ガラテヤ5:1-15 『 ガラテヤ9~キリストにある自由 』 2013/07/21 松田健太郎牧師

ガラテヤ5:1~15
5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
5:2 よく聞いてください。このパウロがあなたがたに言います。もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです。
5:3 割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法の全体を行なう義務があります。
5:4 律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。
5:5 私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。
5:6 キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。
5:7 あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたを妨げて、真理に従わなくさせたのですか。
5:8 そのような勧めは、あなたがたを召してくださった方から出たものではありません。
5:9 わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです。
5:10 私は主にあって、あなたがたが少しも違った考えを持っていないと確信しています。しかし、あなたがたをかき乱す者は、だれであろうと、さばきを受けるのです。
5:11 兄弟たち。もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けることがありましょう。それなら、十字架のつまずきは取り除かれているはずです。
5:12 あなたがたをかき乱す者どもは、いっそのこと不具になってしまうほうがよいのです。
5:13 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。
5:14 律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。
5:15 もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。

パウロがガラテヤの教会に宛てた手紙を通して、律法主義ではなく恵みによる救いと信仰生活を、宗教ではなく福音を学んでいます。
手紙の後半では、その違いが何をもたらすかという事に焦点を当てて、先週は奴隷的な関係から、神様の子とされる喜びについて学びました。
今日のところでは、タイトルの通り“自由”が語られています。
わたし達は“奴隷”ではなく“子”とされたのですから、そこに自由があるのは当然と言えば当然の事ですね。
それでは、クリスチャンに与えられている自由とは、どのようなものなのでしょうか?
今日はそれを共に学んでいきましょう。

① しっかり立って
この章は、こういう言葉から始まっています。

5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

律法の奴隷のような状態になっていたわたし達を、イエス様は自分の命を投げ出して解放して下さったのです。
だから、わたし達はもう二度と奴隷の状態に戻らないようにと言っているわけです。
おもしろいのは、『“しっかり立って”~奴隷のくびきを負わせられないように』と言っている事です。
わたし達は多くの場合、奴隷的な発想の中にありますから、“しっかり立って”と言われると、「しっかり立って、クリスチャンとしての務めをしっかり果たさなければならない。」と言うような事を連想してしまうのではないでしょうか。
わたし達牧師も、そういうメッセージをしてしまいがちです。
神様から離れてしまって罪人となったわたし達にとって自然の状態は、“奴隷”の状態なんです。

でも、自然のままのわたし達が奴隷の状態だからこそ、わたし達は“しっかり立って”恵みの中に留まり続けなければなりません。
恵みを常に思い続け、福音の価値観に留まり続けようとしなければ、わたし達はすぐに奴隷の世界に引き戻されてしまうのです。
いや、出エジプトをして荒野をさ迷っていたイスラエルの人々のように、「奴隷の頃の方が良かった」とまで言い出して、自ら奴隷の戻ろうとするくらいです。
わたし達の自己認識は、それくらい歪んでしまっているのです。

だからパウロはここで、この様に言って注意を呼び掛けているんですね。

5:2 よく聞いてください。このパウロがあなたがたに言います。もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです。

パウロは、割礼そのものを否定しているのではありません。
律法は悪だという事を言いたのでもありません。
でも、それが救いの条件であるかのように扱われ、異邦人達にまで強要されてしまっている事を怒っているのです。

これは、わたし達が気をつけなければならない事でもあります。
自分の業によって救いが与えられるという価値観は、わたし達の中にもあるからです。
あるいは、自分と違う慣習を持っている人達に対して、同じようにする事を強要してしまう事が、わたし達にはあるのではないでしょうか?
この様にしてわたし達は、十字架という本当に大切なものに、色々と付け加えてしまう傾向があるのです。
キリストから離れて、恵みから落ちてしまうような事になってはならないというパウロの言葉は、わたし達に向けられた言葉でもあるのではないでしょうか。

② 愛によって働く信仰
続けて、パウロはこの様に言います。

5:5 私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。5:6 キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。

