ルカ5:1-11 『弟子を招く』 2009/02/08 松田健太郎牧師

ルカ5:1~11
5:1 群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、
5:2 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
5:3 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟にのり、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
5:4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。
5:5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。
5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。
5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。
5:9 それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
5:10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
5:11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。

人生と言うものは、いつもうまくいくとは限りません。
何をやってもうまくいかず、人生に疲れ果ててしまい、やる気をなくしてしまうという事もないわけではありません。
今まで自分が一生懸命にやってきた事は何だったのか、すべては虚しかったのではないかと思うことがあります。
そんな時、わたし達はどうしたらいいのでしょうか?

多くの人たちは、何とかして自分の力で打ち勝とうと努力をします。
しかし、同じ自分が考えられる事にはそれ程の幅があるわけでもありませんから、結果的に同じ所グルグル回って疲れ果ててしまうのではないでしょうか。
さもなければ、まったくやる気をなくしてしまい、虚しい毎日をただ無気力に送るような人も、決して少なくはありません。
人生の挫折とはやっかいなもので、わたし達はなかなかその様な経験から抜け出す事ができなかったりします。

今日は、シモン・ペテロとイエス様との間に起こった出来事を通して、そのような人生の挫折からどうやって抜け出す事が出来るかという事を共に学んで行きたいと思います。

① イエス様とペテロ
ガリラヤ湖は、40種類を超える魚の豊かな事で知られる湖です。
特に、湖の東側ではたくさんの魚が群れていて、夜の間に底引き網を使って漁をするのが普通だそうです。
その日、シモン・ペテロを初めとする漁師たちは夜通し働き続けたのですが、しかし魚は一匹も獲れませんでした。

身を粉にして、一生懸命に働いた結果、しかし何の結果も残す事が出来なかった時は、疲労感もただならぬものがありますね。
しかし、次の漁のために網を洗っておく必要があります。
その日の内に洗っておかないと、網はすぐダメになってしまうからです。
シモン・ペテロはくたくたに疲れながらも、船から下りて網を洗っていました。
そこに、イエス様がやってきたのです。

この時には、イエス様の評判は多くの人々に伝わっていて、多くの群集がイエス様の言葉を聞こうとして押し寄せていました。
それまでイエス様は、岸辺で話をしていましたが、そこにあったペテロの舟に乗って岸から少し漕ぎ出させ、その舟の上から人々に話そうとしたのです。
舟が即席の水上ステージとなるわけですね。

それにしても、よりにもよってこんな疲れてくたくたな時に、疲れ果てたペテロに声をかけなくてもいいじゃないですか。
疲れていることくらい見ればわかるでしょう?
しかし、もちろんイエス様はそれを知った上でペテロに声をかけたんですね。
そしてペテロの方も、「疲れていますから、別の人に頼んでください。」とは言いませんでした。
イエス様の言いつけに従って、イエス様を乗せたまま、少し沖の方へと舟を漕いでいったのです。

ペテロがこの時、どうして断らなかったのかという事はわかりません。
聖書箇所の中では触れていませんが、この出来事の直前に、ペテロがイエス様に姑を病から治してもらうという話が出てくるので、気持ち的に断りづらかっただけかもしれません。
しかしいずれにしても、わたし達には疲れていようと何だろうと、イエス様に従うべき時があります。
わたし達は自分の思いではなく、主に従うという事から、新しい事が始まるという事がたくさん起こるからです。

そんなわけで、ペテロは綿のように疲れた体を引きずるようにして、舟を漕ぎました。
舟の上で話されるイエス様の声を、ペテロは間近に聞くことになったのです。
しかし疲労困ぱいのペテロには、イエス様の言葉はあまり響く事もなかったのではないでしょうか。
疲れていて眠いので、一刻でも早く家に帰りたいと思っていたことでしょう。

しかし、そんなペテロの心を読みすかしたように、説教を終えたイエス様はペテロにこのように伝えたのです。

5:4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。

② お言葉どおりに
考えようによっては、これは酷いことですね。
シモン・ペテロは疲れ果てているのです。
すぐにでも帰って休みたいと思っているのに、舟を漕ぎ出させて、その舟の上から人々に語りかけたいと言う。
その通りにして、これで開放されるのかと思えば、今度はもっと沖へ漕ぎ出してせっかく洗ったばかりの網を湖の中におろしなさいと言うのです。

ガリラヤ湖の漁は本来夜に、もっと浅瀬の方でするものです。
そして、一番魚が取れるその場所で、その時間に漁をしたにもかかわらず魚は一匹も獲れませんでした。
それなのに、今ここで網をおろしても、魚など獲れるはずがない。
シモン・ペテロはプロの漁師です。
いつ、どこに網をおろせば魚が取れるかという事は、自分の方がよほど知っている。
イエス様は大工の息子であり、ガリラヤ湖での漁の事は素人ですから、そんな常識はずれの事を言うのも仕方がないことでしょう。
それにしても、何もこんな疲れている時に言わなくてもいいじゃないですか・・・。

