ガラテヤ4:12-20 『 ガラテヤ8~神のこども達 』 2013/07/14 松田健太郎牧師

ガラテヤ4:12~20
4:12 お願いです。兄弟たち。私のようになってください。私もあなたがたのようになったのですから。あなたがたは私に何一つ悪いことをしていません。
4:13 ご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。
4:14 そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。
4:15 それなのに、あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのためにあかししますが、あなたがたは、もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか。
4:16 それでは、私は、あなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。
4:17 あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしているのです。
4:18 良いことで熱心に慕われるのは、いつであっても良いものです。それは私があなたがたといっしょにいるときだけではありません。
4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
4:20 それで、今あなたがたといっしょにいることができたら、そしてこんな語調でなく話せたらと思います。あなたがたのことをどうしたらよいかと困っているのです。

ガラテヤ人への手紙から、8回目のメッセージです。
この手紙を通して、わたし達は律法主義と恵みの違い、宗教と福音の違いを学んできました。
そして、4章に入ってからは、その違いがわたし達に何をもたらすのかという事に焦点を当てて学びを進めています。
前回は、律法主義的な価値観では奴隷的だった神様との関係が、福音によって神の子とされたんだという事をお話ししました。

ガラテヤ 4:7 ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

今日はその話の続きです。
子とされる事によって、いったい何が変わるというのでしょうか?

① わたしのようになって下さい
パウロは、福音から離れてしまったガラテヤ教会の人々に、「わたしの様になって下さい」と訴えかけています。

4:12 お願いです。兄弟たち。私のようになってください。私もあなたがたのようになったのですから。あなたがたは私に何一つ悪いことをしていません。

「わたしの様になる」というのは、わたし達が成長してキリストの似姿になっていくという事とは全く別の話です。
ここでパウロが言いたいのは、わたしの様に福音の中に生きる者となって欲しいという事です。
それはこれまでパウロが、この手紙の中で繰り返し言い続けてきた事なのですが、ここからパウロの話は少し違う方向へと進みます。

4:13 ご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。
4:14 そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。
4:15 それなのに、あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのためにあかししますが、あなたがたは、もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか。

パウロは、ガラテヤの教会に福音を述べ伝えた時の事を思い出させようとしています。
ここで語られているのは、パウロがその時何か肉体的な問題を抱え、そのさなかに福音を述べ伝えていたという事でした。
この時パウロにどのような問題があったのかはわかりません。
何らかの病気だったのでしょうが、ガラテヤの人々が自分の目をえぐり出してパウロに与えたいと思っていたという事から、パウロは目の病気を患い、失明しかかっていたのではないかという話もあります。
いずれにしても、パウロがその病気を持っているという事は、周りの人達にとって試練となることであり、嫌われたり軽蔑されたりする可能性のある問題でした。

しかしガラテヤには、弱さとともに福音が述べ伝えられました。
その時、神様の力によって福音は広がり、パウロの弱さは人々を変える助けとなったのです。
ガラテヤの教会の人々は、自ら進んでパウロを助け、決して嫌ったり軽蔑することなく、喜びの中でできるなら自らの目をえぐってパウロに与えたいとまで願ったのです。

弱さが力となったようなこの出来事を、パウロは別の手紙でも書いています。

IIコリント 12:7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
12:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

実際にこれが同じ事を指しているのかどうかは何とも言えない部分もありますが、わたし達が神様に全てを委ねる時、弱さが力となる事は確かな事です。
わたし達は、完璧でないと神様の働きができないように感じたり、弱い人が神様の働きに関わる事を批判する事さえありますが、神様は弱さの中にこそ働かれるのです。
教会には問題のある人達がたくさん集まるんです。
もし、わたし達の弱さが力となるのでなければ、教会に可能性を見いだす事は決してできないでしょう。

奴隷のままのわたし達には力がありませんが、福音の中で神様の子として生まれ変わる時、わたし達には神様からの力があふれるのです。

② 神の家族
さて、それでは彼らのこの喜びは、どこから来たものだったのでしょうか?
どうして大変な状況の中にあるパウロとともにいて、その世話をする事を喜ぶことができ、自分の目を差し出しても構わないとまで思う事ができたのでしょうか?
それは、そこに神の家族としての愛の関係が産まれたからです。
わたし達が神の子とされたという事は、わたし達は互いに同じ父を持つ家族となったという事でもあるのです。