わたし達はこれまで、律法主義の原理の中に生きてきました。
律法主義の原理は、特定の行動を、「決まりだからしなさい。」と言ったり、「救いを受けるためには~しなければならない。」という恐怖心によって起こされる働きです。
一方で愛によって働く信仰とは、愛が動機となっている行動から来るものです。
福音は、律法主義の原理によって起こされるものではなく、イエス様への愛によって働くものだとパウロは言っているのです。

例えば、同じ優しくされるのでも、義務感や罰に対する恐怖から優しくされても、あまり嬉しいとは感じないかもしれません。
でも、その人がわたし達を愛する気持ちから、自発的にやさしくしてくれたなら、わたし達はその優しさに感動したり、喜んだりできるのではないでしょうか?
わたし達の行動を見る神様にも、同じ事が言えるのです。

ホセアという預言者を通して、神様はこの様に言っています。

ホセア 6:6 わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。

わたし達が義務感や罰に対する恐怖によってどれほど素晴らしい事をしたとしても、心が伴わないならそこには何の意味もありません。
わたし達が神様への愛を動機としてする小さな行動の方が、神様にとっては何倍も嬉しいものなのです。
いや、それこそがもっとも大切なものなのだと、パウロは伝えようとしているのです。

有名なIコリントの13章は、こんな言葉で始まっています。

Iコリント 13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

義務や恐れの中に、愛は生まれません。
だらこそ、わたし達には自由が与えられています。
自由の中でこそ、わたし達は愛する事ができるからです。

③ 自由のために召された

5:13 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。

わたし達は自由を与えられるために召されたのです。
だからわたし達は、律法という枷の中に留まるのではなく、自由にならなければなりません。
それは、わたし達が愛によって行動する事ができるためです。

しかしわたし達は、自由を悪い方向に働かせてしまう事も出来ます。
わたし達は、その事もしっかりと理解しておく必要があるんです。
わたし達が「いぇ~い! わたし達は自由だ! もう何をやらなくても良いし、何をやったっていいんだ!」となってくると、自由がわたし達に問題を起こし始めるのです。

律法主義の正しさを主張する人達は、まさにこの部分をもってルールを守らせるべきだと言い、恵みの原理を否定します。
「恵みのメッセージを伝え続け、神の愛を保証し続けたら、人間は何でもしたい事をしでかすようになるじゃないか。」
確かに、その危険性が産まれてくるのは確かでしょう。
しかし、恐れによって縛り付けられるなら、やはりそれは正しい事ではありません。

「その自由を、肉の働く機会としないで、愛を持って互いに従いなさい。」とパウロは言いました。
では、わたし達はこの自由の中で、どうしたらいいのでしょうか?

そのためには、わたし達が注がれている神様の愛にもっともっと焦点を当てるという事です。
わたし達を正しい方向に向かわせるのは、罰を恐れる心ではなく、神様への愛だからです。

何年か前にした話ですが、天に宝を蓄えるという話を覚えているでしょうか?
この話は、イイ事をする事によって、天国に行ってからたくさんご褒美を受けましょうという話として理解がされがちですが、本当はそうではありませんね。

マタイ 6:19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
6:21 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。

わたし達は、地上にあるものや欲しいものを宝とするのではなく、神様から既に与えられているものを宝としなさいというのがこの話のポイントです。
わたし達の心がある所が宝だからです。

神様は、生きる目的をうしなっていたわたし達に目的を与えて下さいました。
神様は、死んでいたわたし達の魂に、命を与えて下さいました。
神様は、渇いていたわたし達の心を、命の水で潤して下さいました。
神様は、罪の中に歩む人生に終止符を打ち、新しい道を歩む事を教えて下さいました。
神様は、価値のないわたし達を、尊い者として下さいました。
神様は、滅びるはずだったわたし達の魂を、命をかけて救って下さいました。
神様は、尊いそのひとり子を、わたし達のために捧げて下さいました。
神様が恵みによって与えて下さった全てのもの、それがわたし達の宝です。
そしてその宝を見あげる時、わたし達はそのような愛を注いで下さる神様が悲しむ事から離れ、喜ぶ事をし、いつまでも仕えて行きたいと心から思えるものなのです。

福音は、わたし達に律法主義ではなく、放蕩でもない新しい生き方をもたらしてくれます。
そこに与えられている自由の中に、わたし達は心から主を崇め、仕えて行く者となりたいものです。
祈りましょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です