エペソ3:14-21 『 エペソ6~満ち満ちたさまにまで 』 2013/09/15 松田健太郎牧師
エペソ3:14~21
3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。
さて、この聖書箇所、皆さんには聞き覚えのある箇所ではないでしょうか?
インターネットでこのメッセージを見たり聞いたりしている皆さんには、申し訳ないのですがわからないと思います。
でも、この教会に通っている皆さんは、「何か、どこかで聞いた事があるな」と思っていただきたい言葉なのです。
そう、これは、わたし達がここしばらく祝祷の言葉として使っている言葉ですね。
毎回お話していることですが、エペソ人への手紙のテーマは、「クリスチャンとは何か?」「教会とは何か?」と言うことです。
1~2章までの間、パウロはこのテーマについて断片的にですが話をしてきました。
そして、わたし達があるべきクリスチャンとして、またあるべき教会として成長していくために何が必要なのかと言う問いへの答が、この祈りの中に込められています。
わたし達がキリストの体として、神の国の国民として、また神様が住まわれる主の宮として機能していくために、何が必要なのでしょうか?
① 内なる人を強くして
わたし達が本当のクリスチャンとして、また教会として機能していくために必要なことは、わたし達の“内なる人”が強くされる事です。
3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
“内なる人”とは何でしょう?
“内なる人”とは、わたし達が信仰を持ったとき、神様によって新た与えられた新しいいのちです。
わたし達が、新しい自分としてより強くされていく事が求められているのです。
パウロは、他の手紙の中でこのように書いています。
IIコリント 4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
肉としてのわたし達、元々生きていたわたし達は、年齢と共に弱り、様々な苦難艱難の中で衰えていきます。
それは決して、楽しい経験ではありません。
それは自分の無力さ、力のなさを思い知らされる体験だからです。
あるいは、自分の価値観を完全に壊される体験をする人もいるでしょう。
それまでにあった自我が強ければ強いほど、強烈な体験を通して変えられていきます。
しかし、もちろんそれだけで終わるのではありません。
わたし達の内側に生きる新しい命は、聖霊によって更なる力を得て、日々新たにされていくのです。
わたし達は、自分の力や可能性だけに頼って生きている限り、新しい命が成長することはありません。
そして、内にある新しいわたし達が成長するのでない限り、わたし達は本当の意味でクリスチャンとして、また教会として機能することはできないのです。
これは、何年クリスチャンとして生きていたかどうかはあまり関係がありません。
クリスチャンとして何十年も生きてきた人が、晩年になって変えられる経験をしなければならない事もあるでしょう。
あるいは、自分でも自覚のないままに、素直に変えられて行く人もいるでしょう。
皆さんの中には、まだ変えられてない人もいるかもしれませんし、今変えられている最中の人もいるかもしれません。
それはもしかしたら、辛い体験かもしれませんが、内なる皆さんが生きるとき、そこには素晴らしい栄光が待っている事を忘れないでいてください。
② キリストが心のうちに住む
わたし達の内なる人が強く成長するために、どうしても不可欠な事があります。
それは、キリストが心の内に住んでくださるということです。
3:17a こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。
平たく言えば、わたし達がクリスチャンになるということですよね?
クリスチャンになると言うことは、単にキリスト教と言う宗教に属する事を決める事ではないと僕は思っています。
一般的にはそれで洗礼を受けることできますし、クリスチャンと呼ぶ事もできるわけですが、それは聖書の中で神様が求めているものとはまったく違います。
クリスチャンになると言うのは、わたし達が心の扉を開けて、イエス・キリストを心の内にお迎えするということです。
しかも、ただ中にいるのではありません。
わたし達は、お迎えしたイエス様を本来いるべき所にお迎えする必要があると思います。
それは、わたし達の心の王座です。
それまでのわたし達は、自分が自分の王座に座り、神として自分を支配し、自己中心的に全てのものを思い通りにしようとしていたわけです。
でもイエス様を心の内にお迎えして、わたし達の代わりに全てを支配していただく時、わたし達は全てを知っておられる方の導きの中で、より正しい道を歩む事ができるようになるのです。
もし、まだイエス様を心の内にお迎えしていなかったら、今日お迎えしてみませんか?
