ルカ8:16-18 『 ルカ29 光を輝かせよう 』 2015/08/02 松田健太郎牧師

ルカの福音書8:16~18
8:16 あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。入ってくる人々に、その光が見えるためです。
8:17 隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現れないものはありません。
8:18 だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。

① 光を隠さずに生きる
イエス様は、このように話を始めています。

8:16 あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。入ってくる人々に、その光が見えるためです。

皆さんの家の、部屋の電灯はどこについていますか?
タンスの中とか、箱の中に部屋の明かりがつけられているお家はあるでしょうか?
そんなところに電灯がついているお家はないですよね。
明かりをつけてもよくわからないようなところに、電灯が付いている家はありません。
電灯は、暗くなった部屋を照らすためにあるからです。

では、私たちはどうでしょうか?
「あなたがたは、世の光です。」とイエス様は言いました。
私たちは、光となったのです。
何のために光となって、輝いているのですか?
それは、この世を照らすためなのです。
私たちは、輝いているでしょうか?

多くの場合、私たちが直面する誘惑は、この輝きを自分の中に留めておくという事です。
自分が救われていればいい。
自分が満足していればいい。
自分が喜んでいればいい。
そういうメンタリティが邪魔をして、私たちの光を隠してしまうのです。

あるいは、せいぜい教会の中に留めてしまう。
この世に対する恐れもあるのかもしれません。
釘は出れば打たれますから、闇の中で光となって目だったりしたらどんなことになるかと思ったりもするかもしれません。
でも、私たちに与えられている光は、何のためなのか考えてみて欲しいのです。

光は、闇を照らすためにあるのです。
それなのに、闇の中に隠してしまったのでは、何の意味もないではありませんか。

② この世の闇に光を灯す
それでは、私たちはなぜ光となってこの世を照らさなければならないのでしょうか?
そして光になるとは、どういう状態の事を意味しているのでしょうか?

この世界は闇だという話をしましたね。
私たちが生きるこの世界は、どんよりとして闇に包まれています。
平和がどれだけ続くかとか、原発の問題とか、問題は山積みですね。
人間関係も希薄になったり、あるいはドロドロしていたりして、世界に希望を見出す事が、どんどん難しくなっています。

それは人々の目に、神様と言う希望の光が見えないからです。私たちは、それぞれに神様に創られて、この世界に生まれてきました。
神様が私たちひとりひとりを、目的に合わせて、性質や性格を与え、創りました。
そして、私たちに愛を注ぎ、今も私たちとともにいて下さいます。
しかし多くの人には、それがわかりません。
なぜでしょう?
それは、罪によって、神様と言う光から完全に切り離されてしまっているからです。
光がないなら、私たちの心は完全に闇に包まれ、絶望的になり、ふさぎ込んでしまうしかないのです。

だから、私たちが光とされたのです。
人々に、神様を見る事はできません。
目に見える形で来てくれたイエス様も、今は地上にいません。
だから今度は、私たちという器を使って、神様と言う光を輝かせることによって、人々は神様という光を見る事ができるようになるのです。
私たちを通して輝く神様の光によって、人々の目は開かれ、心は力を取り戻し、希望を見出す事ができるようになるのです。

私たちが地上で、神様の目として人々を見、神様の手として人々に触れ、神様の足として福音を運び、神様の口として慰めの言葉をかけ、神様の愛で人々を愛する時、人々はその光に触れ、神様を見出し、希望を取り戻す事ができるのです。
イエス様はこう言います。

8:17 隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現れないものはありません。

隠されていた神様と言う光は、私たちを通してあらわにされます。
それは、素晴らしい事だと思いませんか?
私たちを通して、神様が人々の前に表わされるのです。

③ 何が光を灯すのか
さて、それでは私たちは、どうやって光り、輝いたらいいのでしょうか?
多くの場合、私たちは一生懸命伝道したり、良い行いをたくさんして、周りの人たちに「良い人アピール」をする事によって、世の光になろうとしてしまうのではないでしょうか?
しかし、それでは私たちは、すぐに疲れて燃え尽きてしまうでしょう。
その上、自分の力で輝かされる光はがっかりするほど小さい光です。
たくさんのエネルギーを消費するわりには、効果はとても少ないのです。

