ルカ2:1-7 『アドベント3 救い主の誕生』 2008/12/14 松田健太郎牧師
ルカ2:1~7
2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
2:2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
2:3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
2:4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、
2:5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
2:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
今日はクリスマス礼拝ですね。
多くの教会では、おそらく来週辺りが本番だと思うのですが、私達の教会では帰省される方々の事も考えて、少し早めにクリスマスをお祝いしています。
まぁよく言われるように、別に12月25日がイエス様の誕生日だと本当にわかっているわけでもないので、いいじゃないかと思っているんです。
ですが、12月25日がイエス様の誕生日ではないと決まっているわけでもないんですよ。
イエス様の誕生は春ごろだろうという説もありますが、それも結局推測でしかありません。
ですから、365分の1の確立で、12月25日が誕生日だという可能性があります。
同じ確立で、実は今日こそがイエス様の本当の誕生日かもしれないわけです。
エホバの証人のみなさんは、クリスマスを祝わないのだそうですね。
色々な理由があって祝わないわけですが、その理由の中には、「イエスの死こそが大切なのであって、誕生は大切ではない。」という言い分があるのだそうです。
イエス様の死が大切だというのは、一理ありますね。
イエス様が十字架にかかり、私達の罪のために死んでくださったからこそ、私達の罪は贖われたのですから。
でも、誕生がなければ、死もありませんよね・・・。
まずは、この世界に生まれてきてくださったからこそ、イエス様は死ぬ事ができたのです。
イエス様の誕生を祝って、何が悪いのでしょう?
エホバの証人のような異端と言われる信仰の中だけでなく、普通の教会にも、同じような理由でクリスマスの誕生を祝わない方々がいるそうです。
今日は、イエス様の誕生を私達が喜ぶべき理由がどこにあるのかという事を、一緒に学んでみたいと思います。
① 幼子として生まれた
先程みんなでも歌いましたが、インマヌエルという言葉があります。
この言葉は先週のメッセージでも出てきましたが、「主はともにおられる。」という意味の言葉でしたね。
皆さんは、これを信じますか?
皆さんは、神様が私達とともにいて下さると信じるでしょうか?
神様が共にいて下さる。
神様は全知全能で遍在の方ですから、ここにもそこにもあそこにも、いたる所に存在されます。
だから、一緒にいるのは当たり前の事じゃないですか?
そう言ってしまえば、それだけの事かも知れませんね。
でも、一緒にいてくださるはずの神様も、ただそれだけでは、ともにいると言うよりはそこら中にいるという感じですね。
目に見ることでもできず、何をしてるのか私達にはまったく理解もできず、ましてや神様の考える事なんて想像もできません。
それでは、人々が自分勝手に形を作ってしまうのもムリありませんね。
私達にとって、共にいて下さる神様というのは、そういう事ではありません。
「神様が、人間として私達を同じ立場に立ってくださった。」それこそが、神様が私達と共におられるという事なのです。
その時神様は、私達にとって何を考えているか、何をしているのかもわからないような存在ではなくなったという事です。
イエス様が実際にした事を通して、また語った事を通して、私達は今でも聖書の中に、神様が私達をどの様な思いで愛してくださったのか知る事ができます。
しかし、それだけではありません。
神様が人の姿として私達の前に現れる事は、実は旧約聖書の時代にもあった事でした。
ヤコブと格闘した時のように、御使いのような形でパッと現れてもよかったはずです。
でもイエス様はそれだけでなく、私達と同じように赤ちゃんとして生まれてきたんですね。
うちにも今、生まれて数ヶ月の赤ちゃんがいますが、自分では本当に何もできませんよね。
自分のおしっこのコントロールですら、できないのです。
神様が、私達と同じ弱さをもって産まれてきた。
そして私達と同じように、罪にまみれたこの世界で成長していったのです。
それは神様が、私達と同じように、この世で生きる辛さを知っているという事です。
イエス様は、労働して賃金を稼ぎ、生活するということがどれ程大変な事か知っています。
イエス様は、嫌な上司や同僚と一緒に働く時のストレスを知っています。
イエス様は、柱の角で足の小指をぶつけた時の痛みを知っています。
イエス様は、自分の主張を理解してもらえない時の寂しさや苛立ちを知っています。
イエス様は、私達がどの様な時に憎しみを持ち、高ぶり、誘惑を受けるのかをよく知っています。
イエス様は、もっとも信頼する友から裏切られる悔しさと悲しさを知っています。
イエス様は、誰からも顧みられず、孤独に死んでいく恐さを知っています。
イエス様は本来、神として、私達の王として、この世界にこられる方でした。
本来なら敬われ、崇められる対象であるはずの王が、私達と同じ目線に立ってくださったのです。
それこそ、神様が私達とともにいて下さるという事ではないでしょうか。
礼拝の冒頭で読んだ聖書箇所には、この様に書かれていましたね。
IIコリント 8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。
神様が、私達のうちのひとりとして生まれてくださった。
それは、イエス様ご自身のためではなく、私達を引き上げるためだというのです。
そんな信じられない事が起こったからこそ、私達はこのイエス様の誕生の日を心からお祝いするのです。
② どこに来てくださるのか
さて、神様が私達のうちのひとりとなって下さった。
王の王が、私達よりも身を低くされた。
その事実を知ってもまだ、「いや、そうは言っても、イエス様は素晴らしい方だった。自分のような心の醜い人間の事なんて判るはずがない。クリスチャンは、清くて正しい人たちのためにあるものだ。」そのように思われる方がいらっしゃるものです。
その様に思われる方は、イエス様が生まれる時、どんな場所で生まれたのかという事をもう一度考えてみて欲しいのです。
イエス様はどこに生まれたのでしたか?