そして、自分が神として全てをコントロールしようとしていたと言う罪を悔い改めて、神様の支配の中で生きてみませんか?
その決心をしたなら、ぜひ後で僕のところまで言いに来てください。
また、ネットでこのメッセージを読んだり聞いている方は、メールで教えて頂けたら嬉しいです。
新しい命が始まった喜びを、共に分かち合ってほしいからです。
③ 満ち満ちたさまにまで
さて、イエス様が心の内に住み、新しい命を与えられ、内なる人を聖霊によって強くされたわたし達は、どうなるのでしょうか?
パウロはこう祈っています。
3:17b また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
つまり、内なる人が生きるなら、わたし達は愛に根ざし、愛に基礎を置いた生き方をするようになるのだとパウロは言っているのです。
多くの場合、わたし達は宗教に熱心になればなるほど愛がなくなっていきます。
「こうするべきだ。」「こうあるべきだ。」という正しさばかりが前に出てしまって、間違いや失敗を認める事ができなくなっていくからです。
これは、内なる人が強くされている状態ではないのです。
もちろん正しさをないがしろにして良いと言う話ではありませんが、一番大切なのは愛であり、愛がなければ正しさがあっても何の意味もありません。
わたし達は愛である神様に属しているのであり、わたし達は何にも増して、愛を求める事を教えられているからです。
ヨハネ 15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
Iコリント 13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
それでも、わたし達の中から生まれてくるのはちっぽけな愛に過ぎません。
内なる人が成長する程わかっているのは、自分の小さな愛に比べて、神様の愛がどれほど大きなものであるかという事ではないでしょうか?
わたし達は、聖霊によって、その愛の大きさを知る事が出来るようになります。
大きさを知ると言っても、その計り知れなさがわかると言うようなものです。
広さを思えば、神様の愛は全ての人の人種、年齢、性別や性質の全てを超えて広いのです。
長さを思えば、神様の愛は永遠にいつまでも長いものなのです。
高さを思えば、神様の愛は天までも高くわたし達を引き上げ、深さを思えば、イエス様は地獄の底までもわたし達を追いかけ、救い出してくださるのです。
その神様の愛を知った時、わたし達の心は満たされていきます。
その愛を知れば知るほどに、その奥深さ、計り知れなさを理解すればするほどに、わたし達の心は神様の愛で満たされ、その愛がわたし達をより大きく成長させていくのです。
神様の愛によって、わたし達はやがて神様の満ち満ちたさまにまで達する事ができると聖書は語っているのです。
罪深く、欠けも問題もあるわたし達は、確かに神様の満ち満ちたさまにまで達する事がなければ、キリストとなる事はできないでしょう。
しかし、「神様の満ち満ちたさまにまで」という事が、本当にわたし達に可能なのでしょうか?
そんなこと、あるはずがない事のように思えます。
しかし、パウロはこの祈りの最後に、このように言っているのです。
3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。
わたし達には、不可能でしょう。
でも神様は、わたし達の願うところ、思うところの全てを越えて、わたし達の上に働くことのできるお方です。
わたし達が全てを委ね、神様の愛を確かに受け取っていくなら、やがてわたし達はそうなるという約束を信じる事ができます。
すべてにおいて神様のようになることは、もちろんありません。
でも、色んな瞬間にそのような機会が与えられ、あるいは無意識の内に神様の体としての働きをわたし達はするのです。
わたし達を通して福音が述べ伝えられるとき、わたし達を通して人々に愛が伝えられるとき、わたし達を通して人々の心が癒され、絶望から立ち上がる事ができるとき、わたし達は神様の体としての役割を果たしているのです。
全てはまず、私たち自身が満たされることからです。
イエス様が住んでくださり、内なるわたし達が強められ、神様の愛を知り続けることです。
わたし達が神様の愛で満たされる事を、心から求め、祈りましょう。