ルカ6:37-42 『 ルカ21 高原の説教III (人を量る量り)』 2015/06/07 松田健太郎牧師

ルカの福音書6:37~42
6:37 さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。
6:38 与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」
6:39 イエスはまた一つのたとえを話された。「いったい、盲人に盲人の手引きができるでしょうか。ふたりとも穴に落ち込まないでしょうか。
6:40 弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。
6:41 あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。
6:42 自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください。』と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。

 

高原の説教のシリーズの三回目です。
実はこの話は、先々週にお話しした話の中に入れようと思っていたのですが、あまりにもボリュームが大き過ぎて話しきれなかったので、二つに分ける事にしました。
そんなわけで、この話も前回からの続きですから、これまでの話を振り返りつつ読み進めていきたいと思います。

高原の説教シリーズは、弟子たちに向けてイエス様が話された言葉でしたね。
だから、信仰のない人たちに向けて話す話よりも、厳しい話しをここではしています。
まずは、貧しい者は幸い、涙を流すものは幸い、そして迫害を受ける時あなた達は幸いだという、逆説的な話からこの説教は始まっていました。
そして次には、あなたの敵を愛し、敵のために祝福を祈りなさいと私たちに命じたのです。
イエス様の話は、いつも私たちの常識、私たちの価値観をひっくり返します。
でもそれは、私たちの常識と言うものが、いかに神様の御心から離れているのかを表してもいます。
私たちには、自分の力でそれを実現することは不可能ですが、私たちが全てを捨てて神様により頼む時、神様がそれを可能にして下さるのを、私たちは体験する事になるのです。

今日もまた、全ての価値観をひっくり返す、イエス様のチャレンジが与えられます。
イエス様が弟子である私たちに伝えたかったことは、一体どんな事だったのでしょうか?

① 裁かない、罪に定めず、赦しあう
まずは、前回お話しした聖書箇所の最後の言葉を見てみましょう。
こんな言葉で締めくくられていました。

ルカ 6:36 あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。

神様から離れ、神様の御心から遠く離れてしまった私達。
本当に生きるべき道を見失ってしまった私達。
でもそんな私達が、こうして救われて神の子とされたという事は、ひとえに神様の一方的な愛による出来事なのです。
もし神様が、このように憐れみ深く、愛に満ちた方でなかったなら、神様に背き、神様に反逆してきた私たちは、神様の怒りの前にずっと前に滅ぼされてしまっていた事でしょう。
神様には義があります。
この義とは、正義の義。神様は誰よりも聖く、正しいお方だという事です。
しかし、それだけではない。
神様は私たちを愛しています。そして私たちを憐れまれているお方なのです。

さて、そんな話の流れから、今日の話は始まっています。
今日のメッセージは何でしたか?
裁いてはいけません。そうすれば、自分も裁かれません。
人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。
赦しなさい。そうすれば赦されます。
イエス様は、このように続けて仰られたのです。
この3つは、概ね同じ事を言っているわけですが、それほどまでに人を裁いてはならないという事を強調しているわけですね。

でもこれは、すごく難しい事でもあります。
なぜなら、私たちの周りには裁かれるべき悪い事、罪の事、許しておくべきでない事がたくさんあるからです。
人が間違ったことをしているのに、それを裁かず放っておいて良いのでしょうか?
そんなはずはありませんね。
事実、イエス様は兄弟が間違ったことをしている時、罪を犯している時、どのようにそれを正すべきかという事について教えているところもあります。
でもだからこそ、この罪をただすべき事と、人を裁く事とは何がどう違うのか、わからなくなってしまう部分ではないでしょうか?

