ルカ6:47-49 『土台を建て上げる』 2006/1/1 松田健太郎牧師

ルカによる福音書 6:47~49
6:47 わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。
6:48 その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。
6:49 聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」

昨年の重大ニュースを挙げれば、いろいろな事がありましたが、姉歯一級建築士による建造物の耐震強度偽装問題がひとつあげられるだろうと思います。
結局、どれだけの姉歯さんが関わった建造物に関しては、どれが危険な建物なのかという目処がたってきているのだと思いますが、彼が関わらなかった建造物は本当に大丈夫だといえるのか、考え始めれば恐ろしい問題の定義がなされたと思います。
現時点で被害にあっている方々を考えても、本当に不安な生活を強いられていることでしょう。
建て直しや、補強作業を行うにしても、現在その建物に住んでいる方々は一度建物から退去しなければなりません。
その間、どこに住むのか、いつになったら自分たちが購入した部屋に戻ることができるのか、営業停止を強いられているホテルの従業員の方々は、どうやって食べていくのでしょうか?
退去先の部屋を斡旋されたからといって、それほど簡単な問題でもありません。
購入したマンションのローンもあるでしょうし、それ以外に退去中に住む部屋にも家賃を払わなければならないのですから大変です。
また、お子さんのいるご家庭では、このために転校までしなければならず、多くの問題が生じているようです。

今回の事件でこの物件を購入した方々は、どうして騙されてしまったのでしょうか?
それは、購入された方々は実物を見ないで買ったということはあるでしょう。
普通、新築マンションの購入は建物が建つ前に、モデルルームを見て買うかどうかを決めます。
実物を見たわけではないですから、実際にはイメージと少し違うということもありえるわけですよね。
しかし、あれだけ多くのマンションやホテルが建てられるまでこの事件が発覚しなかったのは、実物を見ても、中に住んでいてもそれほど危険な建物であるということがわからなかったからでしょう。
外側から見れば、専門家であっても危険な建物かどうかの見分けはつきません。
しかし恐いのは、たとえ外側は立派な建物で、間取りからして住み心地がよかったとしても、大きな地震がきたらその建物が崩れてしまう可能性が高いということです。

土台がしっかりしていないというのは、そういうことです。
外からみれば、しっかり建っているように見えるんです。
きれいだし、新しいし、すばらしいデザインなんです。
でも、大きな地震がきたら、すぐにくずれてしまいます。

私達も同じです。
どれだけ華やかな外見を持っていても、人から見れば素晴らしい人生を送っているように見えても、土台がしっかりしていなければ、何かあったときにはすぐに崩れてしまいます。

普通の日本人であれば、自分を建物に例えれば自分を社会という土台の上に建てあげようとします。
平たく言えば、他人と自分ということです。
自分は他の人からみてどの様に映っているのか、どのように評価されているのか?
自分だけの価値基準ではなく、周りの人たちがどう思うかを考慮に入れて、できる限りいい評価を得るために日々努力します。
建ち上がった時にはほかの人たちの力もありますから大きく、立派に見えます。
流行に敏感で、最先端をいっている人たちはこの様な人々です。
皆から愛され、尊敬され、もてはやされます。
しかし、よく考えて見てください。人の心なんて、簡単に変わってしまうものなのです。
10年経てば、価値観も完全に変わってしまいます。
いや、今の世の中1年もしたら全部流行遅れなのです。
ファッション業界も、IT業界も、お笑い業界も、中心がどんどん変わっていきます。
これでは砂の上どころか、流砂の上に家を建てるようなものです。
その上に建ち続けるためには、自分自身が常に形を変え続けなければなりません。
そして少しでも油断すれば、あっという間に崩れてしまうのです。

一方で天才と言われる人たちは他人の価値観には捕われません。
常に一本通った強い柱を持っています。
強度偽装された建物は、基準の3分の1の強度しかないそうですが、建物の頑丈さで言えば頑丈そのものです。
しかし建っているのが砂の上なら、途中で折れる事はなくても、いつかは倒れてしまうかもしれません。

