ガラテヤ4:1-11 『 ガラテヤ7~奴隷から子へ 』 2013/07/07 松田健太郎牧師
ガラテヤ4:1~11
4:1 ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、
4:2 父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。
4:3 私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。
4:4 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。
4:5 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。
4:6 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。
4:7 ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。
4:8 しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。
4:9 ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。
4:10 あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています。
4:11 あなたがたのために私の労したことは、むだだったのではないか、と私はあなたがたのことを案じています。
ガラテヤ人への手紙のシリーズ、今日で7回目になります。
一週間開いてしまいましたので、前回までの復習から入って行きましょうね。
ガラテヤ人への手紙は、律法主義との対決の手紙です。
律法主義というのは、「あれをしなければならない。」「これはしてはならない。」というルール(律法)を守る事によって救いを得ようとする考え方です。
それとは別に、神様が一方的な恵みによって、救いの手段を与えていて、わたし達はそれを受け取る事を求められているのが福音です。
この手紙は、福音を体験したにもかかわらず、律法主義的価値観に陥りかかっている教会の人々を立ち直らせる事を目的に書かれているんです。
前回の時にお話ししたのは、結局律法とは何なのかということでした。
律法を守る事は誰にもできず、実はそもそも守る事を目的としていません。
律法とは、わたし達が神様から離れている事を理解するために与えられたものなのです。
だから本当に神様が求めているのは、わたし達が聖く正しい人間になるという事よりも、神様との愛の関係を回復する事なんだという事なのです。
ガラテヤの教会の人々だけでなく、現代の教会に生きるわたし達もこの事を勘違いしてしまっています。
だから恵みについて理解する事は、わたし達にとってとても大事な事なんですね。
ガラテヤ人への手紙の後半は、神様との関係を回復する事によって何が起るかという事に焦点が与えられています。
少しずつ、それを見て行く事にしましょう。
① 幼稚な教えの下に奴隷となる
神様との関係を回復する以前、わたし達は奴隷のような状態だったのだとパウロは言っています。
4:1 ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、
4:2 父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。
4:3 私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。
わたし達は、何の奴隷となっていたのでしょうか?
ひとつには、律法の奴隷になっていたという事ができるでしょう。
でも、この手紙を読んでいる人達の多くはユダヤ人ではなく、異邦人です。
わたしたち異邦人もまた、律法と同じようなものを持っていますよね。
それは、常識や古くからの慣習、モラルというものに縛られてきたという事が言えるのではないでしょうか?
何が正しいか、何が間違っているかという基準は、確かにわたし達を正しい方向に進ませるかもしれません。
しかし、「~しなければならない」という価値観の中では、奴隷のように従う事しかわたし達にはできません。
そしてある基準を満たすことができなければ、落後者となって、天国に行く事もできないということになってしまうのです。
それをパウロは、「この世の幼稚な教え」と呼んでいます。
わたし達は、幼い頃にはしても良い事と、してはいけない事を事細かに教えられなければならなかったりします。
遠足のおやつは300円までという具体的な数字を伝えられなければならないんですね。
そしてこども達は、「先生、バナナはおやつに入りますか?」という質問をするんです。
幼稚な教えの中では、何が律法の内側であり、何が違反であるのかという事をいちいち気にしなければならないんですよ。
そのくせそれは、人間の教えでしかありませんから、わたし達を救いに導くものではありません。
結局そのような幼稚な教えは、わたし達人間を重荷の下に置いて、苦しめる事にしかならないのです。
② 子としての身分を与えた
でも神様は、わたし達をそのような奴隷の状態のまま置いておくような事はなさいませんでした。
4:4 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。
4:5 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。
神様の時が満ち、神の御子イエス・キリストが地上に送られました。
神様が人として、人間の女性から生まれ、他の人と同じように律法の下に置かれたのです。
何のためでしょうか?
