ガラテヤ3:6-15 『 ガラテヤ6~キリストにあってひとつ 』 2013/06/23 松田健太郎牧師
ガラテヤ3:6~15
3:6 アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。
3:7 ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。
3:8 聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。
3:9 そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。
3:10 というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」
3:11 ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる。」のだからです。
3:12 しかし律法は、「信仰による。」のではありません。「律法を行なう者はこの律法によって生きる。」のです。
3:13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。
3:14 このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。
3:15 兄弟たち。人間のばあいにたとえてみましょう。人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。
神様はわたし達を愛しています。
このままでは滅びに至り、神様から永遠に離れた状態となってしまうわたし達を救って下さるために、御子イエス・キリストを送って下さいました。
「わたし達は律法を守って善い行いをする事によって、救いを得るのではない。
イエス様を主として信じる信仰によって、それだけによって救いを得る事ができるのだ。」
それこそ、パウロが人々に伝えようとしていた福音です。
しかしそれは、キリスト教という新しい宗教が教える、新しい信仰なのではないか?
もしもそれが人の教えであって、神様に御心ではないのであれば、そんな教えはどれだけ心地よくても、何の意味もありません。
では、わたし達はどうやって神様の御心を知ればよいか、それは聖書なわけです。
この時代の聖書といえば旧約聖書の部分ですね。
旧約聖書と聞いてわたし達が思いだすのは、やっぱり律法だったり、怖い神様のイメージだったりするかもしれません。
果たして、パウロが言う“恵みによる救い”というものは、旧約聖書的に見ても正しいものだといえるのでしょうか?
今日は旧約聖書をひも解きながら、パウロとともに律法について考えてみたいと思います。
① 義とされたアブラハム
アブラハムは神様から特別に選ばれ、地の砂ほどに、また空の星ほどに子孫が与えられると約束されました。
そして、そこから世界の王メシヤ・キリストが産まれるという特別な祝福を受けました。
神様は、何をもってアブラハムを認め、その祝福に相応しいとしされたのでしょうか。
この様に書かれています。
創世記 15:5 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
15:6 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
アブラハムは、律法を行う事によって神様との関係を保ち、神様からの祝福を自分のものとしたのですか?
いいえ、アブラハムの時代には、そもそも律法なんてありませんでした。
彼はユダヤ人達の基準からすれば、ユダヤ人ではなく律法を知らない異邦人です。
そのアブラハムは、神様の約束を信じました。
そしてその信じる信仰によって、神様はアブラハムの義を認めたと書かれているのです。
それはつまり、信仰によって祝福を与えるのにふさわしいと判断されたという事です。
アブラハムが信仰のみによって認められたのであれば、後の時代の人達はどうしてそれでは十分ではないという事になるのでしょうか?
律法は、本当に必要なものなのでしょうか?
律法は、いったい何のために与えられたものだったのでしょうか?
そもそも、律法とは何なのでしょうか?
② 律法がもたらすもの
律法とは何だったのか、わたし達はそれをよく理解する必要があると思います。
律法は、アブラハムからは数百年あとのモーセの時代に与えられた、神様からの教えです。
ユダヤ人達は創世記から申命記までの5冊をすべて律法と呼んでいますが、律法の代表は十戒と言って間違いないと思います。
十戒というのは、①他の神があってはならない、②偶像を作って拝んではならない、③主の御名をみだりにとなえてはならない、④安息日を守りなさい、⑤父と母を敬え、⑥殺してはならない、⑦姦淫してはならない、⑧盗んではならない、⑨嘘の証言をしてはならない、⑩隣人を羨んではならないという10の戒めです。
この他にも、律法が12の項目として書かれている部分がありますが、その中では律法について、このように記されています。
申命記 27:26 「この律法の言葉を守り行わない者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言わねばならない。
律法を、全て完全に守り行わなければ呪いを受ける、と恐い事が書かれています。
かなり厳しいですね。
それでは、その律法を完全に守り続ける事は、そもそもわたし達に可能なのでしょうか?
