マタイ26:17-29 『最後の晩餐』 2009/03/15 松田健太郎牧師

マタイ26:17~29
26:17 さて、種なしパンの祝いの第一日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、私たちはどこで用意をしましょうか。」
26:18 イエスは言われた。「都にはいって、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子たちといっしょに、あなたのところで過越を守ろう。」と言っておられる。』と言いなさい。」
26:19 そこで、弟子たちはイエスに言いつけられたとおりにして、過越の食事の用意をした。
26:20 さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。
26:21 みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」
26:22 すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言った。
26:23 イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。
26:24 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
26:25 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ。」と言われた。
26:26 また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
26:27 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
26:28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
26:29 ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

人と食事をするのは、お互いの距離を縮め、関係を深めるものです。
家族や友人たちと共に食事をするのは楽しいものですね。
聖書には、イエス様が多くの人たちと食事をしたという事がたくさん出てきます。
それは、イエス様がそれだけ人との関係を大切にしたからです。

さてイースターを前にして、イエス様の話も一気にクライマックスへと近づいてきました。
イエス様が十字架にかけられる時が、刻一刻と近づいています。
そんな中、イエス様が弟子たちに伝える最後の言葉を述べる舞台として選んだのは、食事の場だったのです。
イエス様が最後に語りたかった事はどんな事だったのでしょうか?

① 過ぎ越しの準備
それはちょうど、過ぎ越し祭の時のことでした。
過ぎ越しというのは、イエス様の時代からさらに1500年ほど遡った時代、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの人々がエジプトを脱出した事を記念して行われる祭りです。
出エジプトの時、イスラエルの人々は小羊をほふり、神様の命令に従って、自分の家のかもいにその血を塗りました。
その夜、かもいに血を塗らなかった家ではその家の長男が死ぬという悲劇が襲い、エジプトの王は神を恐れてイスラエルの人々を解放したのでした。
その時に流された小羊の血こそ、イエス様を表していたのです。

ですから、この最後の晩餐が過ぎ越し祭りの時と重なったのは偶然ではありません。
イスラエルの人々がこれまで守ってきた、この過ぎ越しに代わるものを与えるためにも、神様はこの時を計画の時として選んでいたのでした。

マタイの福音書では記されていませんが、ルカは過ぎ越しの食事の前に、イエス様がこのような事を言ったことを記録しています。

ルカ 22:15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。

それ程までに特別な思いをもって、イエス様はこの過ぎ越しの時を迎えていたのです。

彼らがどこで過ぎこし祭を過ごすかという事に関しても、主には計画がありました。

26:17b「過越の食事をなさるのに、私たちはどこで用意をしましょうか。」

と訊ねる弟子たちに、イエス様は明確な場所を準備していたのです。
それは、『二階の広場』という形でしか表されていませんが、一般的にはマルコの母マリヤの家だっただろうと言われています。
弟子たちはそこで、過ぎ越しの慣習に従って、イースト抜きのパン、苦菜、ぶどう酒、そしてほふられた子羊を用意したのです。

② 裏切りの予言
さて、夕方になって、イエス様は十二人の弟子たちとともに食卓につきました。
そしてイエス様は、核心的な話を切り出します。

26:21 みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」
イエス様は、「この中に裏切り者がいる。」と言ったのです。
それを聞いた弟子たちは、動揺して大騒ぎになりました。
当然といえば当然ですね。
自分に疑いがかけられているのではないかと思ったのです。
26:22 すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言った。
26:23 イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。

弟子たちが口々に否定する中、イエス様は、「わたしと一緒に鉢に手を浸した者がわたしを裏切る。」と言いました。
この鉢というのは、食事のときに手を洗うための鉢です。
しかしこれは、この時にどの位置に座っていたかという事よりも、「わたしにとって身近な人間がわたしを裏切るのだ。」と言っているのです。
“同じ釜の飯を食った”というのと同じですね。
「これからわたしを裏切ろうとしているのは、わたしと本当に近しく、心を許している者なのだ。」という事なのです。

そして、更にこのように続けています。

26:24 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」

イエス様がこれから裏切られ、十字架にかかって死ぬという事は、決して避けることができない事でした。
それは旧約聖書にも予言されている通りに、必ず起こる。
イエス様はそのために生まれてきたのですから。
しかし、イエス様を裏切るものは大きな災いを受けます。
そこで彼が受ける苦しみは、いっそ生まれてこなければよかったと言うほどの苦しみです。

イエス様は、ユダに向けてこの言葉を言いました。
そこには、「例えあなたが私を裏切らなくても、私は必ず裏切りを受けて死ぬだろう。しかし、あなたがわたしを裏切るなら、そのような苦しみを受けることになるんだよ。」というメッセージが込められていたのではないでしょうか。
イエス様は、この時にも、ユダに悔い改めてほしいと思っていたのです。

26:25 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ。」と言われた。

「いや、そうだ。」というイエス様の言葉は、正しい翻訳ではありません。
だいいち、ほかの弟子たちもいるこの場でイエス様がそんなことを言ったら、ユダはみんなから袋叩きに合いますよね。

