『教会を生み出す(2)教会は生まれる』 2017/06/04 松田健太郎牧師
創世記 1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
先週から始まった、「教会を生み出す」というシリーズの2回目です。
教会開拓についてお話をしていますね。
先週お話ししたのは、神様が心から教会開拓を願っているということでした。
そして、私たちがもっと外向きになっていかなければ、教会に満足する事は決してないというお話をしましたね。
今日はその続きです。
教会開拓について一緒に考えていきましょう。
① 教会が生まれるのは自然であり当然のこと
さて、教会はどのように開拓されていくべきでしょうか?
ある時は、誰かやりたい人が出て行って、ひとりで開拓するということがあります。
ある時は、教団がどこかの地域に教会を開拓するという計画を立てて、教団によって生み出されます。
ある時は、私たちの教会のように、宣教団体によって教会は生み出されてきました。
でも、この『生み出す』という表現に注目してみて下さい。
皆さんは、何から生まれてきたでしょうか?
何かの組織によって生み出されましたか?
あるいは、機械によって生み出されたでしょうか?
それとも、動物から生まれてきましたか?
いいえ、特別な場合を除いて、人間である皆さんは、人間から生まれてきたはずです。
それと同じように、教会が教会によって生み出されることが、最も自然な形なのではないかと僕は考えているのです。
聖書は、教会がどのようなものだと教えているでしょうか?
主にある家族、キリストのからだ、いろいろな表現がされていますが、その中で最も美しく表願されているのは、キリストの花嫁としての教会です。
雅歌の話はまさに教会の姿ですし、イエス様のたとえ話にも花嫁としての教会は何度も登場します。
ヨハネ 3:29 花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。
そして黙示録でも、婚姻を待ち望む花嫁としての教会の姿が美しく描かれています。
黙示録 19:7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。
19:8 花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」
さて、教会がこのように花嫁として描かれていることには、示唆されていることがあるように思います。
それは、花婿と結ばれた花嫁が、やがてこどもを宿して出産するように、教会が新たに教会を産んでいくのは自然であり、当然のことだということです。
私たちは何か、教会を生み出すということをあまりにも特別の事のように考えすぎているのかもしれません。
私たち教会は、イエス様の花嫁となり、そして自然な形で、今度は母教会となり、娘教会を生み出していくのです。
そう考えてみると、若さと元気がある内に生み出さなければ、私たちは教会を生み出す体力も失ってしまうことになります。
教会員の平均年齢70代になった教会が新たに教会を生み出そうとしても、それはかなり難しいことだと思います。
聖書にはサラやエリサベツのように、高齢で母親となった特別な例はともかくとして、若さと元気がある内に教会を生み出すことがベストでしょう。
そして神様は、冒頭で読んだ創世記の言葉のように、このように言われています。
創世記 1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
これは、私たち人類が本来あるべきだった姿です。
つまり、神様の御心に従う私達教会は、このように地を満たしていくように導かれているのではないかと思うのです。
② 子を育てる喜び
「え~? 出産なんて、大変じゃないですか!」と思われる方もいるでしょう。
確かにその通りです。
僕は出産したことがないのであまり知ったようなことを言えませんが、出産には大変な労力と、痛みが伴います。
教会を生み出すこともやはり、楽なことではありません。
しかも、大変なのは出産だけではないですね。
産まれた後も、大変な状態は続きます。
子どもが生まれたのを見届けて、「良かったね!」と言ってほったらかしにしていたら、大変なことになってしまいますね。
産まれたばかりの教会も、同じです。
私たちは生まれた子どもを、しばらくの間養い育てる必要もあるのです。
物理的にも、経済的にも、私たちは生まれた新しい教会の面倒をみなければなりません。
出産も、子育ても、大変なことじゃないですか?
どうしてこんなことをしなければならないのですか?
自分たちが幸せだったらそれでいいでしょう?
でもね、私たちも結婚したら子供が欲しいと思いますよね?