電灯は、ただそれだけでは輝くことができません。
私たちが光となり、輝き続けるためには、私たちを輝かせるエネルギーが必要です。
電灯を輝かせるためには、電気が必要なんですね。
イエス様の時代の光は、電気によってではなく、別のものが必要でした。
灯の火をともすのは何でしょう? 油です。
私たちの油とは、何でしょうか?
実は、聖書の中で油というと、それはあるものを象徴しています。
それは、聖霊です。
油が注がれて、灯に火がつき、光になるのと同じように、私たちには聖霊が注がれて、世の光となるのです。

ひもに火を付けたら、それはあっという間に燃え尽きるか、焦げて終わりです。
しかしそこに油を注がれると、そのひもは油のある限り燃え続ける事ができるのです。
私たちを輝かせることができるのは、聖霊です。
私たちが聖霊の油で満たされる時、私たちは力を受け、神様の光で輝くことができるのです。

私たちはそれを、別のもので代用しようとしてはいけませんね。
感情の高ぶりとか、正義感とか、義務感とか・・・。
そこに輝くのは、神様の光ではありません。
そんなものはすぐに燃え尽きてしまうし、人々を本当の希望に導く事はできないのです。

④ 聖霊の油で満たされる
それでは、私たちは聖霊で満たされるためにどうすればいいのでしょうか?
ある人たちは、聖霊に満たされようとして山にこもり、断食をして祈り、一切の罪の行いから離れるのでなければ聖霊に満たされることはないと考えます。

ある人たちは、大きなキリスト教の集会で素晴らしいメッセンジャーの言葉を聞いて、異言と言う不思議な言葉で祈り、その場で倒れたり、大声で笑いだす事が聖霊で満たされる事だと考えています。

しかし、イエス様の勧めはそれよりももっとシンプルです。

8:18 だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。

ここで、話は前回の学んだ種まきの例えと繋がります。
「聞き方に注意しなさい」というのは、8章の15節までのところで話していた、神様の言葉をどう聞くかという事に気を付けなさいという事です。
イエス様は、種が落ちた4種類の場所をたとえにして、神様の言葉を受け取る私たちの反応について話をしましたね。

同じように御言葉を聞いても、それに対する人々の反応は様々です。
ある人の心に起こるのは、御言葉の種が道ばたに落ちたような状態です。
道ばたのように頑なな心を持った人は、御言葉の種が蒔かれても何の反応もする事ができず、それはすぐに悪魔に持っていかれてしまいます。
ある人は、御言葉を聞いても岩の上に落ちた種のように、感情だけで終わります。
ある人たちは、御言葉の種がいばらの真ん中に落ちたように、生活の事や目の前にある問題、この世界の価値観に心を奪われて、成長する事ができません。
しかし、聞く耳を持ち、神様に信頼して実行に移す良い地に落ちた御言葉の種は、私たちの内で百倍もの大きさに成長し、私たちの人生そのものを変えるのです。

今日の話は、「持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられてしまう。」ということばで締めくくられています。
これだけ聞くと、何だか納得がいかないような、すごく不公平な言葉に感じますね。
でもここで語られているのは、神様の言葉から何をどれだけ受け取るかという話なのです。

私たちが、御言葉から多くのものを受け取るなら、私たちと神様との関係はどんどん深くなり、聖霊が私たちの内でもっと働きやすくなります。
こうやって、私たちが神様の言葉を求め、それが百倍にも成長していく時、私たちは聖霊に満たされているのです。

聖霊の油で満たされて、この世界に神様の光を輝かせましょう。
多くの人たちが、光を求めています。
人々に、希望の光を届けませんか?
光が内側に留まっているだけでは世界は変わりませんが、私たちを通して輝く主の光は、私たちが生きるこの世界を変える力を持つ光なのです。

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