罪を赦すため、神様との関係を回復するためそしてもうひとつの側面が、ここには描かれています。
それは、イエス様を通して、わたし達が『神の子』とされるためなのです。
これは、驚くべき事なんですよ。
わたし達は、神様によって作られた者です。
だから本来の関係は、創造主と被造物の関係ですよね。
わたし達は神様を“主”と呼び、ただただ従うだけです。
神様に反逆していたわたし達の罪が赦されて、その関係が修復されたというのは、本来は創造主と被造物の関係に戻るという事です。
ところが神様は、それだけでは終わらせませんでした。
全く死んだ状態だったわたし達の霊の代わりに、御子イエス・キリストの霊、つまり聖霊を与えて下さったのです。
それによってわたし達は、神様の養子として受け入れられたのです。
それは、神様がわたし達に求めている関係がどれほど親密な関係なのかという事を意味しています。
4:6 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。
4:7 ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。
“アバ”というのは、父という意味の言葉ですが、単に「父親」ではなく、「お父ちゃん」とか、「パパ」という親しいニュアンスの言葉なんです。
「お父ちゃん」と呼ぶ神様との関係は、「商売繁盛 」とか「家内安全」とか「~して下さい」と願うような関係とは全然違うでしょう。
わたし達はもっと親しみを持って、色んな事をお父ちゃんと話しあう事ができるのです。
ルールによって支配される奴隷は、失敗をしたらもう何もかも終わりです。
しかし親子の関係の中では、失敗する事なんて何という事はありません。
わたし達は何度でも立ち上がり、やりなおせばいい。
時にはお父さんが助け起こして下さり、わたし達を励まして、力を貸してくれるのです。
お父さんが一緒にいてくれるなら、わたし達はもう何も恐れる必要がない。
この世界を創造した神が、こんなちっぽけなわたしと言う存在と、そんな関係を築いてくれるなんて誰に想像できたでしょうか?
③ 父なる神
最後に、神様はどのようなお父さんなのかという事をお話ししたいと思います。
多くの場合、わたし達が“父”と言われて真っ先に連想するのは、自分の父親の事だろうと思うからです。
でも、誰もが素晴らしい親密な関係を、父親と持っているわけではないでしょう。
もしかしたらみなさんのお父さんは、暴力をふるう怖いお父さんだったかもしれませんし、仕事に夢中でこどもには無関心な父親だったかもしれません。
でも、父なる神様はそのような方ではないわけです。
わたし達は聖書の中に描かれる父親像から、父なる神様の事を理解する必要があります。
第一に、イエス様が話してくれた、放蕩息子と呼ばれるたとえ話の中で、わたし達は父としての神様を知る事ができます。
遺産を前借し、そのお金を放蕩して使い果たし、ボロボロの汚い姿で帰ってきた息子をすぐに見つけて駆け寄り、抱き寄せ、口づけしたお父さん。
わたし達の天のお父さんは、それほどまでにわたし達を愛し、赦して下さる方です。
でもそれは、わたし達を好き放題に甘やかせるような無責任な愛でもありません。
第二に、父なる神様はわたし達を正しい道を教え、導いて下さるお父さんです。
ヘブル 12:5b 「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
12:8 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。
神様はわたし達を愛しているからこそ、試練を与えるし、わたし達が間違った道を進み続ける事を喜びません。
それはわたし達に関心を払い、ほったらかしにはしないという事です。
しかしその厳しさは、深い愛情から来ています。
愛しているからこそ、わたし達が滅びの道を歩み続ける事を許さず、時にはわたし達を叱り、戒めて下さるのです。
他にも聖書には、神様がお父さんとしてどの様にわたし達を愛して下さっているかという事、がたくさん描かれています。
それは全て、わたし達が神様との関係を求めて行った時に、必ず経験する事のできる事なんです。
そのお父さんのもとに、帰りませんか?
わたし達は、放蕩息子のように、お父さんから遠く離れてしまったかもしれません。
あるいは、その兄がそうだったように、すぐそばに居ながら父との関係を求めず、ただひたすら働きだけに励む毎日だったかもしれません。
でも、わたし達が心からお父さんを求める時、父なる神様はいつでも優しく応え、迎えてて下さいます。
放蕩息子の話から少し読んで、今日のメッセージを締めくくりましょう。
ルカ 15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
15:21 息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。