だからパウロは、教会の人々に対して「兄弟たち」という言葉を使って呼びかけています。
わたし達はイエス様によって結び付けられ、父なる神様によって繋げられている、ひとつの家族なのです。

は信仰と言う事について考える時、わたし達神様との関係という事を繰り返し学び、それが大切だという事を教えられます。
神様との関係が大切である事は確かなんです。
でも、恐らくはそれと同じくらい、わたし達が互いに愛し合うという横の関係も、非常に大切なものなのです。

神様の教えの中心は、「心をつくし、思いをつくし、力を尽くして父なる神である主を愛しなさい。」と共に、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」という事です。
聖書の中には、“互いに”と言う言葉が70回以上出てきます。
主はぶどうの木、わたしは枝です。
ならばぶどうの幹にはたくさんの枝が繋がっています。
わたし達にとって、互いの関係もまた大切なものであると聖書は教えているのです。

神様との関係があればいいと言って、教会には行かないという人もいます。
実際に、洗礼を受けてイエス様を信じてはいるけれど教会には行かないという人達は、教会に通っているクリスチャンの何倍もの数がいると言われています。
このメッセージを、ネットで読んだり音声で聴いたりしている方の中にも、そういう方がいらっしゃるのではないでしょうか?

教会の人間関係が煩わしいのはわかるんです。
確かに、教会での人間関係は教会外での人間関係よりもずっと面倒くさいと思います。
なぜなら、教会での人間関係は、他の社会での人間関係よりも近くて密だからです。
学校や会社での人間関係は、友人知人や同僚、上司、部下との関係です。
しかし、教会の人間関係は、家族という密接な関係だからなのです。

ただでさえ、問題をたくさん持っているわたし達が近くて密な関係を持つのですから、煩わしい事があるのは当然です。
そして、問題もたくさん起ってしまいます。
しかしわたし達は、神にある家族の中に入っていくことなしには、クリスチャンとして成長して行く事もありえません。
なぜなら、わたし達はもともとひとりで生きる様にではなく、人との関係の中に生きるように創られているからです。

創世記 2:18 その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」

③ 福音と愛の中で家族となる
では、わたし達はどうしたら、かつてのガラテヤ教会がそうだったような、互いを支え合う愛の関係の中にある家族の関係を築いて行く事ができるのでしょうか?
そのためには、ガラテヤ教会がどうしてそこから離れてしまい、どうすれば元の彼らに戻る事ができるのかを考えればいいのです。
パウロは何と言っていたのでしょうか。
パウロは、律法主義的信仰が彼らを変えてしまったと言っています。
そして、福音に戻りなさい、恵みの信仰に戻りなさいと繰り返し述べているのです。
それこそがやはり、わたし達を正しい道に進ませる方法なのです。

律法主義の中では、お互いに律法というルールのもとで互いを縛り合うような関係になってしまいます。
いつでも、他の人達が律法から外れていないかを見はり合って、少しでも外れると口うるさく干渉し、律法を守らせようとするのです。
そこには自由がない、神様への信仰を持っていながら、まさに奴隷の状態です。

でもわたし達が福音の中に生きるなら、わたし達は律法という計りから自由になります。
わたし達の関係を築くための指針は、「何が正しいか」ではなく、「愛かどうか」という事です。
わたし達はみんな、神様から値なしに赦しをいただいたものですから、互いに裁き合う事はナンセンスです。
しかし、罪がもたらす痛みも知っていますから、罪に走って本人も神様も悲しませるような事のないように支え合い、助け合う事も出来ます。
互いに仕え合い、互いに愛し合う関係が、そこにあります。
それは全て、わたし達が福音の中で律法から解放され、神様の子となる祝福を受け取る時に得られる事なのです。
奴隷ではなく、神の子として神様との関係を築いて行きませんか?
宗教ではなく、神の家族としての関係を、お互いに築いて行きませんか?
それこそわたし達に求められている生き方であり、わたし達は幸せにするものだからです。

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