これは、そのままの意味を訳すと、「あなたは言った。」という言葉になります。
つまりイエス様は、ユダにだけ理解できて、その心に響くように、「あなた自身がその答えを知っているはずだ。」と言っているのです。
イエス様はギリギリの時までチャンスを与え、「今ならまだ間に合う。すぐに悔い改めなさい。」とユダに訴え続けていたのです。
しかし、ユダは裏切りの道を進み続けました。
ユダは滅びの道を選んだのです。
イエス様を裏切った後でも、ユダにはまだ悔い改める道があったはずだと僕は信じます。
でもユダは、イエス様を裏切ったことを後悔はしたかもしれませんが、結局主に立ち返る事無く自らの命を絶ってしまったのでした。
本当に残念なことですね。

ところで、裏切りというのは、ユダだけの問題だったのでしょうか?
「この中にわたしを裏切る者がいます。」とイエス様が言ったとき、弟子たちは誰がそんなことをしようとしているのだと言って論じ合いました。
これは僕自身にも言えることですが、わたし達は「あの人は信仰が薄い。」とか、「あの人の信仰は間違っている。」と他の人たちに対する批判ばかりになってしまう傾向があります。
自分は大丈夫だと思っているのですね。
この時の弟子たちも、自分が裏切るかもしれないとは誰も思っていなかったのです。

しかし、イエス様がローマ兵たちに捕らえられたとき、弟子たちはクモを散らしたように逃げていってしまいました。
十字架にかけられるイエス様に会いに来たのは、弟子たちの中では一番若かったヨハネと、この場にはいなかった女たちだけです。
ペテロは、例え他のみんなが裏切るようなことがあっても、自分だけは殺されてもイエス様について行くと言いましたが、イエス様が言われたように、ペテロは3度もイエスなど知らないと言いました。

私たちもまた、いざという時にはイエス様を否定して裏切ってしまうかもしれないという可能性を持っています。
私たちはその事を肝に銘じて、いつでも謙遜でいたいものです。
また、そんな私たちをも愛し続けてくださるイエス様に感謝し、いつまでも仕えていきたいものですね。

③ 主の聖餐
さて、ここから最後の晩餐は、最初の聖餐式へと変わっていきます。
イエス様はこれからご自分の身に起こることがどのような意味があるのかという事を弟子たちに伝えておきたかったのです。
そして、その事をいつまでも忘れないために、この事を守り行うようにと弟子たちに伝えたのでした。

26:26 また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
26:27 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
26:28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

聖餐式には、様々な意味が含まれています。
まず第一に、イエス様はパンを裂き祝福しました。
裂かれたパンは、私たちの罪のために引き裂かれたイエス様のからだです。
主イエスは、体が裂かれてでも救いたいと思われるほどに、私たちを愛してくださいました。
裂かれたパンにはそのような意味が含まれています。

また、私たちはイエス様を象徴するそのパンをいただく時、パンが私たちの内に入って体を作って行くように、イエス様が私たちの内で私たちを作り上げて行くのです。
主はそのようにして、私たちといつでもともにいて下さる。
聖餐を通して、私たちはその事を思い出すことができるのです。

更に、イエス様はご自分の体を象徴するひとつのパンを裂いてみんなで分け合いました。
それは、わたし達ひとりひとりはその裂かれたパンのかけらであり、それが合わさってひとつとなるのだという事を表しています。
イーストが入っていないパリパリのパンを裂くと、たくさんの不ぞろいな破片になります。
形はバラバラで、小さいものもあれば大きいものもあります。
私たちはもしかすると、「こんなに小さくて形の悪い自分が教会にいてはいけない。」と劣等感を感じるかもしれません。
しかし、そのピースが入ることがなければ、ひとつのパンとはならないのだという事を忘れないでいただきたいのです。

また、イエス様は杯を取り、感謝してそれをみんなに分け与えました。
その杯に注がれていたぶどう酒は、イエス様が十字架で流される血を表しています。
「これは、わたしの契約の血です。」とイエス様は言いました。
それまでの時代、イスラエルの人々は神様から罪の赦しを受けるために動物をいけにえとして捧げていましたが、その不完全な契約に代わる新しい契約であることを意味しています。
イエス様の血を私たちが信じ、受けとることを通して、私たちの罪は贖われ、神様の前に罪のないものとして立つことができるとイエス様は示してくださったのです。

私たちは衛生上の理由から、ぶどう酒(ぶどうジュース)を小さいカップに分けて飲みますが、これも本来はひとつの杯からまわし飲まれました。
それは、その血がイエス様というひとつの体から流されたものであり、御霊もひとつであることを意味しています。
エペソの手紙にこのように書かれています。

エペソ 4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
4:3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
4:4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
私たちは、それぞれが個性を持った別々の存在であっても、主にあってひとつに結び合わされるのです。

最後に、もうひとつ考えていただきたいことがあります。
それは、驚くべきことですが、この最初の聖餐の場にはユダもいたという事です。
聖餐に与るというそのこと自体が私たちを救うのではありませんから、これはユダが救われていたということでは全くありませんが、彼もまたこの聖餐に招かれていたのです。

ユダがこれからイエス様を裏切り、殺そうとしているのを知りながら、イエス様はそれでもこの聖餐の場にユダを招いているのです。
同じように、私たちもまた、主の前に、救いを受け取るようにと招かれています。
私たちは罪深く、本当は天国にふさわしい人間ではありません。
でも、そんな私たちをも、神様は救いを受け取って欲しいと救いの食卓に招いてくださっているのです。
どうか今日、このときが、皆さんにとって救いを受け取る決断のときとなりますように。

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