エペソ1:1-14 『 エペソ1~神の栄光 』 2013/08/11 松田健太郎牧師

エペソ1:1~14
1:1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。
1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
1:5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
1:6 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
1:7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。
1:8 神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、
1:9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、
1:10 時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、
1:11 私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。
1:12 それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。
1:13 またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。
1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

今日から新しいシリーズとして、エペソ人への手紙を一緒に読み進めていこうと思います。
このエペソ人への手紙は、小アジアのエペソという町を中心とした、いくつかの教会で回書として回し読みされたものであると言われています。
だから、パウロがエペソの教会に特別に宛てて書いたというよりも、多くの教会にとって必要だと思われる事を書いた手紙であると考えた方がよさそうです。

また、この手紙は、パウロがローマ帝国に捕えられて、牢獄の中で書いた手紙としても知られています。
パウロが牢獄の中で時間をもてあましつつ、じっくりと時間をかけて多くの教会に考えてもらいたい事を書いた手紙なのです。

それでは、どういった事をパウロは人々に伝えたかったのでしょうか?
この手紙のテーマは、「クリスチャンとは何か」であり、「教会とは何なのか」です。
ですから、現代のわたし達も、この手紙から大切な事をたくさん学ぶことができると思います。
わたし達はここから、クリスチャンと教会の本質を学び、それを現代にどう適用していくかを考えて行く必要がありますね。
まぁこれについては、追々話していきたいと思います。
まずは、この手紙を読み進めて行きましょう。

手紙の冒頭は、挨拶の言葉に加えて、神様を褒めたたえる言葉が並べられています。
専門的な言葉で頌栄(doxology)と言いますが、つまりは賛美です。
パウロは、わたし達が神様を褒めたたえるべき3つの理由を書き進めながら、わたし達クリスチャンがどのような者たちなのかという事を思い出させてくれています。
それでは、早速見て行きましょう。

① 神の選び
第一は、神様の選びについてです。

1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
1:5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
1:6 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

わたし達は、自分がクリスチャンになったのは、自分がキリスト教の神様を選んだからだと思っているかもしれません。
でも、実はそうではなく、神様の方がわたし達を選んでいたんだというのが、聖書の中でわたし達に教えている事です。

思えば、人生の中でイエス・キリストと出会い、クリスチャンになるという事は普通の事ではありません。
特に日本のように、クリスチャンの人口が少ない中では、わたし達がクリスチャンホームで生まれたり、クリスチャンと出会い、福音を耳にし、興味を持ち、それを信じるということ自体が奇蹟ではないでしょうか。

僕自身の事を考えてみても、仏教の家庭で育った僕がキリスト教の高校に進学した事。
そこでクリスチャンホームで育てられた青年と親友になった事。
自分の計画にはなかったアメリカに留学する事になった事。
そこで宣教師として日本にいた事のある牧師と出会った事。
その教会でクリスチャンの女の事を好きになり、振られた事。
その後ベスと出会い、結婚した事。
そのどれ一つとっても、なければクリスチャンになる事もなかっただろうし、ましてや牧師になるという事もありえませんでした。
恐らく、皆さんそれぞれにそのような経験があり、また今その途上にあるのではないでしょうか?

それにしても、神様はなぜわたし達を選んだのでしょうか?
もっとふさわしい働き手がいるんじゃないか。
自分のような人よりも、もっと有名人や、人格的にも素晴らしい人達がクリスチャンになったらもっと多くの人達に福音が伝わるだろうに、と思った事はないでしょうか。
実際には、教会に集まる人達の多くが何らかの問題を抱えていたり、心の病をもっていたり、ちょっと変わった人が多かったりします。
神様が選んだのなら、どうしてこんなわたし達を選んだのですか?