答えはNoです。
わたし達は神様以外のものにすぐ信頼し、勝手な神様のイメージを作り出し、何でも神様のせいにし、安息する事ができず、家族に逆らい、人を傷つけ、いやらしい想像をし、人から搾取し、嘘をつき、自分を他人と比較してしまいます。
律法を守り続ける事は、実は誰にもできない事なのです。
これを、守る事ができる事を教えられているはずだと考えた所に、そもそもの問題があったんです。
だからユダヤ人達は、勝手に「これ位は大丈夫のはずだ」と決めつけて律法を守ろうとしてきました。
しかし、一度でも、そして少しでも背けば呪いを受けるのが律法の性質であり、神様の厳しさなのです。
だから聖書は言うのです。「正しい人はいない。ひとりもいない。」と・・・。
わたし達はみんな、死すべき、呪われた者なんです。
でも、だからこそイエス様がこの地上に来て下さり、わたし達に代わってその呪いを引き受けて下さったんじゃありませんか。
キリストがどのような方かを預言しているイザヤの言葉の中に、この様な言葉があります。
イザヤ 53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
イエス様はそのためにこの地上に来て、”木にかけられるものは呪われる”という聖書の言葉に従って十字架で死にました。
イエス様が、わたし達の呪いを引き受けて下さったのです。
その事を信じ、イエス様に信頼する信仰によって、わたし達は神様に認められたものとなるのです。
③ なぜ律法があるのか
誰にも守る事ができない律法なら、神様はどうしてそれを与えられたのでしょうか?
嫌味のためですか、それとも当てつけでしょうか?
もちろんそうではありません。
律法はもちろん完全なものであり、元々神様に創られたままの状態であれば、わたし達は自然に従う事ができたものだったでしょう。
しかし、わたし達は罪によって、それができなくなってしまったのです。
パウロはこの様に書いています。
ガラテヤ 3:19 では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたのです。
律法というものは、初めから守る事が目的なのではなく、わたし達は神様の御心からずれた存在なのだという事を知るために与えられていたものだったという事です。
どうしてできないのですか?
それは、わたし達が神様から離れ、自分自身を神としてしまったからです。
わたし達は多くの場合、聖書の中に書かれている罪というものを誤解しているんです。
ユダヤ人たちもそうでしたが、わたし達は、律法に背く事が罪だと思っていました。
だから、何とかして律法に従わなければと思うわけです。
でも問題なのは律法に従わない事なのではなくて、もっと根本的に、神様から離れ、霊的に死んでしまった状態にあるという事なのです。
その状態の事を、聖書では“罪”と呼んでいるんです。
そして神様は、「罪の状態にあるから、わたし達は正しい事ができないのだ」という事を、律法を通して教えようとしていました。
わたし達に求められていたのは、律法を守る事なのではなく、神様との関係を回復する必要があるという事を自覚して、それを求めるようになる事だったのです。
ガラテヤ 3:24 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
残念ながら、わたし達の罪そのものが、神様からのそのメッセージを見えなくしてしまい、自分の努力による救いを求めるようになっていったのです。
でも、罪とは何であり、律法とは何かという事を意識して旧約聖書を読んでみると、驚くくらい神様が求めていた事が明確になりますよ。
最初から最後まで、神様がイスラエルに求めていたのは、関係の回復なのです。
しかし、イエス様が地上に来て下さり、命をもってその罪を清算して下さり、復活によって死という呪いを打ち砕きました。
そしてついには聖霊が与えられ、失われていた神様との関係を回復して下さったのです。
パウロは手紙をこの様に続けています。
ガラテヤ 3:25 しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。
3:26 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。
3:27 バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。
3:28 ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。
わたし達が信仰によって救いを得、キリスト・イエスにあってひとつとされた事、律法によらず、行いによらず、恵みによって聖霊を与えられて神様との関係を回復した事がどういう事を意味しているのか、ガラテヤ書の残りの所で見て行きたいと思います。
続きを楽しみにして、今日はここで祈りましょう。