ルカ9:10-17 『 ルカ36 弟子は捧げる 』 2015/10/25 松田健太郎牧師

ルカの福音書9:10~17
9:10 さて、使徒たちは帰って来て、自分たちのして来たことを報告した。それからイエスは彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれた。
9:11 ところが、多くの群衆がこれを知って、ついて来た。それで、イエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをおいやしになった。
9:12 そのうち、日も暮れ始めたので、十二人はみもとに来て、「この群衆を解散させてください。そして回りの村や部落にやって、宿をとらせ、何か食べる事ができるようにさせてください。私たちは、こんな人里離れた所にいるのですから」と言った。
9:13 しかしイエスは、彼らに言われた。「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」彼らは言った。「私たちには五つのパンと二匹の魚のほか何もありません。私たちが出かけて行って、この民全体のために食物を買うのでしょうか。」
9:14 それは、男だけでおよそ五千人もいたからである。しかしイエスは、弟子たちに言われた。「人々を、五十人ぐらいずつ組みにしてすわらせなさい。」
9:15 弟子たちは、そのようにして、全部をすわらせた。
9:16 するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福して裂き、群衆に配るように弟子たちに与えられた。
9:17 人々はみな、食べて満腹した。そして、余ったパン切れを取り集めると、十二かごあった。

先週から新しいステージに突入した、ルカの福音書です。
イエス様がご自身が働きをし、活躍するステージから、弟子たちを教え、訓練し、送り出すというステージに入ってきましたね。
前回、弟子たちはイエス様によって送り出され、それぞれの場所で福音を宣べ伝え、人々を癒し、悪霊を追い出しました。
同じように、私たちもイエス様の弟子として、この世界に送り出されているんだという事を一緒に考えたのでしたね。
今日は、弟子たちがそれぞれの伝道旅行から帰って来てからの話です。

弟子たちが帰って来ると、イエス様は弟子たちを連れて、ベツサイダに向かいました。
少し静かな所に行って、弟子たちを休ませる事が目的だったようです。
しかし、有名になってしまったイエス様たちを、人々はそっとしておいてはくれませんでした。
瞬く間に、イエス様が来ているという噂がここにも広まって、彼らの周りにはたくさんの人たちが集まってきてしまいました。
イエス様の話を聞こう、あるいは癒してもらおうと、その数はどんどん増えて行き、そこには男性だけを数えても、5000人もの人たちが集まってきたのです。

① 主の愛と憐れみ
せっかく休もうと思っていた時にお客さんがきたりすると、とてもつらい気持ちになったりしますね。
ましてや、何千人もの人たちに囲まれたとなると、その数を見ただけでうんざりしてしまいそうです。
弟子たちにしてみれば、せっかく久しぶりの、イエス様との静かなひと時。
それを邪魔されるのはたまったものではありませんから、逃げ出したい気持ちも大きかったのではないでしょうか?
でもイエス様は、嫌な顔一つせず、あたたかくその人々を迎え入れました。
そして、自ら人々に福音を語り、求める人たちを癒やしたのです。

弟子たちは、この出来事をどう受け止めていたでしょうか?
はっきりした事は書かれていないのでわかりませんが、せっかくイエス様と休める時を持てると思っていたのに、邪魔されてイライラしていたかもしれませんね。
しばらくは黙っていた弟子たちでしたが、日が暮れ始めると、彼らはついに、群衆を帰らせるようにとイエス様に申し出ます。

9:12 そのうち、日も暮れ始めたので、十二人はみもとに来て、「この群衆を解散させてください。そして回りの村や部落にやって、宿をとらせ、何か食べる事ができるようにさせてください。私たちは、こんな人里離れた所にいるのですから」と言った。

でも、イエス様の思いは別のところにありました。
イエス様は、弟子たちにこう言ったのです。

9:13a,b しかしイエスは、彼らに言われた。「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」

② あなたがたで、何か食べる物を上げなさい
これは、弟子たちにとって新たな、そして大きなチャレンジとなりました。
イエス様はこのようにして、私たちに使命を与えることがあるのです。
神様は突然私たちの元に誰かを送り出し、この人と関わりなさいとか、この人を愛しなさいとか、助けなさいと言います。
そんな時、私たちはどうしたらいいのでしょうか?