そして、条件が整って神様の許しがあるならば、子どもを産んで育てるじゃありませんか。
大変なのに、どうして子供が欲しいと思うのでしょう?
それは、子どもを産み、育てる事の中にも大きな喜びと大きな祝福があるからです。
教会を生み出し、育てる事もまた、そのような喜びと祝福が伴うことなのです。
ひとつのいのちが産まれ、赤ちゃんから始まり、依存しいていたけれど、やがて自立して大きく育っていくのを見るのは、本当に嬉しいことです。
それだけではありません。
出産と子育ての素晴らしさは、その体験を通して、親もまた成長していくことができるということです。
私たちは、教会開拓の過程でさまざまな事を学びます。
新しいことに携わり、新しい人間関係の中に入ります。
その体験を通して、教会を生み出す私たち自身が、神様とともに歩み、より頼むことを覚え、神様の御業を体験し、福音を宣べ伝えるために力を尽くし、教会として成長してくことになっていくのです。
③ 教会には寿命がある
さて、私たちがもうひとつ考えておく必要があるのは、今ある教会は、やがてなくなるものだということです。
先週のメッセージで、これから10年の間に2000の教会が閉鎖するという統計を紹介しました。
でもそれは、決して他人ごとではありません。
私たちの教会もまた、いつかそのような時が来るのです。
黙示録には7つの教会が出てきて、そこには良い教会も悪い教会もありました。
その地域の教会が足場となり、福音は地中海へと広がっていったのです。
しかし、その中で今も残る教会はありません。
7つの教会があったトルコは、今ではイスラム教の国となっていて、クリスチャンは人口の0.01%しかいません。
ヨーロッパに行けば、1000年前に建てられた教会堂があったりはしますが、残っているのは建物だけで、人の集まりとしての教会はすっかり死んでしまっていたりします。
永遠に続く教会は、この地上にはありません。
教会にも、寿命があるのです。
アメリカにあるヴィンヤード・チャーチのジョン・ウィンバーという牧師が、ニューヨークで教会のお葬式に参加した話をしています。
その教会は、長く続いた教会でしたが、高齢化が進み、信徒の数が減り、ついに閉鎖しなければならなくなりました。
教会の葬式というのは、その教会で行われる最後の礼拝だったのです。
しかし彼は、そのお葬式は彼が今まで参加した中で最も美しい葬式だったと言いました。
なぜならそこは、その教会が生み出した娘教会、孫教会、ひ孫教会の人々でいっぱいになっていたからです。
母教会はなくなりました。
しかしその家族の遺産は、次の世代、さらにその次の世代に引き継がれていったのです。
それなら、その教会が死なないように努力すればいいじゃないかと思う方もいるかもしれません。
確かに、私たちはそのような努力もするべきだと思います。
でも、古くから通う人たちは、その人たちなりのスタイルがあり、その人たちなりのニーズがあるはずです。
例えば、今ある高齢者の方たちが通っている教会は、昔ながらの聖歌や賛美歌を使い、昔ながらのスタイルで運営がされています。
若い人たちを取り入れるためには、そのスタイルそのものを変える必要があるかもしれませんが、それでは彼らが喜びをもって礼拝を捧げられなくなってしまいます。
その文化を変える事は簡単な事ではありませんが、新しい器を作る事は難しいことではありません。
教会開拓とは、そうやって、新しい器を作っていくということでもあるのです。
イエス様は言っています。
マタイ 9:17 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」
クロスロードも、やがて古い皮袋となり、新しいぶどう酒の発酵に耐えられなくなる時が来るでしょう。
そうして命を終え、閉鎖する時が来るのです。
その前に新しい皮袋が生み出されていく必要があります。
私たちは、クロスロードの意志、遺産をその新しい皮袋に託していく必要があります。
クロスロード・インターナショナル葛西教会の閉鎖の時、そこには娘教会、孫教会の姿はあるでしょうか?
そうして私たちが、クロスロードの意志が伝えられていくのを見られるといいですね。