マタイ4:1-11 『荒野の試み』 2009/01/18 松田健太郎牧師
マタイ4:1~11
4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」
4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
4:11 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。
常々不思議に思っていることがあります。
それは、夜の11時くらいになってくると、どうしてお腹がすくんだろうという事です。
晩御飯は晩御飯で、それなりにお腹いっぱい食べているはずなのに、どういう訳か11時くらいにまたお腹がすいてくるんですよね。
しかも、そういう時に食べたくなるものは、大体ラーメンとかポテトチップスとか、食べたら確実に体重が増えそうなものばかりなんです。
食べたいけど、食べたらまずい事になると思って、お腹がすいている事を忘れようとするのですが、その誘惑と戦うのがなかなか大変なんですよね。
人それぞれ、強く誘惑を感じる所は違うだろうと思います。
それが人によっては買い物だったり、お酒だったり、遊ぶことだったり、色々あるでしょうが、誘惑と戦う事は簡単なことではありませんね。
しかし、イエス様も誘惑を受けられたのだと聞くと、皆さんはどう感じられるでしょうか?
イエス様は完璧なんだから、誘惑など受けられるはずがないと思われる人も実は少なくはありません。
私達はどこか、誘惑は私達の不完全さや弱さに結びついているようで、イエス様は誘惑とは無関係なのではないかと感じてしまいがちです。
あるいは、誘惑そのものを罪と感じてしまう事があるかもしれませんが、そうではありません。
誘惑そのものが罪なのではなく、誘惑を感じた時に、どう行動するかが問題なのです。
誘惑に負けて体重が増えるくらいのものであればかわいいものですが、中には負けるわけにいかない誘惑もあります。
イエス様が経験された誘惑は、悪魔からきたものでした。
そしてそれは、イエス様が決して負けるわけにはいかない、人類救済の是非がかかっている誘惑だったのです。
今日はこの箇所を通して、イエス様と悪魔との激しい戦いを共に学んでいきましょう。
① 荒野
イエス様はバプテスマのヨハネによる悔い改めのバプテスマを受けて、人類の罪を贖うキリストとしての人生を歩み始められました。
その後、イエス様はすぐに宣教活動をなされたのではなく、荒野に向かいました。
そして、そこで悪魔からの誘惑を受けたのです。
イエス様がここで経験した誘惑は、イエス様の人間としての弱さを表しているわけではありません。
この時にイエス様が経験された誘惑は、私達が受ける誘惑とは全く違うものです。
悪魔もまた、イエス様への誘惑に際して特別な言い方をしています。
それは、「あなたが神の子なら・・・」いう言い方です。
これは、悪魔がイエス様による人類の救済を阻止しようとする戦いであり、イエス様ご自身を神様の道から引き離そうとするための誘惑です。
だからこの誘惑はそのまま私たち自身に当てはめる事ができるものではないかもしれませんが、イエス様による悪魔の対処法を通して、私達はたくさんの事を学ぶ事ができるのです。
② 誘惑
(1)不信仰への誘惑
40日40夜の断食で疲労したイエス様に、悪魔は巧みな方法によって誘惑をします。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
40日間、イエス様は何も食べないで祈り続けていましたから、イエス様はもうお腹がペコペコです。
そんなイエス様に悪魔は言ったのです。
「あなたは神の子なのですから、お腹がすいているのなら、この石がパンになるように命じたらいいじゃないですか。」
誘惑にも色々あるという話をしましたが、これはイエス様でなければ誘惑にはなり得ない言葉ですね。
私達はお腹がすいた時に、「この石をパンにしようかなぁ。」と誘惑に駆られる事はありません。(笑)
でもイエス様は、この世界を創造した、三位一体の神様の一部です。
病人を癒し、死人をも蘇らせるイエス様の手は、そこらにある石をパンにする事もイエス様なら可能だと、悪魔もまた知っていたという事ですね。
そこには、たくみな誘惑がありました。
どんな誘惑をイエス様は受けたのだと思いますか?
