ガラテヤ3:1-15 『 ガラテヤ5~信仰によって生きる 』2013/06/16 松田健太郎牧師
ガラテヤ3:1~15
3:1 ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。
3:2 ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。
3:3 あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。
3:4 あなたがたがあれほどのことを経験したのは、むだだったのでしょうか。万が一にもそんなことはないでしょうが。
3:5 とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行なわれた方は、あなたがたが律法を行なったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。
ここしばらく、一緒にガラテヤ人への手紙を読んできています。
共に学んできた皆さんはお分かりになると思いますが、この手紙は激しい手紙です。
冷静に、理論立てて何かを教えようとしている手紙ではなく、パウロが激しい情熱に駆りたてられて、感情的になりながら思いのたけを訴えているのが、この手紙です。
今日の個所は、いきなり強烈ですよね。
3:1 ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。
イエス様はかつて、「『能なし』という者は最高議会に引き渡され、兄弟に『ばか者』という者はゲヘナの炎に焼かれる」と言いました。
パウロ先生、アウト~! というわけではないのです。
「バカ」にも色んなニュアンスがありますよね?
イエス様が警告したのは、「あいつバカだよなぁ。ああいうバカがいるからオレ達が迷惑するんだよ。」というような意味の「バカ」です。
でも、「オレがキミの事を愛していないと思ったのかい? バカだなぁ・・・」という「バカ」もありますよね。(笑)
パウロの場合は、愛情に溢れているけれど、少し叱責も混じった「バカ」です。
ガラテヤの教会は、パウロが直接福音を述べ伝えて始まった教会です。
彼らとの間には、すでにしっかりとした信頼関係があって、愛の関係の中にあるからこそ、遠慮のない言葉で叱り、真理に戻そうとしているのです。
① 聖霊の体験
ガラテヤの教会の人々を本来の福音に立ち返らせる手掛かりのひとつは、彼らがクリスチャンになった時にした特別な体験でした。
3:2 ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。
3:3 あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。
3:4 あなたがたがあれほどのことを経験したのは、むだだったのでしょうか。万が一にもそんなことはないでしょうが。
わたし達がイエス様を救い主として信仰を持った時、わたし達には聖霊という贈り物が与えられました。
その体験は、ガラテヤのクリスチャンたちにとっても同じなのです。
聖霊は、わたし達が律法を守るなど行いを通して与えられたものではありません。
むしろわたし達の内に働きかけて下さり、思いや行動を少しずつ御心に近づけて下さるのが聖霊の働きなのです。
それなのに彼らは、律法に即した行いを自分の力でしたかのように主張し、律法を行なわなければ救いなんてないかのような生き方をし始めていたのです。
何か深刻な病気に罹っている時、病気を癒す事ができる薬を手に入れたと思って下さい。
その薬は無料ですがとてもよく効く薬で、それによって病気は順調に治ってきました。
ところがある時、村のまじない師がそこにやってきたのです。
「あなたがかかっている病気には、昔からこの薬を飲むものだと決まっている。50万円でこの薬を買いなさい。」
私たちはすでに、良く効く薬を無料で手に入れて、病気が癒されているのに、「昔からやっている」とか、「50万円もするんだから効くに決まっている」という言葉に騙されて、その薬を買って飲み始めているのです。
「ああ、愚かなガラテヤ人」と言いたくなるでしょう?
