でもあるのです。

それともうひとつ、押さえておきたいことがあります。
それは、ここに出てくる、イエス様の死と復活を示唆している“最期”という言葉ですが、ギリシヤ語では“エクソダス”という言葉が使われているという事です。

エクソダスと言う言葉、皆さんは聞き覚えがありますか?
英語の聖書ではこのままの言葉が使われていますが、“出エジプト”の事です。
最近、このタイトルで映画にもなりましたね。
“脱出”とか“出発”というような意味があり、弯曲的には“死”を表す事もあるのですが、この言葉を通してイエス様の死と復活が表されるのは、とても珍しい事だそうです。
どうしてイエス様の最期が、“出エジプト”として表されているのだと思いますか?
それは、イスラエルの歴史の中で語られている出エジプトそのものが、イエス様の十字架による罪の贖いを表しているからです。

かつて、エジプトの奴隷となっていたイスラエルの人々を、神様が導いて解放し、約束の地へと導いたように、私たちを罪から救い出し、天の御国に導き入れて下さるために、イエス様は十字架にかかって下さろうとしていました。
つまりこれから起ころうとしているイエス様の最期は、すべて旧約聖書の中に預言され、象徴として表されていたのだという事を、この出来事は表していたのです。

確かに、まだ聖霊を受けていなかった弟子たちには、この出来事の意味を理解することまではできませんでしたが、霊的に開かれていた彼らの魂は、雲の中から語り掛けられる神様の言葉を耳にしました。

9:35 すると雲の中から、「これが、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言う事を聞きなさい」と言う声がした。

ひとり静まって主とともに時間を過ごすことの大切さが、分かってきたでしょうか?
私たちは鎮まって祈る中で霊的な目、耳が開かれて、聖霊によって神様の真理を知る事ができます。
いや、霊的に開かれた状態でなければ、私たちは神様に御業も、御心も、知ることはできないのではないのです。
すぐに分かるという事はないかもしれません。
でも、私たちが求め続けるなら、神様は必ず答えて下さり、私たちの霊の目、霊の耳を開いて下さるはずです。
全ての事を、祈ってから、祈りとともに始めましょう。

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