ルカ7:18-23 『 ルカ25 疑いの時 』 2015/07/05 松田健太郎牧師
ルカの福音書7:18~23
7:18 さて、ヨハネの弟子たちは、これらのことをすべてヨハネに報告した。
7:19 すると、ヨハネは、弟子の中からふたりを呼び寄せて、主のもとに送り、おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは他の方を待つべきでしょうか」と言わせた。
7:20 ふたりはみもとに来て言った。「バプテスマのヨハネからつかわされてまいりました。『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも私たちはなおも他の方を待つべきでしょうか?」とヨハネが申しております。
7:21 ちょうどそのころ、イエスは、多くの人びとを病気と苦しみと悪例からいやし、また多くの盲人を見えるようにされた。
7:22 そして、答えてこう言われた。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えないものが見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き。死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。
7:23 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」
皆さんは、バプテスマのヨハネを覚えているでしょうか?
イエス様がキリストとして活動を始める前、その道を整えるために神様から選ばれた器です。
彼は荒野に住み、毛皮を来て、イナゴと水だけを口にするような生活をしていました。
そして、人々に悔い改めを説き、自分たちの罪を悔い改めて、神様に立ち返る人々に洗礼を授けました。
自分が悔い改めるだけでは、断絶してしまった神様と関係を回復することはできません。
その関係を回復するために必要だったものこそ、イエス様の十字架でした。
こうしてバプテスマのヨハネは、十字架という神様からのアプローチが必要だということを悟らせ、人びとの心を神様との和解へと向かわせたのです。
しかし、今や彼はヘロデ・アンティパス王に捕らえられ、牢獄に幽閉されていました。
そうして長いあいだ世界のものから隔離されている内に、ヨハネの中ではある変化が起こってきました。
そして、自分の中に起こってきたその思いを確認するために、彼は弟子たちをイエス様のもとに遣わしたのです。
バプテスマのヨハネの心の内に、何が起こっていたのでしょうか?
① 疑いの時
バプテスマのヨハネから送られたふたりの弟子たちは、イエス様を訪れました。
そして、このように尋ねたのです。
7:20 ふたりはみもとに来て言った。「バプテスマのヨハネからつかわされてまいりました。『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも私たちはなおも他の方を待つべきでしょうか?」とヨハネが申しております
「おいでになるはずの方」と言うのは、何のことでしょうか?
これは、聖書の中で神様が何度も約束されていた、人類を救済するための救い主、メシヤ・キリストのことを表しています。
ヨハネの中には、疑問が起こっていたのです。
「本当にイエス様が、救い主なのだろうか?」と。
バプテスマのヨハネと言えば、イエス様こそが救い主であることを最も早く見出した人物です。
弟子たちに向かって、「みなさい、あれこそが世に遣わされた小羊だ。」とイエス様を指し示した人物です。
そんなヨハネが、まさかこのような疑いにとりつかれてしまうとは・・・。
「でも、それが間違いだったのなら、訂正しなければならない。」
そんな思いが彼の内には起こっていたのかもしれません。
自分は幽閉されて動くことはできませんから、弟子たちを遣わせて、イエス様に尋ねさせたのでした。
私たちの中にも、疑問が膨らみ、信仰が保てなくなってしまう時があるかもしれません。
辛い体験、苦しい体験が重なる時、本当に神様はいるのだろうか? 本当に私を愛しているのだろうかと思いたくなる時があります。
他のクリスチャンたちを見ていると、キリスト教は本当に正しいのだろうか思いたくなることもあります。
あるいは、違う形で疑いが起こるかもしれません。
救いとは、本当にイエス様を信じる事だけで手にすることができるものなのだろうか?
善い行いとか、毎日聖書を読むこととか、一生懸命に祈ることとか、他にもなにか必要なことがあるんじゃないだろうか?
私たちは、弱く、疑い深い人間です。
いつでもしっかりと信仰の上に立つことができていればよいのですが、時として心が揺らぎ、信仰を失ってしまうような時もあります。
誰もがそんな時を、通ったことがあるのではないでしょうか?
バプテスマのヨハネほどの人物でさえ、信仰が弱り、疑う時があったのですから、それは当然のことです。
疑うことがいつでも悪いわけではありません。
オレオレ詐欺が横行するような世の中ですし、私たちは疑ってみるとう事も時に必要です。
だから大切なのは、疑わないとうことよりも、疑いの中にある時、私たちはどうしたらいいのかということではないかと思うのです。
② 思い込みがもたらす疑い
そもそも、どうしてバプテスマのヨハネ程の人物が、イエス様を疑ってしまうことになったのでしょうか?
