ルカ8:22-25 『 ルカ31 神とともにある平安 』 2015/08/16 松田健太郎牧師

ルカの福音書8:22~25
8:22 そのころのある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」と言われた。それで弟子たちは舟を出した。
8:23 舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹き降ろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった。
8:24 そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです」と行った。イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も収まり、なぎになった。
8:25 イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

ある時のこと、イエス様は弟子たちとともに舟に乗りました。
ガリラヤ湖を舟で横断して、反対側に行こうという事になったのです。
イエス様はそれまでの疲れもあったのか、舟の上でぐっすりと眠ってしまいました。
しかしその時、彼らの乗った舟は突風に煽られ、水を被ってひっくり返りそうになってしまいました。

ガリラヤ湖には、季節や時間帯によってこのような突風がよく吹くそうです。
しかし、その多くが漁師だったイエス様の弟子たちが驚くほどの突風ですから、かなりの嵐だったのではないでしょうか?
彼らが乗っていたのは、漁師が仕事のために使う舟だったでしょう。
この舟は、今でいうボートなんかよりはもう少し大きいですが、それでも決して大きなものではないんです。
大きな波と風にあおられて、水を被ってしまうようではあっという間に沈んでしまう。
そこで弟子たちはイエス様を起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです。」と言いました。
するとイエス様は起き上がり、風と荒波をしかりつけて鎮めてしまいました。
すると、イエス様は彼らにこう言ったのです。
「こんなにうろたえて、あなたたちの信仰はどこにあるんですか。」

とてもシンプルな話ですね
しかしこの出来事から、私たちが学ぶべき信仰の教えがたくさんあるのです。
早速、紐解いていきましょう。

① 人生には嵐がある
まず第一に、私たちの人生には嵐があるという事です。
皆さんは、これまでの人生の中で、嵐のような時を経験してきましたか?
もしかしたらそのまっただ中だという方もいらっしゃるかもしれません。
あるいは、いつも嵐の中だという方もいらっしゃるかもしれません。
今日のメッセージのタイトルを見て、「もしかしたら、嵐のない、平安な人生を送る秘訣を聞けるかもしれない。」と思って楽しみにして下さった方もいるかもしれません。
でも残念なお知らせですが、どうあがこうと、“人生には嵐がある”というのが聖書の教えている真実なのです(笑)。

イエス様は私たちを招き、「さあ、湖の向こう岸に渡ろう。」と言いました。
私たちは、その呼びかけに応えて、イエス様と同じ舟に乗ったのです。
イエス様とともに旅をするなんて、それはどんな素晴らしい事だろう?
どんなに楽しい時となるだろうという期待が、私たちの中にはありました。
ところがそこに、嵐がやって来るのです。
「それでもまぁ、イエス様がいるのだし・・・」と、最初の内は思っています。
ところがその嵐はどんどん大きくなっていって、とても自分の手に負える状態ではなくなってしまうのです。
助けを求めようとイエス様の方に目をやると・・・、「何!? 寝ちゃってるじゃん!?」
イエス様はぐっすりと眠ってしまっていて、助けなんて何もありません。
そう思うと途端に不安になって来て、私たちは助けを求めるんです。
「イエス様、イエス様! 寝ている場合じゃないんです。起きて下さい。どうか起きて、私たちを助けて下さい。このままじゃ舟は沈んで、みんな死んでしまいます。」
私たちは、こういう場面に何度も遭遇するのではないでしょうか?

クリスチャンになっても、ビジネスに失敗して、破産することがあります。
クリスチャンになっても、家族の関係が壊れる事があります。
クリスチャンになっても、病気になって寝たきりになる事があります。
クリスチャンになっても、事故にあって死ぬ事があります。

そのような嵐を、どうして経験しなければならないのかという事は、とても一言で話せるような事ではないでしょう。
でも確かな事は、私たちクリスチャンに与えられている祝福は、何も問題が起こらなくなる素晴らしさではなく、問題が起こっても大丈夫だと言える祝福だという事です。
なぜ大丈夫だと言えるのでしょう?
それは、主が必要を備えていて下さるから。
主が、全てを益として下さるから。
私たちはそのような信仰を持つ時、嵐の中でも平安でいる事ができるのです。

② 信仰はどこにある?
しかし、弟子たちはどうだったでしょうか?
嵐の中でも信仰を持って、慌てず騒がず・・・ではなかったですよね?
弟子たちはその多くが漁師だったのに、自分たちの最も得意とする舟の上でパニックに陥ってしまったのです。