イエス様は、神様としてのご自分の力を自分自身だけのために使った事はありません。
でも、自分の力を自分のために使う事の何が悪いのでしょう。
実はここにあるのは、天の父なる神様に対しての信頼に対する挑戦なのです。
それに対してイエス様は、聖書の御言葉を引用して、悪魔の誘惑に立ち向かいます。
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
これは、旧約聖書の申命記8章3節の言葉です。
この言葉は、私達がパンだけではなくて聖書の言葉も必要だという意味として捉えられがちですが、申命記に書かれていることの意味を考えれば、イエス様がそういう意味で言ったのではない事がわかります。
出エジプトの後、イスラエルの人々は40年間を荒野で彷徨いますが、彼らはマナという天からのパンによって空腹を満たし、生きました。
イスラエルの人々がマナを作って降らせたのではありません。
神様が「光よあれ」と言って光を存在させたように、主の言葉がマナを降らせたのです。
申命記のこの箇所が意味しているのは、私達は自分の力で生きているように思っていますが、自分が働いて得たと思っているパンひとつでさえ、それは神様が与えてくださったものに他ならないのだという事です。
私達の命を支えているのはパンなのではなく、神様の御心であり、神様がパンを用いて私達を生かしてくださるのです。
40日40夜、断食をして荒野で過ごしたイエス様は確かに餓えていましたが、人類の贖いの使命をもって産まれたイエス様はここで死ぬわけにはいきません。
その時が来るまで、天のお父様が必ず生かしてくださるという信頼を明らかにして、イエス様は全ての事を天の父なる神様に委ねられたのです。
(2)神を試みる誘惑
第一の誘惑を乗越えたイエス様に、悪魔はすぐさま第2の誘惑を投げかけました。
4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」
第一の誘惑に対して、イエス様は神様への信頼を明らかにしました。
悪魔は今度は、その信頼を利用して次の誘惑に結び付けました。
「本当にあなたは、それほど神様を信用するというのですか? ならばこの高い所から身を投げてみなさい。あなたは神の子なのだから、御使いが直接あなたの命を助けてくれるはずでしょう。あなたにその勇気はありますか?」
そんな感じの誘惑を投げかけたんですね。
その時『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と言った悪魔の言葉は、詩篇91:11~12の言葉です。
なんと悪魔は、聖書の言葉を使って「あなたが信じる聖書にだってこう書いてあるじゃないですか。」と言ってイエス様を誘惑してきたのです。
この辺りが悪魔の恐ろしい所です。
私達は聖書の言葉を蓄えていれば大丈夫と安心するかもしれませんが、悪魔もまた聖書の言葉を使って私達を惑わしてくる事があるのです。
異端やカルトの思想を持った人達は、聖書から全く外れた話をしているのではありません。
彼らは聖書にこう書いてあると言って、聖書の言葉をたくみに利用しているわけですよね。
悪魔はその様にして、巧みに私達の心に疑いの心を膨らませたり、神様の御心から離れた考え方を私達に植えつけようとするのです。
詩篇91篇の言葉は、私達が神様に信頼し主の道を歩むなら、あなたは神様の完全な守りの中にあるという事を意味する御言葉です。
悪魔はその一部分だけを抜き出し、さらにその意味を歪め、「こう書いてあるのだから、神様を“信頼して”飛び降りなさい。それによってその言葉が本当かどうか試してみろ。」と言う訳です。
しかしそれは、詩篇91篇の大前提である主への信頼とは全く逆のことです。
全く御心にない事をして、神様が本当に助けてくれるかどうか試みようとしているのですから、それはむしろ神様への疑いから来るものなのです。
私達も、実はこのようにして神様への信頼の意味を間違って捉えてしまう事がよくあるのではないでしょうか。
例えば皆さんは、「わたしはこの道を行きますが、それが御心でないならその道を閉ざしてください。」と祈った事がありませんか?
