ルカ18:1-8 『祈ることを教えてください①~主の祈り』2010/02/28 松田健太郎牧師
ルカ18:1~8
18:1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。
18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
18:3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。
18:4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、
18:5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」
18:6 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。
18:7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。
18:8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」
クリスチャンとして成長していくというのは、どういう事でしょうか?
どうなっていくと、クリスチャンとして成長してきましたねという事になるのでしょう?
聖書の知識が増えて、キリスト教の用語が使えるようになったらでしょうか?
それとも、伝道して他にクリスチャンを増やしたら、成長したという事なのでしょうか?
Iヨハネ 3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。
クリスチャンとして成長するという事は、イエス様に似ていくという事です。
しかし、なかなか変わらず、イエス様に似た者となっていかないのがわたし達でもありますよね。
どうすれば、もっとイエス様に似た者となっていく事ができるのでしょうか?
一言で言ってしまうと、わたし達をイエス様に似させるのは、私たち自身ではなく、聖霊の力です。
神様がわたし達の内に働いて、わたし達を変えてくださるわけですね。
では、わたし達がイエス様に似るために、自分たちでできる事は何もないのでしょうか?
もちろん、そうではありません。
わたし達を変えてくださるのは聖霊様ですが、わたし達はそのために自分自身を整える事ができるのです。
例えばそれは、神様に対して従順である事。
自分の思いやエゴを優先するのではなく、いつでも神様の御心にオープンである事。
そして、イエス様がもっていた習慣を身につけることです。
多くのビジネス書でも言われている事ですが、わたし達を作り上げるひとつの大きな要素は、わたし達が持っている習慣です。
ビジネスに成功する人のタイプは色々ですが、ビジネスに成功する人の多くが身につけている習慣があります。
成績が良い子供たちの勉強方法や通っている塾は様々ですが、成績の良い子達の多くが身につけている習慣があります。
その習慣を身につける事によって成功に近づいたり、成績を上げる事ができるわけですね。
わたし達がイエス様に似るためには、イエス様の習慣を真似て、身につければ良い。
イエス様が地上に来られた事の意味の一つは、わたし達に人としてのお手本を見せるためでもあったのですから、これはとても利に適った事だと思います。
① 神様との関係を深める
イエス様がもっていた習慣とは何でしょうか?
マルコ 1:35 さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。
マルコ 6:46 それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。
ルカ 5:16 しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。
わたし達が真似るべき、イエス様の習慣のひとつは天のお父様との時間を過ごす事、つまり祈りです。
わたし達の教会を始め、福音派の教会の多くで祈りが足りないのではないかと思います。
僕は、日本の教会に祈りが少ないのは、お互いに空気を読んだり、察し合うという事が必要とされる文化性にあるのかもしれないと思っています。
わたし達は、言葉に表さないでお互いに察し合うという事に慣れすぎて、自分の思いを表現する事が下手になってしまったのかもしれません。
全知全能であるわたし達の神様は、確かにわたし達が言葉にしなくてもわたし達の思いを知り、わたし達の必要を知っておられる方です。
しかし大切なのは、わたし達に必要なものを知ってもらう事なのではなく、わたし達が心を開いて神様に向き合う事なのです。
キリスト教は宗教ではなく、神様との親しい関係の事だという話を先週のメッセージでしました。
わたし達は神様と対話しなくても、救いを手にする事はできます。
しかし、ただ救いを受け取っただけでは、クリスチャンとしての醍醐味のほんの一部を味わっているに過ぎません。
クリスチャンとして生きることの素晴らしさは、神様との親しい交わりの中にこそあると僕は思います。
そして、対話する事なしに、天のお父さんとの親しい関係を築く事はできないのです。
主は、わたし達にこう言われています。
黙示録 3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
この言葉は、未信者への招きの言葉として使われる事が多い言葉ですが、文脈を考えればむしろ信者との親しい交わりを願う言葉だという事がわかります。
わたし達ともに語り合い、笑いあい、共に涙をする交わりを、神様ご自身が願っているのです。
わたし達が心を開いて語りかけるとき、その交わりは始まります。
どうかその心の扉を開いて、主を招き入れてください。
② 祈れないほど忙しい?
