ガラテヤ5:16-26 『 ガラテヤ10~御霊によって歩みなさい 』 2013/07/28 松田健太郎牧師

ガラテヤ5:16~26
5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
5:18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
5:26 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。

今日の個所は、とても有名な箇所です。
色んな人達とバイブルスタディをしますが、この箇所を開いていただく事が多いですね。
そして、ほとんどの方がこの辺りに線を引いています。
でも、それだけに、たくさんの方たちによって、誤解して理解されている場所ではないかとも思います。
それは、わたし達が聖書の個所を読む時に、この箇所だけで全てを理解しようとしてしまうからです。

この箇所だけを読んで、皆さんはどのように理解されたでしょうか?
多くの場合は、この様に理解されるんです。
「わたし達は、肉の行いである罪から離れなければならない。それは具体的には、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興といった行いである。そして我々はクリスチャンとして、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制のような行いをしていくべきである。」

もし皆さんがそのように思っていたとしても、ご安心ください。
牧師の中ですら、そういう話を熱心に、情熱的に語ったりする人がいるくらいですから、皆さんがそう思ってしまったとしてもムリのない話なんです。
でも、わたし達はガラテヤ書の全体像から、そして聖書の全体像からこの個所を理解する時、パウロはそういう話をしているのではないという事がわかって来ます。
今日のメッセージでその誤解が晴れたらいいですね。
それでは、早速この箇所で語られている神様のメッセージに耳を傾けて行きましょう。

① 肉の行い
ガラテヤに宛てた手紙の中で、パウロが伝えたかった事はどういう事でしたか?
今日の個所をちゃんと理解するためにも、少しおさらいから入っていきたいと思います。

この手紙は、割礼を受ける事を強要されて、律法主義に陥りかけていたクリスチャンたちに向けて書かれた手紙でした。
その中でパウロは、救いは行いによるのではなく、神様との信頼関係によって、一方的な恵みとして与えられているものだという事を伝えていたんです。
そして、律法主義によって全ての事をしようとする奴隷的信仰から解放されて、神様の子として、聖霊の導きによって歩みなさいという話をしていました。
それでは、御霊によって歩む時にどのような事が起るのかというのが、今日の箇所です。

御霊による歩みに退避する価値観として、肉の行いというものについてパウロは書いています。
肉というのは、生まれたままのわたし達の状態の事ですね。
罪によって神様との関係が断絶してしまったその状態を、聖書では“肉”と呼んでいます。
神様の愛によって生きない、肉の価値観はこの様なものをもたらすのだとパウロは言うのです。

5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

性的な乱れ、神様との関係のこわれた状態、人間関係の中で起るあらゆる問題、わたし達のライフスタイルの問題はすべて、わたし達が肉のままの自分として歩む時に当然の事として起る事です。
わたし達は自分自身の事しか考えず、自分が神として、自分勝手に生きようとするのですから、結果がこの様な事になるのは当然と言えば当然の事ですね。
しかし問題なのは、肉の力は単なる罪とは別の方向にも働くという事です。

わたし達が持つ肉の働きのもう一つの側面は、わたし達が“肉によって”悪い行いから離れ、良い行いをしようとする事です。
がんばって悪い行いから離れ、一生懸命善い行いをしようとしているのだから、一見それはとても良い事であるように思われます。
しかし、それが肉から来るものである以上、良い事に見えたとしても、やはりもたらされるのは悪い状態です。
肉の働きによっては、御霊による働きとは同じようなものは決して生まれて来ないのです。

実は、多くの熱心なクリスチャンがこの罠にはまり込んでしまっています。
いつも欠かさず教会に来て、とても伝道熱心で、聖書の事も詳しく、みんなから一目置かれるような人なのに、なぜか愛がなく、人を傷つけてしまうような人がいたりします。
時として、熱心であればあるほど、その傾向が強いようにさえ思えてきたりします。

