ガラテヤ1:1-10 『 ガラテヤ1~恵みと平安 』 2013/05/05 松田健太郎牧師
ガラテヤ1:1~10
1:1 使徒となったパウロ――私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。――
1:2 および私とともにいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ。
1:3 どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
1:4 キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。
1:5 どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。
1:6 私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。
1:7 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。
1:8 しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。
1:9 私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。
1:10 いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。
さて、今日からしばらくの間、ガラテヤ人への手紙を一緒に読んでいこうと思います。
本当は、使徒の働きを終わりまでやってから手紙に入るつもりでしたが、使徒の働きのシリーズがしばらく続いていたので、一度手紙を挟む事にしました。
たくさんある中でガラテヤ人への手紙を選んだのは、まず第一にこの手紙がパウロの代表的な手紙のひとつだからです。
15世紀に宗教改革を起こしたマルティン・ルターは、ガラテヤ人への手紙を「最愛の手紙」と呼んで愛しました。
それは、この手紙の中に福音の本質がぎっしりと織り込まれているからです。
この手紙を選んだ第二の理由は、この手紙が基本的な教理について話をしているわかりやすい手紙だからです。
クリスチャンとして長く生きてきた方にも、キリスト教に馴染みの浅い方にも、この手紙の学びを通して福音の真髄というものが理解していただけるはずです。
① 使徒となったパウロ
さて、このガラテヤ人への手紙は、戦闘的な手紙としても知られている手紙です。
この手紙は初っ端からケンカ腰の口調で始まり、読者に対して「のろわれるべきです」いうような事を言ったり、愚か者と罵ったり、とにかく荒い言葉使いがたくさん使われているんです。
かつてイエス様も、パリサイ派の人々や律法学者たちに対して激しい口調で言う事がありました。
この時パウロもまた、戦わなければならない戦いがあったのです。
それは、一部の保守的なユダヤ人クリスチャンたちによって、間違えた教えがガラテヤの教会に広められていたからです。
ガラテヤの教会に影響を与えていた教えは、律法主義に逆戻りしようとする教えです。
律法主義というのは、ユダヤ人が守るように教えられていた宗教的な正しい行いを重要な者とし、それを守るのでなければ救いはないとする教えでした。
つまり、ユダヤ人になって、ユダヤ人と同じようにするのでなければ救いはないという事です。
使徒の働きの中で学んできた事ですが、エルサレム会議で決定されたのは、「救いのために必要なのは信仰のみ」という事です。
律法主義に逆行しようとするこの教えは、全教会の見解からも異端なのです。
パウロは、信仰による救いを福音の中心として教えていたので、保守的ユダヤ人クリスチャンたちからは特に敵対視されていました。
そこで彼らは、ある事に関してパウロを攻撃したのです。
それは、「パウロは使徒を自称しているが、12使徒ではなく、エルサレム教会から任命されたわけでもない。だから、パウロの言う事は真実ではない」という事です。
だからこの手紙は、自分が使徒である事を強く主張する、この様な言葉から始まっているのです。
1:1 使徒となったパウロ――私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。――
パウロは別に、使徒という地位にしがみつきたくてこの様な事を言っているのではありません。
自分が述べ伝えている福音が、神様から来た真理と言えるのか、それとも彼自身の思い付きからきた信憑性のない教えなのかをはっきりさせる必要があったのです。
確かにパウロは、12使徒の中には含まれていません。
その後、エルサレム教会から任命されたという事も書かれていません。
パウロが復活したイエス様と出会って回心する時に、イエス様から直接任命されているのですが、それを他人に証明する手立てはありません。
パウロは、誰かからの保証や権威によってではなく、その教えの内容と、行動によってそれが神様から来たものだという事を表すしかなかったのです。
② 恵み
それでは、パウロが教える福音とはどのようなものだったでしょう?