パウロは、別の手紙の中でこの様に言っています。

Iコリント 1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

イエス様が好んで関係を持ったのは、貧しい人達、宗教的に汚れた人達、病に冒された人達、みんなに嫌われていた収税人、蔑まれていた娼婦たちでした。
それは、現代にいたるまで同じです。

この教会に集う皆さんを見ていると、必ずしもこれに当てはまらないような気もしますけど、神様はうまくバランスを取られる方で、僕のような変わり物をこの教会の牧師として召されたりするわけです。
相応しくない者に与えられる恵み。
すべては、神様の愛によるのです。

② 神の贖い
第二に、神様の贖いについてパウロは述べています。

1:7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。
1:8 神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、
1:9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、
1:10 時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、
1:11 私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。
1:12 それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。

神様はわたし達を、天地の創造の頃から選んでいました。
しかし選ばれたわたし達は、単に相応しくないばかりか、罪によって汚れてしまい、神様との関係も断絶した状態なのです。
神様はそのような状態にあるわたし達を、贖う必要がありました。

『贖い』というのは、わたし達が普段使わない言葉なので、少し難しい言葉ですね。
特に聖書の中に出てくる贖いは、旧約聖書から来ている特別な意味もあります。
『贖い』というのは、奴隷となってしまった人のために代価を払って、買い戻すという意味の言葉なのです。
つまりここで言う『贖い』とは、罪の奴隷となって神様から離れてしまっていたわたし達を、イエス・キリストが自分の命を代価として買い戻して下さったという事を意味しています。

驚くべき事は、この世界の全てを創造された神様が、汚れて神様には相応しくなくなってしまったわたし達のために全力を尽くし、わたし達の目線まで降りて同じ立場となって下さり、さらに命を投げ出して救って下さったという事です。
それは、神様がただただわたし達を愛しているからに他なりません。

③ 神の保証
第三は、神様が与えて下さる保証です。

1:13 またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。
1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

神様は、相応しくないわたし達を選び、主にある働き人としました。
そのために神様は、命をかけてわたし達に必要な贖いをして下さった。
しかし神様のして下さった事は、そこで終わらないんです。
さらに、イエス様によって知恵と思慮深さが与えられ、わたし達の欠けている部分を補って下さっているのです。

神様は、わたし達が御国を受け継ぐ事の保証として、聖霊を与えて下さったのだとパウロは書いています。
これは、単に死んでから天国に行けるという事の保証として聖霊が与えられたという事ではありません。
なぜなら、天の御国は死んでから行くというだけでなく、信仰を持った時からスタートしているからです。

聖霊というのは、三位一体である神様の一部です。
つまり、聖霊が与えられているという事は、神様がわたし達の内に住んで下さっているという事なのです。
それによって神様は、いつでもわたし達と共にいて、わたし達を助けて下さり、語りかけて下さり、わたし達を正しい方向に導き、わたし達に力を与えて下さいます。
天国というのは、極楽浄土というイメージというよりは、神様がいる場所という事ですから、つまり聖霊がわたし達と共にいるという事は、そこにはすでに天の御国があるという事なのです。

聖霊が、わたし達の足りない部分を補って下さるから、わたし達に力がなく、頼りないようでも、神様のための働きをする事ができるのです。
聖霊が力を与えて下さるから、この世の弱い者であるはずのわたし達が、強い者以上の力を発揮する事もできるはずなのです。
でもそのためには、わたし達がもっともっと、自分の力に休んで、聖霊が豊かに働いて下さる事のできる状態にならなければなりません。
それはつまり、自分自身を神様の支配の中に委ねるという事です。

その時わたし達は、弱く頼りないようであっても、そこに働いて下さる神様の力によって神様の働きをなす事ができるのです。

そのようなわけで、パウロが語った3つの賛美は、別々のものではなく、それぞれが関係し、補い合っている神様からの贈り物です。
これは全て、神様がわたし達を愛している事の証に他なりません。
そしてだからこそ私達は、神様を賛美するのです。

エペソ人への手紙はここから始まります。
この全てが大前提として、話が進められていく事を忘れないでください。
それでは来週から、この手紙の本題に入っていきたいと思います。

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