イエス様は、簡単に形を変えてしまう砂の上ではなく、岩の上に自分という家を建てなさいと言います。
神様という土台の上に自分を建てるということは、決して動く事がない、地球という岩盤の上に家を建てるようなものです。
地震が来ようと、洪水が来ようと、津波が押し寄せても、この土台が崩れる事はありません。
では、神様を土台として自分を建てあげるとはどういう意味なのか、先ほど読んでいただいた聖書の箇所から見ていきましょう。

ルカ 6:47 わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。
6:48 その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。

イエス様のことばを聞き、それを行う人たちが、神様という岩の上に家を建てる人だとイエス様は言っています。
イエス様は色々な事を私達に語って下さり、中には行う事が本当に困難な事もありますが、イエス様が言っている事を究極的に言えば、十字架による罪の赦しを信じて、神様との関係を回復するということです。
もっと簡単に、ひとことで言ってしまうなら、キリスト信仰ということができるでしょう。
神様が、今私と共におられる。そのことを信じることが出来ていれば、どんな災害にも揺らぐ事はありません。

8月にウィテット先生が話してくださったメッセージを覚えているでしょうか?
弟子達がイエス様と、小舟で湖を渡っていると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。
そのとき、イエス様はのんきに眠っておられた。
弟子達が不安になってイエス様を起こし、こんな時にどうしてのんきに眠っていられるのですかと聞くと、イエス様は起き上がって、波を叱りつけた。そうすると、途端に嵐がやみ、湖は静かになったという話でした。
私達の人生に嵐がきたとき、イエス様が共におられる事を知るなら、私達は何も心配せず、安心して舟に乗っていることができるのです。
それと同じように、イエス様が共におられることを知るなら、私達はどんな地震がきても、雨雪に打たれても、洪水がきても、何も恐れることがありません。

私達は岩の上に建てられて家でしかありませんから、雨雪に打たれれば痛む事もあるでしょう。地震がきて、洪水がくれば、どうしても家にはガタが来るかもしれません。
しかし、私達が立っている土台は決して揺らぐことはありません。
どんなに傷を受けても、完全に倒れてしまうということは決してないのです。

 

僕がこの教会で牧師になってから半年が経ちました。
2006年から、いよいよ本格的にその働きが始まっていくのだと実感しています。
僕がこの教会の牧師としてこれからの数年間与えられている使命は、この教会の土台を建てあげていくという事だと思っています。
ただただ教会出席者の数を増やすということは、やはり限界があるからです。
これから恐らく数年かけて、キリスト教の本質的な部分を皆さんに徹底的に理解していただくという作業をしていく必要性を感じています。
これまでは、ヨハネによる福音書から、イエス様のなさった事に焦点を当てて少しずつお話してきましたが、2月からは旧約聖書からゆっくり全体像を見ていただきたいと思っています。
旧約聖書は、言ってみれば福音の土台です。
日本の教会は新約聖書からばかりメッセージをして、旧約聖書をじっくりやらない所が多いと聞いています。
しかし、旧約聖書を理解する事なしに、イエス様を本当に理解する事はできません。
罪の贖いとは一体何なのか。
イエス様がキリストであるとなぜ言う事ができるのか。
イエス様十字架にかかって下さった事が、なぜ私達の罪を贖うのか。
すべて、旧約聖書なしに理解する事はできません。

旧約聖書の学びは、イエス様のことを直接知っていくのと違って、即効性がないというか、学んだ事が喜びに変わっていくまでに時間がかかるかもしれませんが、私達にはどうしても必要な学びなのです。
先ほどのお話で言うなら、砂の上に土台もなしに家を建てる事は簡単でも、すぐに倒れてしまいます。崩れないためには岩地を深く掘って土台を作らなければならないのですが、その作業は家を作る以上に大変なのです。しかし、外から目に見えるということはありません。
ある程度の覚悟と忍耐を持って、2006年の礼拝にお付き合い願えれば幸いです。

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