熱心であること自体が悪いのではありません。
熱心さがなくて、「神様の事なんて適当に考えていればいいよ」という事が正しいはずはありませんよね?
でも、そういう熱心な人達は、肉の働きに熱心な人達、別の言い方をすれば、宗教に熱心な人達だったりするのです。

そういう人はちょっとつつくと、恨みやつらみ、ねたみやそねみと言うとんでもなくドロドロとしたものが次から次へと出てくる事もあります。
そうすると、それが完全に、肉の行いから来ているものだという事がわかるんです。
わたし達はこの様にして、熱心さというものを履き違えてしまう事が往々にしてあるのだという事なんです。

これは、わたし達がよく気をつけなければならない現実だと思います。
もしも、それがクリスチャンになる事だとしたら、クリスチャンになんてなりたくはないですよね。
しかし、世の中の多くのノンクリスチャンたちが、クリスチャンのとはこういう人達の事だと思い始めているのです。
だから、これまでキリスト教圏だった国で宗教離れ、アンチクリスチャンの動きがどんどん高まっています。
わたし達は、何とかしてこのようなネガティブな証を止めて行く必要があるように思うのです。

② 御霊によって歩む
だからこそ、パウロはこの様に言っているのです。

5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

わたし達は、肉の力によってではなく、御霊によって歩む必要があります。
では、御霊によって歩むといは、どういう事なのでしょうか?
これは、先週の個所でパウロが話してくれた部分ですね。

ガラテヤ 5:4 律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。
5:5 私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。

つまり、行いによって正しくなろうとする事を止めて、信仰により、聖霊によってわたし達はもう義とされているんだと言う事を信じる生き方をするという事です。
肉の働きに熱心になるのではなく、御霊が与えられている希望に対して熱心になっていくのです。
神様の愛の大きさ、すでに与えられている祝福の素晴らしさ、そのひとつひとつを自覚していく時、わたし達は内側から湧いてくる力がある事に気が付きます。
その力がわたし達を変え、その力がわたし達を正しい道に導き、その力がわたし達を支え、助けて下さる。
それこそ、御霊の働きなのです。

イエス様はかつて、この様に教えてくれました。

ヨハネ 15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

わたし達が、枝としてイエス様というブドウの木につながっているのなら、わたし達は自然にそこから養分を受け、やがて実を実らせるようになっていきます。
それを、パウロは御霊の実と呼んでいます。

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

わたし達は枝でしかないので、自分の力で養分を吸い上げ、成長する事はできません。
ただ、イエス様に留まり続ける事によって、自然に成熟して、実を実らせていくのです。

③ 自分の肉を十字架に付けて
わたし達が肉の働きに惑わされないようにするには、どうすればいいのでしょうか?
わたし達が気をつけなければならないのは、実の事を気にし過ぎて、実らせる事を焦ってしまう事です。
わたし達は、結果を焦ってしまう傾向があります。
その裏には、自分はちゃんと成長しているという事を人に理解してもらいたい、認められたいという意識があるのかもしれません。
しかし、結果だけを気にするのは律法主義的発想であり、律法主義は結局よい結果をもたらさないのです。

わたし達がイエス様に留まり続ければ、御霊の実は自然に実るのです。
しかし、愛や喜び、平安という結果を実らせる事を第一に考えたら、どういう事になりますか?
わたし達は、愛や喜び、平安の実が実っていなくても、愛や喜び、平安があるかのように振る舞い始めるのです。
それは肉の行いですね?
そこに生まれてくるのは、歪んだ愛、ひきつった笑顔の喜び、すぐにゆらぐ平安です。

イエス様との関係に注目して下さい。
いつでもイエス様と留まり、その愛をいっぱいに受けて下さい。
わたし達は、そこから栄養をいっぱいに受け続けなければ、表に出て働きをする事もできません。
肉の働きに熱心になるのではなく、与えられている希望に対して熱心になって下さい。

5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

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