弟子たちはどうしたでしょう?
彼らはとにかく慌てて、イエス様に文句を言ったのです。

9:13c,d 彼らは言った。「私たちには五つのパンと二匹の魚のほか何もありません。私たちが出かけて行って、この民全体のために食物を買うのでしょうか。」
9:14 それは、男だけでおよそ五千人もいたからである。

もう、逆ギレ気味ですよね(笑)。
この大勢の人たちに、どうやって食べさせたらいいんですか?
人里離れた所で、買いに行くような場所もないし、第一お金だってないですよ。
イエス様がこの人たちを留めるからこうなるんじゃないですか。
色んな声が聞こえてきそうです。
何にしても、彼らの頭にあったのは“ム”“リ”の2文字だったのではないでしょうか。

私たちも、神様に差し出された課題に対して、そのように感じてしまう事もあるかもしれません。
私たちが誰かに福音を伝える事、赦す事、愛する事。
確かに、私たち自身の力ではムリだと感じる時があります。
でも、この時弟子たちは忘れているのです。
つい先日まで、彼らがイエス様に送り出されていた時の事を。
彼らはどうして人々を癒し、悪霊を追い出す事ができたのでしょうか?
それは、その権威をイエス様から与えられていたからではありませんか。

私たちにはムリと思えることがあります。
でも、イエス様にはできる。
私たちはまず、イエス様に信頼する必要があるのです。

③ パンを配る
さて、イエス様に信頼しているなら、次に起こすべきアクションは、何でしょう。
それは、イエス様に訊ねる事です。
「主よ、どのようにしたらよいのでしょうか?」
私たちもまた、同じように祈る事ができますね。
状況だけを見て判断するのではなく、まず神様に聞くことによって、見えてくるものがあります。
神様は、私たちが次に何をするべきかという事を、ちゃんと教えて下さいます。
私たちはその導きに従い、成すべき事をしていけばよいのです。

イエス様は、弟子たちにこのように命じました。

9:14b しかしイエスは、弟子たちに言われた。「人々を、五十人ぐらいずつ組みにしてすわらせなさい。」

そしてイエス様は、天を見上げてパンと魚を祝福すると、それを分けるようにと弟子たちに命じたのです。

弟子たちは、イエス様に命じられるままに、それを人々に配りました。
5000人を50人ずつの組にしたら、単純計算でも100組です。
実際には、女子供を合わせたら2万人はいたのではないかと言われていますから、50人ずつのグループが400組!
5つのパンと2匹の魚では、1つの組でさえあっという間になくなるでしょう。
しかし、そのパンと魚は尽きる事無く、人々のお腹を満たし続けました。
そうしてすべての人々が食べ終わった時、彼らが持っていた12のかごは、パンくずでいっぱいになったのです。

これが、イエス様の奇跡ですね。
何がどう起こってそうなるのか、全く見当もつきません。
でも、創造主である神様の御業は、私たちの常識や原則など遥かに超えて、私たちの必要を満たした下さる事ができるのです。
私たちが同じ事を経験することは、そうそうないかもしれません。
でも奇跡は、私たちが起こすものではなく、神様がなさることです。
それが神様の御心かどうかという事だけが問題なのです。

④ 弟子に求められている事
さて、そんな中でも、私たちが弟子として、するべき事を求められている事があります。
第一に、パンと魚を捧げるという事です。
ヨハネの福音書に書かれている事ですが、この5つのパンと2匹の魚を捧げたのは、ひとりの少年でした。
何の知恵も力もあるわけではない少年が、信仰によって、普通のパンが5つと、2匹の魚によってこの奇跡は始まりました。
私たちにとっての5つのパンと2匹の魚は何でしょうか?
それは、私たちの献金かもしれません。
勇気を振り絞って出てくる、ちょっとした言葉かもしれません。
少し無理をして費やす時間かもしれません。
それが何であれ、神様に命じられたものを捧げ、イエス様の前に差し出すことから、奇跡は始まるのです。

第二に、イエス様を信じて、従う事です。
弟子たちがパンと魚を分けた時、パンと魚は目に見えて量が増えたわけではありません。
イエス様が祈って、それが何百ものパンになったのなら信じやすいのですが、目に見える物としては、あくまでも5つのパンと2匹の魚でした。
それでも弟子たちは、イエス様を信じて、パンと魚を何千人もの人々に配ったのです。
それは理屈には合わない事でしたが、弟子たちはイエス様を信じて、従い続けたのです。

私たちは、ついつい自分の思いや常識に従って行動してしまい、イエス様の声に耳を澄ませることを忘れてしまいがちです。
最初は神様に導きを求められても、途中から神様そっちのけになってしまう事も、少なくはありません。
私たちが、神様の御心だけに従い、従い続ける事はとても難しい事です。
しかし、それこそ私たちが神様に求められている事なのです。

私たちも、イエス様を信頼し、信じ続けて、神の国のための働きをする事が求められています。
弟子たちがパンと魚を人々に運んだように、私たちも神様の御言葉のパンを、運び続けなければならない事もあるでしょう。
人々が受け取ってくれるだろうかと懐疑的になったり、途中で自分の言葉を足してしまいたくなることもあるかもしれません。
でも大切なのは、私たちがいつまでも神様から離れる事無く、従い続けるという事です。
私たちが勝手な事をしてしまうのではなく、ただ主に従い続ける事が大切なのです。

ささげ、信じ、従いましょう。
それが、弟子である私たちに求められている事だからです。
そして私たちが捧げ、信じ、従う時、私たちは神様の御業を体験する事ができるのです。

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