自分が誰かの罪を正そうとしているのか、それとも裁こうとしているのかを見分けるには、私たちは自分の動機を探ってみる必要があります。
私たちは、どうしてその人の罪を正そうとしているのでしょうか?
私たちがもし、自分のために相手の罪を正そうとしているなら、私たちはおそらく、相手を裁こうとしているのです。

私たちはみんな、自分を正しいと思っていたいという性質を持っているものです。
そのために相手を否定し、自分の正しさを証明しようとしてしまうわけですね。
でも冷静になって考えてみて頂きたいのです。
誰かが間違っているという事が、自分は正しいという事になるかどうかという事を。
聖書は何と言っているでしょうか?
義人はいない、ひとりもいないのです。
確かに相手は間違っているかもしれません。
でも、それと同じくらい私たち自身も間違えいるし、同じくらい正しくはないのです。

罪とはどのようなものか、もう一度思い出していただきたいと思います。
罪とは、単に間違えているという事ではありません。
罪とは、私たちを肉体的に、精神的に、霊的に傷つける行為です。
罪は私たち自身を傷つけ、私たちの周りの人たちを傷つけ、神様を傷つけるものだから、罪から離れなさいと神様は言っているのです。
だからもし、誰かが自分自身を傷つけたり、知らずに周りの人たちを傷つけたりしているのであれば、その人が罪の痛み苦しみから抜け出す事ができるように助けてあげる必要があります。
それが、相手の罪を正すという事なのです。

姦淫の罪を犯した女が連れて来られた時、イエス様はどうしたでしょうか?
「罪を犯したことがない者がまず、彼女に石を投げなさい。」と言いました。
そして誰もその資格がない事を知った人々が去っていくと、イエス様はこう言いました。
ヨハネ8:11「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
そこにいた人の中で彼女を裁く資格があったのはイエス様だけでした。
でもイエス様は彼女を決して裁くことなく、「罪を犯してはいけない。」とだけ言ったのです。

私たちはみんな、神様の赦しの中にあります。
ならばどうして私たちに、他の人が裁けるでしょうか?
私たちはいつでも赦しあい、互い“の”罪を言い表すよりは、互い“に”罪を言い表すものでありたいものですね。

② 与える
もう一つの御言葉を見てみましょう。

6:38「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

これは何を表しているのでしょうか?
もっともっと献金や施しをしなさいという事でしょうか?
与えれば与えるほど、私たちはもっとお金持ちになるという話でしょうか?
確かにそういう話しでもあると思います。
それも真理ですし、僕自身が何度もそういう体験をしています。
でも、この話の流れから考えてみると、この言葉にはもう少し違う意味もあるように思うのです。

私たちが、本当に与えるべきものは何でしょうか?
それは、お金であるというよりは、自分自身ではないかと思うのです。
あるいは、私たちの心なのではないでしょうか?
私たちが、誰かのために自分自身を捧げ、心を注いでいく事です。
それは、ある時間をその人の話を聞くために費やす事かもしれません。
ただ、共に時間を過ごし、一緒に泣き、一緒に笑う事かもしれません。
私たちはそれを、愛と呼びます。
そして私たちが自分自身を惜しまずに与える時、私たちにはそれに倍する愛が注がれるのです。

私たちはそのようにして、神様に自分を捧げ、神様とともに時間を過ごす事もできます。
私たちがこうして、自分自身を神様に捧げれば捧げるほど、私たちは神様がどれほど多くのものをすでに私たちに与え、私たちに捧げて下さっていたかを知る事になります。
「与えるから、与えられる」というよりも、与えるから与えられているものの大きさ、豊富さを知る事ができるのです。

「愛がわらない」と言う人がいます。
その人は、まず愛してみてください。そうすれば、愛がわかります。
「赦されている事がわからない。」と言う人がいます。
その人は、まず誰かを赦してみてください。そうすれば、赦されている事がわかります。
「神様から与えられている事がわからない。」人がいます。
その人は、まず捧げてみてください。そうすれば、与えられているものの大きさがわかります。
だからイエス様はこのように言われるのです。

マルコ4:25「持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます。」

私たちが握りしめているものは何でしょうか?
愛でしょうか? 赦しでしょうか? お金でしょうか?
失うまいと握りしめるなら、私たちは逆にそれを失う事になるでしょう。
握りしめている物を手放し、捧げてみてください。
そうすれば、私たちはそれがさらに与えられることになるのです。

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