しかし、シモン・ペテロはこれまでに何度もイエス様と話をし、言葉だけではなく実際に起こる出来事のひとつひとつを見ていく中で、色々な事を感じてきました。
彼は、水がぶどう酒に変わるのを目撃したんです。
自分の姑の熱病が癒されるのを目の前で見ました。
目の前で、人々から悪霊が追い出されるのを目にしました。
今度も、何かがあるのかもしれない。

5:5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」

この時のペテロは、まだイエス様が神であるという確信がありませんでした。
この方こそメシヤだという認識はないわけではなかったのですが、彼の中にはまだ疑いがあったのです。
だからペテロは、イエス様を“先生”と呼んでいますね。
しかしペテロがイエス様の言葉に従って網を投げ入れた時、ペテロは再び、常識を覆すような出来事を目にするのです。

5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。
5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。

イエス様はわたし達に、「深みに漕ぎ出して網をおろしなさい」と命じます。
それは、わたし達が挫折して疲れ果て、もう動きたくないと思っている時かもしれません。
それは、わたし達の常識から大きく外れて、ばかばかしい事かも知れません。
しかしわたし達が主の言葉に従って行動するとき、そこには常識を超えた神様の御業が表されるのです。

わたし達が挫折を経験して打ちのめされる時、わたし達はこのような転機を迎えようとしているのかもしれません。
わたし達のなすべきは、主の声に耳を澄ませ、なすべき事を示していただくように祈る事です。
そしてそれに従う時、わたし達は主によってしかなし得ない方法でそこから引き上げられるのを経験するのではないでしょうか。

③ 何もかも捨てて
シモン・ペテロを初めとする漁師たちはこの時、生まれてこの方見たことのないような大漁を経験する事になりました。
人々は、常識はずれの大漁に、歓喜の叫びをあげて喜びました。
舟に入りきらないような、下手をすれば舟の方が沈んでしまうくらいの魚を目にして、大ハシャギで網を引き上げます。
しかしそんな中、ペテロの頭だけはどんどん冷静になっていました。
「あまりに多すぎる。」
それは、彼の常識をあまりにも大きく上回っていて、むしろ不自然でした。
彼はプロであったからこそ、ここで起こっている事は普通の出来事ではない事がよくわかりました。
これは、「今まで知らなかった穴場を見つけてよかった」と言うような話しではないという事に、ペテロやその場にいた他の弟子たちは気がつき始めていたのです。

5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。
5:9 それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
5:10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
イエス様を“先生”と呼んでいたペテロが、“主よ”と呼んでいます。

ペテロには、これまで共に過ごしてきたイエス様が神であるという事が、この時やっと実感をもってわかったのです。
そんな方を、今まで自分はメシヤだと言いながら、神であるとは思っていなかった。
疑いをもって、自分の方が漁の事はよくわかっていると思っていた。
しかし、わたし達を作り、この地上の全てを創られたお方にどんな不可能があることでしょうか。
シモン・ペテロは自分の不信仰と愚かさにいたたまれなくなって、イエス様の前にひれ伏しました。

そんなペテロに、イエス様は「恐れる事はない。」と言います。
それは、自分の罪深さに目覚めたペテロに対する、赦しと、慰めの言葉に他なりませんでした。
そしてイエス様はペテロに、これからあなたは、魚ではなく人間を捕る漁師となるのだと言ったのです。
食べるために魚を捕ってきたペテロでしたが、これからはそうではありません。
イエス様のために人間を、命を与えるために捕るものなるのです。

5:11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。

仕事も辞めて、全てを捨ててイエス様についていく、それだけのために生きていくという生き方は、すべてのクリスチャンに求められている事ではないかもしれません。
しかし、神様がわたし達に見せてくださる数々の目の当たりにするなら、わたし達は人生のすべてを投げ出してでも、イエス様についていく価値を見出すのです。

この教会を立て上げてきた全ての宣教師たちが、自分たちの故郷を離れて、文化も考え方も違うこの地で福音を伝え続けてきました。
多くの牧師達もまた、安定した収入のある他の仕事ではなく、どれだけがんばっても決して裕福な生活は出来ないであろうこの仕事を選ぶのは、イエス様とともに歩む生き方の中に、他のどんなものにも勝る喜びがあるからです。

この素晴らしい、主イエスとの体験をするためには、わたし達は沖へ漕ぎ出さなければなりません。
いつまでも岸辺にいたのではだめなのです。
それは、主のお言葉に従う事から始まります。

皆さんには、自分はこっちだと思っている道があるかもしれません。
あるいは疲れ果てていて、もう動きたくないと思っているかもしれません。
しかし神様がわたし達を導こうとしているのは、それとは全然違う、道なのではないでしょうか。

主が共にいてくださいます。
もっと遠くへ、もっと深みへと、主と共に行こうではありませんか。

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