そこには、バプテスマのヨハネを始め、多くの人びとの中にあった思い込みが関係していました。
この当時の人々は、救い主は王としてこの世界を治める方だという思い込みがあったのです。
それなのにイエス様は、一向に政治的な活動を始めようとせず、人を癒したり、福音を語ったりするばかりで、世界の王になっていくようにはとても見えませんでした。
だからヨハネの中には、本当にこの方がメシヤなのだろうかという思いが出てきたのです。
それは、確かに聖書に書かれていた救い主の一面ではありました。
そして、それが決して間違いではないことも、私たちは知っています。
イエス様は、主の主、王の王ですよね。
そのことを私たちは信じているし、それが事実だということも知っています。
でも、それが文字通り王様として、お城に住んで、私たちを統治しているのとは違う。
この当時の人たちは、救い主は文字通りの王様だという思い込みがあったのです。
この当時の人たちが求めていたのは、ローマ帝国の圧政から彼らを救い出し、イスラエルを世界のトップに君臨させる、政治的指導者だったのです。
事実、それを実現するかと思うような人物も、歴史的には登場していました。
中間時代に活躍した、ユダ・マカバイという人物です。
イスラエルがセレウコス朝シリアの支配下で迫害を受けていたとき、イスラエルを独立に導き、開放したのがこのユダ・マカバイでした。
しかし彼から始まったハスモン朝は、政治的にはそれほどパッとしないまま、次はローマ帝国の支配に飲み込まれてしまったのです。
ユダ・マカバイは救い主ではなかった。
しかし、神様は本当の救い主、本当の主の主、王の王をもたらして下さるに違いない。
そしてイスラエルはローマ帝国を倒し、世界帝国としてこの世を治めるのだと、人々は信じていたのです。
私たちを疑いに導くのは、時としてこのような思い込みだったりします。
神様が愛だというなら、私たちはこんな苦しみに合わせることなんてないはずだ。
神様は愛なのだから、これくらいのことは許してくれるはずだ。
あるいは逆に、私の罪がこんなことくらいで赦されていいはずがない。
私たちは自分の中で勝手な価値観を作り出し、それに合わせて神様を判断しようとするから、私たちは混乱してしまうのです。
神様が、私たちの想像の範囲で収まるはずがないではありませんか。
私たちの価値観に合わせて神様がしていることを理解しようとするのではなく、私たちの側が神様の価値観に合わせて考える必要が有るのです。
③ もう一度信じるために
それでは、私たちが疑いの中に入ってしまったとき、私たちはどうしたらいいのでしょうか?
疑いをもってヨハネが遣わせた弟子たちに、イエス様が言ったことを通して、私たちはその解決方法を知ることができます。
イエス様は、このように言いました。
7:22 そして、答えてこう言われた。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えないものが見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き。死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。
7:23 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」
イエス様は「そうです、私があなたの待っていた救い主メシヤです。」と言わず、あなたたちが見たことを伝えなさいと言われました。
それはなぜでしょうか?
それは、私たちに必要なことは、まず事実を確認することだからです。
そして大切なのは、その事実が何を意味しているかということなのです。
イエス様が実際におこなっていたことは、多くの人達が知っていました。
でもある人たちの目に映ったのは、それがただ人の人気や関心を奪うものであり、悪魔の力であるかのように思えました。
ある人たちの目には、イエス様が安息日り、断食をせず、罪人たちと仲良くしていることしか見えませんでした。
ヨハネの目に映っていたのも、ローマ帝国を倒すというするべきことをせず、医療行為に勤しんでいるイエス様の姿でした。
この時のイエス様の言葉を聞いたヨハネの信仰が、この後どうなったかということは聖書には記されていません。
しかし懸命なヨハネは、この言葉を通してひとつのことに気がついたでしょう。
それは、イザヤ書にある救い主について預言している言葉です。
イザヤ35:5 そのとき、目に見えないものの目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。
35:6 そのとき、あしのなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。
イエス様がしていたことは、すべてメシヤとしてのしるしでした。
救い主とは、その様な主であり、王なのだという事を、聖書はすでに伝えていたのです。
私たちの悩みの時、迷いの時、私たちの周りの人たちを見回して見てください。
キリスト教というもの疑いたくなるようなクリスチャンたちも確かにいるかもしれません。
でも、その内にたくさんの奇跡や、神様の愛を体験した人たちもまた、たくさんいるのではないでしょうか?
自分自身の経験も、振り返ってみてください。
私たちもまた、イエス様を知り、救い主として受け入れたとき、たくさんの素晴らしい体験をし、神様の愛を実感したはずではなかったでしょうか?
そして、御言葉に目を止めてみてください。
疑いに流されてしまうクリスチャンは、まず聖書を読んでいません。
読んでいると思っていても、ただ字面を追っているだけになっています
パリサイ派の人々も、聖書をよく知っていましたが、神様の言葉として受け取ることができていませんでした。
おそらくヨハネは、イエス様が与えたヒントだけで目が開け、疑いの雲も晴れたのではないかと思います。
私たちもまた、そこにある事実と、御言葉に目を留めることです。
そして自分思い込みによって全てを理解しようとするのではなく、神様の視点で物事を見ることです。
私たちは神様ではないので、それは簡単なことではありませんが、聖霊がそれを助けてくださいます。
聖霊の助けによって、私たちは神様の御心を知ることが出来るのです。
全てのクリスチャンが、疑いの時を経験します。
盲信するのはむしろ危険ですから、疑い自体は悪いことではないのです。
ただそんな時、そのまま信仰を失ってしまうことのないように、どうかもう一度この出来事を思い出していただきたいのです。
そして事実と体験に基づいた冷静な目で、もう一度イエス様を再発見していただきたいのです。
それが、私たちの信仰を成長させます。
みなさんの信仰が、成熟したものとなっていきますように。