イエス様は家畜小屋の中で生まれ、飼い葉おけに寝かされたのです。
皆さんは家畜小屋に入った事がありますか?
今でもちょっと田舎に行くと、近所に牛小屋があったりしますけど、1kmくらい離れた所からでも匂いでわかったりしますよね。
ある程度は衛生的かもしれませんが、家畜小屋とは人が住むところに比べると、ずっと臭くて汚い所です。
“臭くて汚い。”あ~、私達の心みたいだなぁと思いませんか?(笑)
私達は、表面的にはどれだけ取り繕ってきれいに見せていても、心の奥底には臭くて蓋をしたいところ、汚い所がたくさんあるものです。
たとえ蓋をしても、1km先からでも匂ってくるような醜さが、私達の中にはあるのではないでしょうか?
さらに言うと、イエス様が産まれて間もなく寝かされたのは、飼い葉おけでした。
みなさん、飼い葉おけというとどんなものを想像しますか?
この当時の、イスラエルで使われていた飼い葉おけは、私達が想像するような木で作られたものではなくて、石造りだったそうです。
木で作られたものであれば、何となく「あ、ナチュラルでいいなぁ。」なんて思えるかもしれませんが、石です。
堅くて、冷たい石の上に、イエス様は生まれて間もなく寝かされたのです。
“堅くて冷たい。”これもまた、私達の心のようではないでしょうか?
もっと柔軟に考えられればいいんだけど、頑固で、頑なで、融通が利かなくて。
優しさとか温かさがあればいいのだけれど、実はとても冷たい人間だったりして。
その様な所にも、イエス様は来てくださるのです。
クリスチャンになるためには、いい人でなければならない。
クリスチャンになるには、いつでも清く、正しくなければならない。
イエス様は、その様な人にだけ来てくださるのではありません。
イエス様は、臭くて汚く、堅くて冷たい心をもった私達のような心の内に来てくださる。
イエス様が誕生した事の素晴らしさは、その様な所にもあるのです。
③
賢者たちの知恵によって、救い主である新しい王がイスラエルに誕生したという事を知った時、時の王ヘロデは全力を尽くして、ベツレヘムに産まれたと言われる王を殺そうとしました。
それは、新しい王がくれば、自分はもう王としていられなくなるからです。
自分が王であるという立場を失う事は、それほどまでに恐怖を伴うものなのです。
私達がイエス・キリストを王として自分の心に迎え入れるという事は、私達が自分の王であり、神であり、支配者であることを止めて、自分の全てをイエス様に委ねる事を意味しています。
しかし、それは私達にはとても怖いものだったりしますね。
ヨハネの福音書の中には、この様にかかれています。
ヨハネ 1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
また、先程読んだルカの福音書では、この様な書かれ方をしています。
ルカ 2:7c 宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
これは、ただ単に宿屋がいっぱいで困ったという事ではなく、私達の心が別のもので埋め尽くされて、イエス様のおられる場所がなかった事を意味しているのではないでしょうか。
イエス様が私達の心の扉を叩き、私達がイエス様を迎え入れるのをこれだけ待っているのに、私達がなかなかそれを受け入れる事ができないのはなぜでしょうか。
それは、私達が自分の心を別のもので埋め尽くそうとしているからです。
私達の心を本当に満たすことができるのは、神様の愛だけなのに、私達はどうして他のものでその虚しさを満たそうとしてしまうのでしょうか?
神様が私達を創造した時に、私達の生きる意味や目的はすでにそこにあるはずなのに、私達はどうして他の思想や、哲学や、宗教や占いによって自分自身を見出そうとするのでしょうか。
神様こそが私達の神であり、王であるはずなのに、私達はどうして他のものばかりを優先して、神様を後回しにしようとしてしまうのでしょうか。
私達が他のもので心を満たそうとし続ける限り、私達はイエス様を自分自身の中から追い出して、王として来る事を拒絶する事になるのです。
今、この時も、イエス・キリストは私達の心の扉を叩き続けています。
黙示録 3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
私達がそれに気づかなかった時から、イエス様は私達の心の扉の前にいて、私達がその扉を開いて、王として中に迎え入れる事を待ち続けています。
それは、これまでに信仰を持たなかった方に関しても言える事ですが、一度ならず信仰告白をしてはいるけれど、せっかく迎え入れたイエス様を押入れや家畜小屋に押し込めてしまった皆さんにとっても同じ事です。
救い主が、私達のひとりとして、私達の元に来られた事を喜び祝うこのクリスマスの時、イエス様を王として迎え入れる時として迎えてみてはいかがでしょうか。
そうしたいと思われる方のために祈りますので、その方は僕と心をひとつにして、同じように祈っていただけますか?