次の言葉がそれを明確にしています。
1:3 どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
今日のメッセージのタイトルにもなっている、恵みと平安という言葉は、パウロが宣べ伝えている福音の骨子ともなる言葉です。
それはどういうものなのか、少し詳しく見てみましょう。
まず“恵み”というのは、「受ける資格を全く持たない人に、一方的に与える善意、好意、救いの手立て」の事です。
これは、普通わたし達の中にはない発想です。
わたし達は普通、行動や物に対する報酬として物事は得られると考えるのです。
多くの人は、「良い事をしたから、あるいは悪い事をしなかったから天国に行かせてもらえる」と考えています。
自分の行動に対する“報酬”として救いが与えられているという事です。
しかし、「義人はいない。ひとりもいない。」と聖書は教えています。
それは、自分の行いの報酬によって天国に行く事ができる人は、この世界にひとりもいないという事なのです。
例えマザーテレサであっても、その行いによって神様から認めてもらえるという事はありません。
それは、わたし達が本質的には神様から離れてしまっていて、的外れのことしかできない罪人の状態にあるからです。
しかし、救いを受ける資格なんて本当は全くないわたし達を、神様ご自身が命をかけて救って下いました。
1:4 キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。
律法を完全に守って、神様の御心に適う事は誰にもできない。
しかし、不十分なわたし達を補うために、神のひとり子イエス・キリストが十字架にかかり、わたし達と神様との間を結んで下さった。
それを信じて受け入れる人には、誰でも救いが与えられる。
これこそが神様の愛であり、恵みなのです。
③ 平安
それでは、平安とは何でしょうか?
英語では「Peace」として訳されているこの言葉ですが、そこから連想するのは平穏無事であるという事かもしれません。
多くの場合、わたし達が人生の中で求めるのは、とにかく問題が起らず、平穏無事に過ごすという事ではないでしょうか?
でもわたし達の人生は、決して平穏無事ではすみません。
問題が起るし、苦難患難があります。
聖書が教えている平安とは、わたし達が平穏無事になる事ではなく、問題や苦難患難のただ中でも平安でいる事ができる状態の事です。
そんな平安は、いったいどこから来るというのでしょうか?
それは、イエス・キリストからだと聖書は言っているのです。
ヨハネ 14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
この言葉は、イエス様がまるで遺言のように残し、わたし達信じる者のために遺産のように残された約束の言葉です。
例え状況が悪くなる事があっても、それが神様のお許しの中で起っている事ならば必ず益とされる。
救い主の死という最悪の現実が、罪からの救いという最善のためにあったように・・・。
だからわたし達は、何も恐れる事がない。心を騒がせる必要がない。
イエス様とともに歩む限り、そこには必ず希望がある。
そのために、イエス様はその命をお捨てになり、自分自身を捧げて下さったのだから。
自分の行いが常に問われる律法主義の価値観の中には、決して平安は起りません。
律法を守っていると思える時にはほのかな優越感がありますが、そこにはいつ失うかわからないという不安がつきまといます。
問題が起れば、「自分の何が悪かったのだろうか? どんな律法を犯してしまったためにこのような苦難を経験しているのだろうか?」と自分を責める事になるのです。
こんな、恵みも平安もない律法主義的信仰だからこそ、パウロはそこにある怒りを隠そうともしません。
それは、人を神様から遠ざけ、せっかく命を投げ出して与えて下さろうとした十字架による救いを、台無しにしてしまうようなものだからです。
このような律法主義的な価値観は、実はわたし達の中にも起る事ではないでしょうか。
わたし達は、こうして聖書を読んでいると、イエス様やパウロの言葉にうなずきながら、「律法主義は間違っている。」と感じるのですが、その次の瞬間には自分もその価値観の中に陥ってしまっていたりします。
そして多くの場合は、その事に気がついてさえいないのです。
わたし達は、いつでも自分の尺度で全てを測り、それにそぐわないものを裁く傾向があります。
自分が守る事ができる律法だけを見て、それができない人達を失格者とするのです。
それこそ、律法主義的な価値観に他なりません。
イエス様はかつて、何度もこの様に言いました。
マタイ16:6 イエスは彼らに言われた。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」
だからわたし達は、パウロの怒りの手紙であるこのガラテヤ人への手紙からたくさんの事を学ぶことができるのです。
福音とは何でしょうか?
福音を知り、福音に立ち返りましょう。
それを、これから数週間かけて学んでいきたいと思います。
今日は、パウロのあいさつの言葉と同じ言葉でメッセージを閉じましょう。
どうか、わたし達の父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたの上にありますように。
どうか、この神様の上に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。