嵐の真っただ中で呑気に眠っていたイエス様は、パニックに陥った弟子たちに叩き起こされると、ひと言風と荒波を叱りました。
すると、湖は何事もなかったように静まり返ったのです。
それを見た人々の中には、驚きと恐れが沸き起こりました。

さてイエス様は、どうして嵐を鎮めたのだと思いますか?
そうしないと舟が沈むからと思っていたのは弟子たちだけです。
だってイエス様は、安心しきったように、ぐっすりと眠っていたのですから。
舟はこの嵐では沈まないという事を、イエス様は知っていたのです。

イエス様がこの状況の中で安心しきったように眠っていたなら、心配する必要は何もないはずでした。
しかし、弟子たちにはそう思えなかった。
そうして、容易く平安を失ってしまった弟子たちに、イエス様は言い放ちます。
「あなたがたの信仰はどこにあるのです」
「私の信仰はここにあります。」という事を期待した質問ではないですよね。
私たちの信仰が、いかに足りないかという事を叱る言葉です。
この言葉もまた、私たちにはなじみ深い言葉だと思いませんか?
僕自身、何度イエス様にこう問われたかわからないくらいです。

私たちに信仰は、一体どこにあるのでしょう?
私たちの身にどんな事が起こっても、私たちは神様に信頼して平安でいる事ができるはずなのに、心配して、慌てて、パニックになってばかりいる私たち。
私たちが問題に直面する時、私たちは自分の信仰がどれほど小さく、弱い者なのかという事が明らかにされるのです。

でもね、ここで話が終わらないところが神様の優しさなんですよ。
もしもイエス様が、「あなたの信仰はどこにあるのです」と叱りつけ、「あなたに信仰がない限り、私はあなたを助けない。」と言ったとしたら、私たちはみんな大変な事になってしまいますね。
でも、そうではありません。
弟子たちの信仰は、情けないほどに少なかったけれど、それでもイエス様は、彼らのために嵐を鎮め、彼らを助けたのです。
私たちの信仰も、弟子たちに負けず劣らないほど小っぽけなものではないでしょうか?
それでも、そんな信仰でも、イエス様は私たちを助けて下さるという事なのです。

神様の救いは、私たちの信仰の大きさによるのではなく、神様からの恵みによります。
これが、私たちにとっての大きな希望ですね。
イエス様は言いました。

「まことに、あなた方に告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。(マタイ17:20)」

イエス様は、たくさんの信仰と言ったのではありません。
“からし種ほどの信仰があったら”と言ったのです。
大切なのは、信仰の量や大きさではなく、信仰の対象です。
これは、私たちにとってどれほど大きな祝福であることでしょうか?

③ 平安を得るために
でも、ここで話が少しわからなくなっていきます。
イエス様は、弟子たちの信仰の少なさを見て、叱ったのでしたよね?
イエス様は、私たちの信仰がより深く、大きくなる事を求めているからです。
しかし、からし種ほどの信仰で救って下さるなら、私たちはなぜ信仰を成長させる必要があるのでしょう?

それは、より大きく深い信仰を持つことが、私たちにとって益となる事だからです。
もしも私たちが、より大きな信仰を持ち、より深くイエス様に信頼できるようになったら、私たちは嵐の中でも平安でいる事ができるからです。
どれほど多くのクリスチャンが、何かが起こるたびに信仰がアップダウンするジェットコースターのような生き方をしていることでしょう。
こういう人生を続けていては、クリスチャンでいる事に疲れてしまいますね。
私たちの信仰が成長すると、私たちを取り巻く状況はジェットコースターのようにアップダウンすることはありますが、そんな中でも平安の中で生きる事ができるようになるのです。

信仰がアップダウンするような生活を続けていても、確かに神様の救いはあります。
でも信仰が成長していくなら、私たちはもっと豊かな人生を送る事ができるようになるのです。
そして神様は、救われてはいるけれどいっぱいいっぱいになってしまうような生き方ではなく、心から平安を味わう事ができる豊かな人生を与えたいと願っておられるのです。

皆さんは、どっちの人生を送りたいですか?
嵐のような状況に振り回されるような、嵐のような信仰生活でしょうか?
それとも、どんな状況でも安心している事ができる、平安の信仰生活でしょうか?
もしも皆さんが平安を求めるなら、それを得るために必要なのは、何よりも信仰的に成長することです。
より深く、神様に信頼し、委ねる事が必要なのです。
皆さんが、平安で豊かな人生を歩むことができますように。

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