さて、祈りの大切さは何となく判ってはいても、どうも後回しにしてしまうのがわたし達でもあります。
「わかってはいるけど、忙しくて祈っている時間なんてありません。」という方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、イエス様は別に暇があったから祈ったわけではありませんね。
困っているほかの人たちを差し置いてでも、祈りを優先させたのです。
大きな働きをなしたクリスチャンの多くが、やはり多くの時間を祈りに費やしています。
マルティン・ルターは宗教改革の最も忙しいときに、毎日2時間を祈りに費やしたといわれます。
また、カルカッタで虐げられた人々のために働いていたマザー・テレサも、「一日を30分祈らずに始める事など考える事はできません。」と言っていたそうです。
彼らも、当然祈る時間があったから、祈っていたのではありませんでした。
そうではなく、祈らないではいられなかったのです。
彼らが直面していた問題の多くはあまりにも大きく、彼ら自身に解決する事ができないような事ばかりでした。
だからその問題を、祈って神様に委ねるしか方法がなかったのです。
わたし達は多くの場合、祈る時間があったら、自分にできる事をやるべきではないかと考えてしまい勝ちです。
そしてその行動そのものが、わたし達の信仰のあり方を示しています。
わたし達はその時、神様ではなく自分の力の方が信頼できると思っているから、祈る事を後回しにしてしまうのです。
福音を中心にして生きる人生は、自分の行いが問われる宗教とは違って、神様の恵みに委ねて生きる事が大切な要素です。
わたし達が自分の力に頼らず全てを委ねようとするとき、祈りはわたし達の中から自然に湧き起こるものなのです。
忙しく、自分の力の限界を知っているクリスチャンほど、よく祈るのです。
わたし達はどうでしょうか?
自分の力に頼りすぎてしまってはいないでしょうか?
神様は、わたし達がその重荷を下ろして、すべてを主に委ねる事を待っておられるのです。
③ 神様の最善に任せる
来週からしばらくの間、祈りについてのシリーズの中で、祈りについてはじっくりお話して行きたいと思っています。
その中で、わたし達はどうやって祈ったらいいのかという事についてもお話していきます。
しかし、今日お話を締めくくる前に、祈りに対して、また神様に対して抱いてしまいがちなひとつの誤解を解いて終わりたいと思うのです。
メッセージの前に読んだ聖書箇所には、ひとりの裁判官が描かれていました。
実は多くの人が、神様とはこの裁判官のようなお方だと考えているようなのです。
そしてこのように言います。
「神様はわたし達の祈りに、そう簡単には答えてくださらない。神様が祈りに答えてださるためには、わたし達はもっと良い人間でなければならないし、良いクリスチャンでなければならない。だからせめて、このやもめのようにしつこく祈ろう。そうすれば、神様もそのお心を変えてくださるかもしれない・・・。」と。
イエス様のこのたとえ話は、多くの人たちにそのような誤解を生ませてきました。
しかし、このたとえ話は、決して神様がこの裁判官のようなお方だという話ではありません。
このたとえ話の冒頭には、このように書かれています。
18:1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。
また、話し終えてから、イエス様はこの様に付け足しているのです。
18:6 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。
18:7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。
18:8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。
不正な裁判官でさえ、わいろを払う事ができないやもめに対しても、しつこく頼まれれば願いを叶えてやるのです。
ましてや、神様はこんな裁判官とは似ても似つかないし、わたし達もこのやもめのようにうるさく訴え続ける事しか方法がない存在ではありません。
神様はわたし達をわが子として愛してくださっているのであり、わたし達の最善をいつでも願っていてくださる刀のです。
そんな天のお父様が、わたし達の祈りを聞いてくださらないなんて事があるでしょうか?
わたし達は、神様がこの事には答えてくださらないのではないかと心配したり、あきらめたりしてはなりません。
もしその祈りの答えが、わたし達の願っているのとは違うものだとしても、それはわたし達にとっての最善が、わたし達の求めてるものの中にはないという事に過ぎません。
神様はわたし達の存在を喜び、愛し、祝福したいと願っていてくださるのです。
祈りを通して変えられるのは、神様ではなくてわたし達です。
わたし達が祈るとき、その祈りを通してわたし達の心は神様に向けられ、神様の御心と一致していくのを体験します。
Iヨハネ 3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。
祈りこそ、わたし達をキリストに似た者へと変えていくために必要なものです。
祈りを通して、わたし達が自分の思いや計画ではなく、主の想いと計画を仰ぐことができますように。
そして、やがてはわたし達の思いが主の御心と一致し、完全に大人になってキリストの満ち満ちた身丈に達する事ができますように。