ローマ5:20-6:11 『ローマ16 罪人(おまえ)はもう、死んでいる』 2017/10/08 松田健太郎牧師

ローマ人への手紙5:20~6:11

5:20 律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
5:21 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。
6:1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
6:2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
6:9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
6:10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

誤解されやすいタイプの人はいるものです。
パウロも、その言葉が難しいためかよく誤解されていました。
どういう誤解かと言うと、パウロはイエス様が言ったことを変えて、違うものを伝えようとしているのではないかと言う誤解です。
未だにそのように考えている人たちもいますよね。
でもそれは、パウロが言っていることかイエス様が言っていることのどちらかを誤解しているか、その両方を誤解してしまっている人たちの考え方です。
そういう誤解をすることのないように、私たちはパウロの言葉をしっかりと受け取りながら、福音の理解を深めていく必要がありますね。

先週からの続きでもありますが、パウロは罪と恵みの関係に関してこう言っています。

5:20 律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

神様がユダヤ人たちに与えていた律法は、彼らがそう信じていたように、自己解釈しながら表面的に守ればいいというようなものではありませんでした。
律法は、そこに神様の正しさが表されることによって、私たちが汚れ、ゆがみ、呪われ、裁きと滅びにさらされている罪人だということを自覚するためのものです。
そして、自分の罪を認めれば認めるほどに、私たちは神様が与えて下さる救いを必要とし、求めるようになります。
そしてそれを求めるからこそ、私たちは神様の愛と救いの恵みに満ち溢れていくのです。

しかし、このようなパウロの言葉を聞いて、それを誤解して受け取ってしまう人たちも出てきます。
「罪が赦されているのだから、何をしてもいいじゃないか」と考えてしまうのです。
実をいうと、クリスチャンになって間もない頃の僕は、このように考えていた時期がありました。
そして、クリスチャンになる前よりもっと悪い事をしてしまうという時があったんです。

また、パウロに反対する派閥の人たちは、パウロを貶めるためにこの言葉を引き合いに出して、「パウロは罪を肯定している」と言う人たちもいました。
それは、もちろんパウロが意図するところではありません。
そこでパウロは、そのような意見を打ち消して、本当に意図するところを話す必要があったのです。
それが次の言葉に表されています。

6:1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
6:2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。

この辺りがまた、パウロの言葉の難しい部分ではあるかもしれません。
「私たちはもちろん罪の中に留まるべきではない。なぜならそれは悪い事だからだ」と言えば良さそうなところを、パウロはそう言いません。
私たちが罪にとどまるべきではない理由は、「私たちが罪に対して死んだからだ」とパウロは言うのです。
これはどういう事なのでしょうか?

「罪」というものは、そもそも何なのかという事を、私たちは思い出す必要があります。
私たちはどうしても「罪」という言葉から行いの事を連想してしまうのですが、「何をするか、何をしないか」ということが罪の本質的なところではありません。
「罪」の本質は、神様との関係が壊れてしまっている私たちの状態だという事を忘れてはいけないのです。

私たちはこれまで「罪人」として、それはつまり、「神様との関係が壊れている自分」として生きてきました。
それが、最初の人アダムから続いてきた私たち人類の状態です。
でも私たちは、神様との壊れた関係を修復するために地上に来て下さったイエス様と出会い、神様との関係の修復を願ってその救いを受け取りました。
その時、私たちの生まれたままの状態だった「神様との関係が壊れている自分」自分は死に、私たちは聖霊を受けて新しい命を得ました。
新しい命を受けた私たちは、「イエス様を通して神様との関係の中に生きる自分」です。

言っていれば、今までの自分はイエス様とともに十字架で死に、イエス様が新しい自分として復活したように、私たちは新しい自分として生きるようになったのです。

ところが私たちの中には、未だに古い自分がうずいていて、神様との関係が壊れていたころのような罪人として行動してしまうことがあります。
神様との関係が壊れていた時のように、神様以外のもので自分を満たそうとしてしまうのです。

神様との関係が壊れていたころのように、神様以外のもので自分を満たそうとする。
神様との関係が壊れていたころのように、他人から認められることで安心しようとする。
神様との関係が壊れていたころのように、快楽によって自分を慰めようとする。
神様との関係が壊れていたころのように、他人を蹴落として前に進まないと生きていけないように感じてしまう。
神様との関係が壊れていたころのように、何かがうまくいくと高ぶり、悪い事が起こると落ち込む。

「それは罪だからやってはいけない」とかそういう事ではなくて、神様とともに生きる幸せの中に生きているはずなのに、神様がいないかのように生きていることが問題なのです。

私たちは脱皮をして蝶々になっているはずなのに、芋虫の皮をかぶってはいずりながら生きていたらおかしいでしょう?
でも私たちは、昔の価値観が抜けきれなくて、すぐに古い自分へと戻ってしまいます。「クリスチャンなのに無神論者」みたいなことになってしまっているのです。

パウロは言います。

6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

私たちには、新しい命が与えられています。
それは、『人を愛し、善い行いをして生きる生き方』とかそんなことではなくて、『神様との愛の関係に生きる生き方』です。
神様が与えた使命に生き、神様によって励まされ、神様によって立ち上がる力が与えられ、神様に信頼してその導きに従い、神様が戦って下さる生き方です。
そして私たちは、神様の愛によって満たされるから人を愛する事が出来、神様が力を与えて下さるから立ち上がる事が出来、神様が戦って下さるから前に進むことができ、神様が生かして下さっているから感謝し、賛美を捧げ、礼拝する事ができるのです。

パウロが別の手紙の中で書いた言葉を一緒に読んで、今日のメッセージを締めくくりたいと思います。

IIコリント 5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

みなさんが古くて死んでしまった自分を脱ぎ捨て、新しい命の中で生きていくことができますように。

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