薬を持っていないとか、治療方法がわからないというならまだしも、すでに薬を飲んで癒されているのに、今更どうしてそんな薬を買ってしまうんだって。
律法を守る事によって救われるという考え方は、ユダヤ人が長い間信じてきた方法でした。
しかし、わたし達はもっと優れた、信仰による救いという恵みを手に入れているのです。
私たちを癒すどころか、むしろますます罪が明らかにされてしまう律法主義の世界に戻ってはいけないと、パウロは教えているのです。
② 聖霊の働きとは
さて、聖霊についてもう少し掘り下げてみましょう。
ガラテヤの人達は、体験的にこの聖霊を味わっていたので、自分達が救われているという事に関して、疑いなくそこに立ち返る事ができたわけですよね。
わたし達は、どうやってその聖霊がいて下さるのかどうかを知る事ができるのでしょう。
第一に、聖霊は聖書の言葉を生きた言葉にして下さいます。
聖霊の助けなしに読む聖書は、あまり意味のわからない、宗教書でしかありません。
しかし聖霊が働かれる時、聖書は神様の生きた言葉となって私たちの心に響くのです。
第二に、聖霊は私たちの心にイエス様を伝えたいという思いを与えます。
人から嫌われる宗教の話なんて、したくないと思うのが普通でしょう。
しかし聖霊が働かれる時、わたし達はその人が自然な形でイエス様と出会うのを手助けする事ができるのです。
第三に、聖霊は私たちの心に罪を示して下さいます。
聖霊に満ちあふれている人は、自信に満ちあふれているようなイメージがあるかもしれませんが実際に起っている事はその逆です。
聖霊が働かれるほど、わたし達は自分の罪を知り、自分の小ささを知る事になります。
しかし、神様の赦しがそこにあり、神様の愛に包まれている事も知っているので、わたし達は自信を持つ事よりももっと確かな土台を得る事ができるのです。
第四に、神様の愛に満ちあふれます。
目に見る事も触れる事も出来ない神様を愛するなんて、聖霊なしには考えられない事ですが、聖霊が内に働いて下さる時、わたし達は神様の愛を実感し、神様への愛に溢れるのです。
第五に、私たちの中にも愛が生まれます。
聖霊が働かれる時、愛する事が難しいタイプの人、自分が苦手とするような人に対してさえも、愛を発揮する事ができるようになります。
第六に、他のクリスチャンとの間に家族の様な親密さが与えられます。
第七に、苦難の時にも平安と希望が与えられます。
第八に、ひとりひとりに特別な賜物が与えられます。
その賜物を通して、わたし達が神様の手足として、その愛を伝える働きをしていくようになるのです。
他にもあるかもしれませんが、これらは全て聖霊の働きによって与えられるものです。
それは必ずしもドラマチックな体験だとは限りませんが、本来の私たちの中からは、到底出てきそうにはないようなものだったりもします。
これを律法的に、自分の力や努力によってしようと思ったら大変ですよ。
私たちはそのために自己否定をして、自分自身を相当傷めつけなければならないかもしれません。
しかし御霊が働いて下さる時、わたし達は喜びの中で全ての事をする事ができるのです。
だからこそ、そこには神様が力を与えて下さっているのだという事を知る事ができるのです。
そして、律法主義の世界に戻ってしまう事は、この体験の全てを否定して、神様の働きを自分の手柄にしてしまう事に他ならないのです。
③ 聖霊の働きを体験するためには
それでは、私たちはどうしたらこのような聖霊の働きを体験する事ができるのでしょうか?
それはまず、わたし達が自分の貧しさを知り、イエス様を主として委ねる事です。
自分が乾いている事を知って、イエス様という、生ける尽きない井戸と繋がる事です。
聖霊を送って下さるのはイエス様だからです。
もしその聖霊を与えて下さるイエス様との関係をまだ持っていないなら、今その決断をしませんか。
皆さんがもし、イエス様を主として受け入れているならば、洗礼を受けていようがいまいが、自覚があろうがあるまいが皆さんはクリスチャンです。
皆さんの内に、聖霊が住んで下さっています。
私たちが聖霊の働きを体験するために必要な第二の事は、わたし達が自分の力による働きを休んで、聖霊に働いていただくという事です。
イエス様はいいました。
マタイ 11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
でもわたし達は、「イエス様、私は疲れていませんから大丈夫です。そこで座って見ていて下さい。」と、その働きを押しやってしまうのです。
私たちが聖霊の働きを体験するためには、聖霊に働いていただく必要があります。
そしてそのためには、わたし達は自分の働きに安息する必要があるのです。
そう考えた時、恵みの信仰ではなく律法主義によって仕えようとする事が、どれほど的外れで、聖霊の働きを邪魔する事になるか理解できるのではないでしょうか?
前回読んだ所で、パウロはこの様に書いていました。
ガラテヤ 2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
私はもう、自分の力によって生きているのではありません。
私の内に住んで下さるキリストによって、聖霊のお力によって生きているのです。
自らの力を信頼して生きるのではなく、神様の力を信じて生きているのです。
祈りましょう。