ルカ7:24-35 『 ルカ26 神の国に生きる人 』 2015/07/12 松田健太郎牧師
ルカの福音書7:24~35
7:24 ヨハネの使いが帰ってから、イエスは群衆に、ヨハネについて話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に吹かれて揺れる葦ですか。
7:25 でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかいきものを着た人ですか。きらびやかな着物を着て、ぜいたくに暮らしている人たちなら宮殿にいます。
7:26 でなかったら、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。
7:27 その人こそ、
『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう』
と書かれているその人です。
7:28 あなたがたに言いますが、女の中から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。
7:29 ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、髪の正しいことを認めたのです。
7:30 これに反して、パリサイ人、律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、髪の自分たちに対するみこころを拒みました。
7:31 では、この時代の人々は、何にたとえたらよいでしょう。何に似ているでしょう。
7:32 市場にすわって、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。
『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。
弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった。』
7:33 というわけは、バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『あれは悪霊につかれている』とあなたがたは言うし、
7:34 人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです。
7:35 だが、知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。
さて、あのバプテスマのヨハネが疑いを持ち、弟子たちをイエス様のもとに遣わしましたというのが先週の話でした。
イエス様は、あなたたちが目にしたことを伝えなさいとだけ伝え、弟子たちをヨハネのもとに返したのです。
この箇所は、その直後の出来事ですね。
今日は、礼拝の後洗礼式もありますから、早速本題に入っていきましょう。
① バプテスマのヨハネ
ヨハネの弟子たちが去っていったのを見届けると、イエス様は集まっていた人たちに、ヨハネについて話し始めました。
先ほど読んでいただきましたが、このような言葉から始まっていますね。
7:24 ヨハネの使いが帰ってから、イエスは群衆に、ヨハネについて話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に吹かれて揺れる葦ですか。
風に吹かれて揺れる葦とは、世間の人々の意見に流されて右に左に揺れる人のことです。
私たち日本人は、この傾向が強いですね。
でも、ヨハネはそういうタイプの人ではありません。
7:25 でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかいきものを着た人ですか。きらびやかな着物を着て、ぜいたくに暮らしている人たちなら宮殿にいます。
柔らかいきものを着た人とは貴族たちの事です。
貴族や王族は地位を利用して、権力にものを言わせて人々を動かそうとします。
でもその動機は、自分の立場や利益の確保でしかありません。
荒野でけものの毛皮をまとい、イナゴを食べていたヨハネとは正反対ですね。
7:26 でなかったら、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。
ヨハネこそ、神様から遣わされた最後の預言者でした。
そして彼こそ、イザヤ書やマラキ書の中で預言されていた、キリストの道を備える預言者だったのです。
女から生まれた者の中で、彼より優れた人はいないとイエス様は言いました。
これほどの褒め言葉があるでしょうか?
しかもイエス様から、こんな風に言われるなんて・・・。
それはヨハネが、神様からの使命を受けて、それを忠実に成し遂げた人だったからです。
イエス様の道備えという重要な役割。
他の誰に、こんな重要な役割を果たすことができたでしょう。
② ヨハネより優れた人
でもイエス様は、このように続けています。
7:28b しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。
神の国に生きる人とはどんな人でしょうか?
これは、天国に行った人たちということではありません。
今この地上に生きながら、神様を王として、主に従う生き方をしている人たちの事です。
神様の支配がある所が、神の国なのです。
神の国に生きる人は、たとえその働きが地味で小さな役割しか担っていないように見えても、バプテスマのヨハネよりもさらに素晴らしい働きをしている人だとイエス様は言います。
なぜなら、私たちにとって大切なのは、自分が良いと思っていることをやることではなく、神様の導きに従って、神様が作ってくださったままの生き方をすることだからです。
「がんばって善い行いに励んでいるけれど、良い結果が伴わない。」
「一生懸命に正しいと思っていることをやるけれど、正しい結果に結びつかない。」
それが、これまでの私たちの生き方であり、収穫でした。
でも、神の国で起こることはそうではありません。
ローマ8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
その生き方は、聖書に出てきたどんな預言者たちよりも、モーセよりも、ダビデよりも、もっと素晴らしい生き方なのだとイエス様は言っているのです。
③ 世の人々
しかし、多くの人達はそのような生き方を選ぼうとしません。
イエス様はこの後、もう一種類の人たちのことについて話しています。
7:31 では、この時代の人々は、何にたとえたらよいでしょう。何に似ているでしょう。
7:32 市場にすわって、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。
『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。
弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった。』
これはちょっとわかりにくいですね。
広場にいる子供たちは、結婚式ごっこをして笛を吹いているのです。
でも、だれもその遊びに乗って踊ってくれない。
今度はお葬式ごっこをしようと弔いの歌を歌っても、誰もそれに乗って泣いてくれない。
何をやっても、みんなは文句ばかり言って、何もしようとしないという事なのです。
これまで神様は、さまざまな方法で人々を救いに導こうとしてきました。
バプテスマのヨハネが悔い改めを説き、洗礼を授けても、多くの人達はそれに応答しようとはしません。
それどころか、パンもぶどう酒も口にしないヨハネは悪霊にとりつかれているのだと言って退けました。
次にイエス様が来て救いの福音を述べ伝えると、今度は「あいつは断食もしないで、大飯食らいの大酒飲みだ。」と言い、罪人とともに過ごしている事を非難しました。
何をやっても気に食わないという人はいるものです。
私たちがどんな方法、手段を使っても、信じようとしない人たちはたくさんいます。
多くの人達は偏見を持っていて、一神教は独善的だと言い、何か不祥事が起こると「だからキリスト教はダメなんだ」と言います。
福音が何かを知ろうともせず、勝手に決めつけている人たちは、神様からの内なるアプローチに応えようとしない限り、福音の中にある真理を知ることは決してありません。
でもこれは、私たちも気をつけなければならない事です。
私たちもまた、神様の計画や、導き、神様が与える試練に対して、同じような態度を取ってしまうことがあるからです。
神様に文句ばかり言って、自分の価値観に従い、自分の道だけを歩むなら、クリスチャンになる前と何が変わるというのでしょうか?
多くの場合、私たちは救いは受け取っていても、王としてのポジションが変わっていないのです。
例えイエス様を信じてクリスチャンになっていたとしても、自分が王となる生き方をしていたら、神の国に生きているということはできません。
「正しい人はひとりもいない。」と聖書には書かれています。
だから私たちに必要なのは、神様の声に聞き従う事です。
間違った正しさを求めていた自分を認め、方向転換する必要があるのです。
私たちにはそれができます。
なぜなら、私たちには聖霊が与えられているからです。
聖霊が私たちに進むべき道を教え、そこに進むための力も与えて下さいます。
私たちが神の国に生きたいと願うなら、私たちは自分自身を十字架につけ、聖霊に全てを明け渡し、神様に従う必要があります。
その時私たちは、初めて神の国に生きることの本当の素晴らしさを体験することができるのです。
私たちはどちらの生き方を選ぶでしょうか?
神の国に生きることでしょうか?
それとも、笛を吹いても踊らず、弔いの歌を歌っても泣かない生き方でしょうか?
耳を澄ませてみてください。
神の国に生きなさいと、聖霊は私たちに語りかけているはずです。
従うことは、時として難しいこともありますが、その先には必ず素晴らしいものが待っています。
私たちの生き方を通して、それが真理だということを証明しようではありませんか。