ルカ6:46-49 『クロスロードを歩む者として』 2009/04/05 松田健太郎牧師
ルカ 6:46~49
6:46 なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。
6:47 わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。
6:48 その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。
6:49 聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」
来週はイースターです。
この頃になると、どうしても十字架の事を考えさせられますね。
今からおよそ2000年前の金曜日、イエス・キリストは十字架にかけられ、3日後に蘇ったのです。
イエス様は、わたし達の罪を贖うために十字架にかかり、命を投げ出してくださいました。
それを信じて救いを受け取り、イエス様の復活とともに新たな命を得た者がクリスチャンです。
それはこの様に書いてあるとおりです。
IIコリント 5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
わたし達はこのように新しくされたのですが、時として古い自分を引きずってしまう事もあるのがわたし達です。
新しくされたはずだけれど、どうも変わったように思えない。
本当に自分はクリスチャンになったのだろうかと思うこともあるでしょう。
それは、わたし達がまだ工事中だからです。
それでもわたし達は少しずつ成長し、エペソ書に書かれているように、
エペソ 4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
やがてキリストの身丈にまで達するようになるのです。
新しい自分になったのだという事をまったく理解せず、罪人のままの自分で開き直って突っ走っているクリスチャンも、実はたくさんいますね。
そういう人達が、キリスト教のイメージをどんどん悪くしているという事も確かです。
でもわたし達は、その人たちを責める前に、自分自身が変わって行けているかどうかを考えるべきです。
わたし達は、人生の十字路に立った時、十字架の道を選んで行きましょうという意味を込めて、教会の名前にクロスロードという言葉を入れました。
十字架の道とは何かという事についてはもう少し詳しく、礼拝の後で行われる信徒年次会で話すつもりです。
でも、十字架の道を歩む時、わたし達は人間としても魅力的な人間になっていきます。
また十字架の道は決して楽で平坦な道ではありませんが、祝福と喜びに満ちた生き方です。
そうでなければ、イエス様がその尊い命を投げ出された意味は何もありません。
では、どうしたらその様なクリスチャンになるのでしょうか?
① 心と霊の耳を澄ます
わたし達にまず必要な事は、主の声に耳を傾けるという事です。
神様はアブラハムに、故郷を離れて約束の地へと向かうように語りかけました。
その後も神様は、時には夢の中で、時には燃える柴によって、時には御使いを通して、時にはウリムとトンミムという道具を通して、そして様々な預言者たちに語りかけ、人々はそれに従ったのです。
わたし達の神様は、語られる神です。
アモス 3:7 まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。
と書かれている通りです。
神様は今も、聖霊によってわたし達ひとりひとりに語りかけてくださいます。
わたし達は主の声を聞くことができるのです。
そうは言っても、その声を聞き分ける事が難しいのは確かなことです。
自分の中のひらめきを、神様の声と勘違いして受け取ってはいけません。
自分の思い付きを神様だと思って行動すれば、大変な失敗を招くことになります。
現代において神様は、多くの場合は聖書の御言葉を通して語りかけて下さるのだという事を覚えて置いてください。
だからこそ、わたし達が常に聖書のみ言葉に触れている事はとても大切な事なんです。
聖書の言葉は霊的な糧と言われますが、わたし達は御言葉をいつでも蓄えるべきです。
聖書の言葉から離れて、わたし達がどうして主の声を聞き分ける事ができるでしょうか?
しかし、御言葉を十分に蓄えているなら、必要な時に主が語りかけてくださるのです。
この様に書かれている通りです。
ヨハネ 15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
② 信じて従う
わたし達に次に必要なのは、聖書の御言葉を素直に信じて、従うという事です。
イエス様はこのように言っています。
ヨハネ 8:47a 神から出た者は、神のことばに聞き従います。
また、こうも言っています。ルカ 6:46 なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。
6:47 わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。
6:48 その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。
6:49 聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」
わたし達は、何と神様の言葉を信じず、従おうとしない事でしょうか。
わたし達は、聖書の言葉より自分の感情を優先してしまう事が、何と多いのでしょう。
従うという事を、とても嫌がる人もいます。
「神様に従う人生なんて、なんと窮屈な人生だろう。」と思うのかもしれません。
しかし、せっかく神様が示してくださっている道をわたし達が進まないなら、わたし達は神様が与えようとしている祝福を受け取ることができません。
それでいて、わたし達は神様がどうして自分をこんな目に合わせるのかと文句ばかり言ってしまうのです。
わたし達は、「あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛する。」と言われたその言葉を本当に信じているでしょうか?
わたし達は、聖書の中に描かれている癒しや奇跡の数々を信じて、自分の身にも起こるという信仰を持っているでしょうか?
わたし達は、「あなたの隣人を愛し、敵のために祈りなさい。」という言葉を信じて従っているでしょうか?
わたし達は、「あなたの父母を敬いなさい。」という言葉を信じて従っているでしょうか?