これは正しい祈りのように見えて、実はそうではありません。
それは自分から飛び降りておいて、神様わたしを受け取って下さいと言うのと同じで、むしろ神様を試みる事です。
私達は主の導きだと信じる道を進み、それが違うとわかったならその度に悔い改めて、自分から方向修正する必要がありますね。
そうして、私達が自分の選んだ道を進んで生きていくことが私達の責任です。
その様な主を試みる誘惑を、イエス様はこの様な聖書の言葉で打ち伏せます。
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」
(3)この世的力への誘惑
2番目の誘惑に失敗した悪魔は、すぐに第3の誘惑を開始します。
これがこの時最後の誘惑となるのですが、悪魔の言葉も巧みさを失って露骨な誘惑となり、この時すでに悪魔が追い詰められていた事を匂わせます。
悪魔はこの世の全ての富をイエス様に見せて、この様に言いました。
4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
今更こんな、この世の富にイエス様が心を奪われるとでも思ったのでしょうか。
4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
と、イエス様は悪魔の言葉を一蹴してしまします。
そして悪魔はその場を去っていきました。
しかしですね、この言葉は案外、私達にはとても効果がある誘惑だなと思うのです。
と言うのは、この時悪魔が持ち出したのは、ただ単にこの世の富や宝物というだけでなく、この世的な力というものでもあったからです。
聖書の中では、サタンを指して“この世を支配するもの”と書かれています。
世界の全てのものを創られたのは神様であり、この世界は神様の支配の下にあるのですが、罪の王であるサタンは、罪にあふれたこの世界の中で大きな力を持っているのです。
その中で私達は、福音を伝えるという神様に命じられた働きをする上でも、神様による方法ではなく、この世的な力を持ってなそうという誘惑にさらされているのではないかと思うのです。
事実、教会は一度ならずその誘惑に負けて、主にある方法ではなく、この世の力によって支配権を持って、神様の働きをなそうとした事がありました。
ローマ帝国でカトリック教会が権力を持って以降、確かに世界の多くの人々がクリスチャンとなりましたが、それと同時に人々の信仰の腐敗も甚だしいものとなりました。
その結果、神の名を用いて多くの罪が行われてしまったのは、悲劇としか言い様がありません。
神様への信仰とは、キリスト教という宗教に属していればそれでオッケーと言うようなものではありません。
イエス様との親しい交わりなくして、主への信仰は深まるはずのないものだからです。
この世の力によってキリスト教がどれだけポピュラーな宗教になっても、実は何の意味もないのです。
③ 勝利
イエス様は、荒野での悪魔からの試みに対して完全な勝利を手にしました。
もちろん、ここで悪魔が撃退されたからもう誘惑に駆られる事がなくなったというのではなく、この後も悪魔からの攻撃は障害に渡って続くのですが、主はその全てに勝利されたのです。
私達もまた、イエス様に繋がる“神の養子”として、悪魔からの誘惑は絶えることがありません。
悪魔は事あるごとに私達を誘惑して、私達を神様から引き離そうとしたり、信仰による力を奪おうとするでしょう。
その様な攻撃に、私達はどうやって立ち向かったらよいのでしょうか?
使徒パウロは、手紙の中で悪魔との戦いに備えるためにこの様に薦めています。
エペソ 6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい
私達は自分の力だけで誘惑に耐えたり、我慢する事によって悪魔の言葉に勝利する事はできません。
悪魔は私達よりもずっと巧みで、ずる賢いのですから。
私達にできるのは、誘惑を受けるたびに私達が神様に立ち返るという事です。
悪魔の目的は、私達に信仰を失わせたり、神様のための働きをする事を止めさせる事なのですから、その度に私達は信仰を新しくする必要があります。
そしてイエス様がしたように、聖書の御言葉の剣をとって、悪魔と戦う事です。
そのためには、私達は聖書の言葉をよく知る必要がありますし、常に御言葉に接している必要があるのです。
必要以上に悪魔を恐れる必要はありません。
私達の主は、すでに悪魔に勝利されているのですから。
しかし、不用意に悪魔をあまく見てはなりません。
主から引き離されてしまえば、私達には悪魔に対抗する術など何も持っていないのですから。
主にある勝利が、いつも皆さんとともにありますように。