ルカ5:1-11 『 ルカ13 深みに漕ぎ出す 』 2015/03/15 松田健太郎牧師

ルカの福音書5:1~11
5:1 群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、
5:2 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
5:3 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
5:4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
5:5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、ニそうとも沈みそうになった。
5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。
5:9 それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
5:10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
5:11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。

人生には思い通りに行かない時、うまくいかない時があります。
どれだけ一所懸命に頑張ってやってきても、挫折してしまう時があるものです。
そんな時、すぐに気持ちを入れ替えて、次の事を始める方ができるといいですが、なかなかそういうわけにはいかなかったりします。
私たちは気力を失って、しばらく呆然としてしまうような事も少なくはないのです。

皆さんの中に、今そういう状態にある方がいらっしゃるかもしれません。
もしそうでないとしても、これから先そんな挫折を味わう事があったら、今日のお話を思い出してみて頂きたいのです。
挫折の時、暗い気持ちに打ち勝って、解決する道が示されているからです。

① ペテロの挫折
さて、イエス様はガリラヤ湖の湖畔に来ていました。
そこには、イエス様の噂を聞いてたくさんの人たちが集まってきていました。
イエス様は岸辺に立っていると、そこに二そうの小舟が見えたのです。
その内のひとつの小舟のそばにいたのは、先日家に訪れてしゅうとをいやしたシモンだったのです。

シモンはガリラヤ湖で魚を捕っている漁師でした。
この地方の漁師は、夜の間に漁に出て魚を捕ります。
しかしこの日は、夜通し働き続けても魚は一匹も捕れませんでした。
それでシモンはがっかりして、今は網を洗いながら帰る支度をしていたのです。

魚を捕る網はすっかり汚れて、からまってしまっていますから、疲れていてもその日の内に洗い、網をほどいておかなければなりません。
シモンはそうやって打ちひしがれながら、黙々と作業を行っていました。
恐らく、イエス様の話を聞く気持ちにもならず、一刻も早く帰りたいとおもっていたのではないでしょうか?

ところがそんなシモンの元にイエス様は近づいて来て小舟に乗り込み、陸から漕ぎ出すように言うのです。
シモンは、イエス様を家に招き、しゅうとを癒してもらったこともありますから、嫌という事も出来ず、沖に向けて漕ぎ出しました。
イエス様は漕ぎ出してすぐのところで止めさせ、そこから岸に集まっている人々に向かって、話をし始めました。
でもシモンは、夜通し働き続けて相当疲れていますから、イエス様の話も耳には入ってこなかったのではないでしょうか。
彼は一刻も早く帰りたいという気持ちでいっぱいで、終わるのが待ち遠しいという感じですね。

イエス様の話がどれくらい続いたのかはわかりませんが、そのメッセージもやっと終わりました。
「さあ、これで解放されて家に帰れる。」
そう思っていたシモンでしたが、イエス様はこのように言ったのです。
「沖へ漕ぎ出し、投網を打って漁をしてみなさい。」

酷い話ですよね!
一晩中働いて後片付けしているところにやってきて、そろそろ帰ろうと思っていたら、メッセージをする手伝いをさせられ、それが終わったら今度はせっかく洗った網を降ろして魚を捕れと言うのです。

シモンはプロの漁師です。
イエス様は何だったかと言うと、大工さんでした。
イエス様は普通に考えれば、単なるしろうとなのです。
それを証拠に、これから網を降ろしなさいと言う。
先ほども言いましたが、この湖の漁は夜にやるのが常識です。
この湖の魚は夜になると岸辺に近い所に集まってくるので、そこを狙うものなのです。
こんな日も登ってきた時間に、しかも沖に出て網を落とせと言うその言葉自体が、イエス様が漁に対してはどれほど素人だったかと言う事を表しています。
さらに言えば、プロのシモンが一晩かけて魚が一匹も捕れなかったのです。
こんな時間に、そんな場所に網を入れて、魚なんて捕れるはずがない。
しかもせっかく洗った網をまた湖の中に入れなけばならないのですから、シモンはまた網を洗わなければならなくなるのです。