わたし達は、「あなたの子供を怒らせないようにしなさい。」という言葉を信じて従っているでしょうか?
聖書は様々な問題に対する解決方法を教えてくれています。
わたし達はあらゆる局面で自分の経験やこの世の知恵ではなく、主を信頼して従う必要があるのです。
そしてわたし達が主に従うなら、わたし達は必ず祝福を受けると約束されています。
ヨハネ 13:17 あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。
詩篇 1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
1:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
何をしても栄える。
そんな人生があるのだという事を、信じることができるでしょうか?
わたし達が主の道を歩み続けるなら、そこには必ず喜びが伴うのです。
③ 主に従う事を第一として
僕たち夫婦には、夫婦喧嘩がとても多い時期がありました。
さすがに物が飛び交うようなけんかはしませんでしたが、僕も大声でどなったり、物に当り散らすような事は何度もありました。
「けんかするほど仲がいい 」と言いますが、内容的にはとっても些細な事で、犬も喰わないようなけんかばかりでした。
アメリカから日本に移ってきたばかりでお互いにカルチャーショックもあり、日本での仕事のハードさにストレスがつのり、どちらも余裕がなかったのだと思います。
それから数年の間、いつもというわけではありませんが、大きな喧嘩をする時期がしばらく続いていたと思います。
数年たったある時、僕はそこで神様からのメッセージとしてひとつの御言葉を受け取りました。それは、
エペソ 5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
ローマ 12:17 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。という2つの言葉でした。
その言葉を聞いたのは、ちょうど大きな夫婦喧嘩をした次の日だったんですね。
喧嘩自体はもう収まっていましたが、自分の中ではまだ苦々しい思いが残っていて、気持ちとしては引きずっていたのを覚えています。
だから、この御言葉が目に飛び込んできた時、僕はイヤだなぁと思ったんですね。
言われている事の正しさは、すぐによくわかりました。
でも、従いたくない、従う事を拒んでいる自分がいるのです。
そこで僕は祈ったんです。
「神様、あなたの言いたい事はわかります。でも、僕にはできません。しかし、もし御心ならば、それをさせて下さい。」
それから数日の間、この2つの御言葉が僕の頭の中に残っていました。
その間にだんだん、僕の中にあった煮えくり返るような気持ちは治まっていきました。
そして僕の中でひとつの事を試みてみようという思いが浮かんでいたのです。
それは、ベスを徹底的に愛するという事でした。
ベスが求めていそうな事を先回りしてやってみる。
ベスが仕事のストレスをためて帰ってきたとき、自分も疲れていても、愚痴を黙って聞く。
とにかく、僕の方が感情的になるのではなくて、自分の意見は置いておいてでもベスに共感してみるという事をしてみたんです。
効果はすぐに現れました。
ベス自身がそれを認識していたのかどうかはわかりません。
僕がベスを愛するのに比例して、ベスの方もその態度が変わっていったんですね。
ベスの方も自分の状況を客観的に見ることができるようになり、だんだん仕事のストレスをコントロールする方法を身につけていきました。
僕の方も、最初の内はかなり我慢をしてやっていた事でしたが、それによって自分の環境も変わるので、だんだんそれが自然に身についていったのではないかと思います。
今では、僕がどれくらいベスの話を聞く事ができているのかはわかりませんが、自分としては以前とは比べ物にならないくらい良い夫婦生活を続けられていると思います。
日本の社会環境では、自分の家族は犠牲にしてでも仕事に尽くすことが美徳とされている傾向があります。
だから、多くの牧師がそのように、家族を放っておいてでも、身を粉にして教会で働いています。
でも、僕にはそれはできません。
皆さんの中には、もう少し牧師が仕事をしてくれたら、もっと皆の事を気にかけてくれたらいいのにと思っている方もいらっしゃるかもしれません。
でも、申し訳ありませんが、僕は教会よりも家族を大切にします。
それは、聖書の中でこの様に書かれているからです。
Iテモテ 3:2 ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、3:3 酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、3:4 自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。
3:5 ――自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。――
この条件を、僕がどれくらい満たすことができているかどうかはわかりませんが、可能な限り主に従い、それに近づきたいと僕は思っています。
なぜなら、自分の力の全てを使って仕事をするよりも、主に従って主の力によって仕事をする方が祝福が大きいからです。
どうか皆さんも、主の声に耳を澄ませ、主に従う事を第一としてみて下さい。
時にはどうしていいのかもわからず、不可能に感じる事も多い神様の言葉ですが、主はわたし達に、それを実行に移すための力も必ず与えてくださいます。
そうしてわたし達が主に従う中で、わたし達と主との関係も深められ、私たち自身も霊的に成長し、主の満ち満ちた姿にまで少しずつ似せられていくのです。
クロスロード・インターナショナル葛西教会が、主に変えられた人々が集まる教会として知られるようになりますように、皆さんの祝福を心から祈ります。