シモンは、「冗談じゃない。」と言って断ってもおかしくな状況だったと思います。
実際、体力的にはギリギリだったのではないかと思います。
しかし、シモンはこの時、この様に答えたのです。

5:5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」

② でも、おことば通り
ここでシモンが言った、“でも”が大切なのです。
常識的に考えると難しい。ありえない。
“でも”、イエス様がそう言うなら信じてやってみよう。
このような“でも”が、私たちの信仰の中にある時、私たちは神様の御業を体験したり、より深く成長する事ができるようになるのです。
皆さんの中には、このような信仰があるでしょうか?

私たちは、聖書の言葉を読んで心が動かされる。イエス様の言葉を聞いて感動する。
“でも”現実的には難しい・・・という、こういう“でも”の使い方をしてしまう事が多いように思います。
それでは、私たちが成長することはありません。

どうして、私たちは“でも”の信仰に立つべきなのでしょうか?
それが、イエス様の声、神様のお言葉だからです。
私たちは、たとえそれが理にかなわず、常識とはそぐわない事であったとしても、従う価値のあるものなのです。
この時シモンが、イエス様の言葉に従って網を降ろした時、そこに何が起こったでしょうか?

5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、ニそうとも沈みそうになった。

漁師としての彼の人生の中で、2そうがかりで、しかも2そうとも沈みそうになるほどに魚を捕った経験はあったでしょうか?
ここには書かれていませんが、おそらくはなかったのではないかと思います。
これは、シモンの経験の中ではあり得ない事でした。
彼がこれまで通り、漁師としての常識によって量を続けていたら、またこの時イエス様の言葉に従わなかったら、シモンがこのような体験をする事はなかったのです。

③ 信仰の深みに漕ぎ出す
シモンは、どんな思いでこの網を引き揚げ、どんな表情で岸辺まで戻ってきた事でしょう?
シモンはやっとの思いで岸辺にたどり着くと、イエス様の足元にひれ伏して、こう言いました。

5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。

それまで、シモンはイエス様の事を「先生」と呼んでいました。
しかしこの出来事があってから、シモンはイエス様を「主」と呼ぶようになったのです。
彼らが「主」と呼ぶのは神様と同じですから、これはシモンの信仰告白と言って良いのかもしれません。
そして、目の前にいるのが単なる律法の先生や預言者ではなく、主だという事が分かった時、シモンは自分の罪を感じ、主の前にひれ伏さないではいられなかったのです。

それを見て、イエス様はこう答えました。

5:10c 「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」

「こわがらなくてもよい。」これは、罪を感じ恐れを抱いているシモンに対する、罪の赦しを伝える言葉でした。
そして、これからは魚を捕る漁師ではなく、人間を捕る漁師になるのだと伝えたのです。

魚を捕えたら、殺してしまいます。
しかし人間を捕る漁師は、いのちを与えるために捕えるのです。
シモンはこの時から、イエス様と一生行動を共にしようと決意したのです。

私たちは、どうすればこんな素晴らしいイエス様との体験をする事ができるのでしょうか?
そのために私たちは、イエス様に従って、沖へ漕ぎ出す必要があるのです。
私たちがいつまでも信仰の岸辺にいたのでは、このような体験をする事はないのです。
私たちは、自分の常識、自分の価値観、自分の感情にいつまでも縛られてしまってはいないでしょうか?
岸辺を離れ、主が導かれるままに深みへと進む時、私たちはこれまでの常識を覆すような大きな体験をするのです。

シモンのこの体験は、彼が失意と挫折の中にある時に起こりました。
私たちも、心が折れそうなそんな時にさえ、神様に従って信仰の深みへと漕ぎ出すなら、そこに神様の御業を体験する事になるのです。
そして今度は私たちが、その福音を伝え、広げていく事になるのです。

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