マタイ5:14-16 『あなたがたは世の光です』 2007/03/18 松田健太郎牧師
マタイ 5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
みなさん、みなさんは光にどんなイメージをもっているでしょうか?
暗闇を追いやり、影を照らし出す光。
何だか希望に満ち溢れ、明るい気持ちにさせてくれます。
あるいは暖かくて、私達の心を包み込んでくれるようなイメージかもしれません。
いずれにしても、光というものに悪いイメージを抱く人はあまりいないのではないでしょうか?
私達クリスチャンを指して、「あなたがたは、世界の光です。」とイエス様は言いました。
私達を、光であると言ってくれたのです。
なんとまぁ、もったいないというか、ありえない事というか・・・。
自分がイエス様によって光として例えられる、光と呼ばれるに足ると思える人というは、あまりいないだろうと思います。
しかしイエス様は、私達こそが、クリスチャンだけが世の光であると言ったのです。
先週は、「あなたたちクリスチャンこそが地の塩である。」と言ったイエス様の言葉について一緒に考えました。
クリスチャンは世の腐敗を清め、味気ない人生に味をつける塩である。
イエス様は、「地の塩になりなさい。」とか、「地の塩であるべきです。」という事を言ったのではなく、私達クリスチャンがすでに地の塩であると言ったことをお話しました。
今日の箇所で言われている事もそれとまったく同じなのです。
私達が世の光であるとはどういう意味なのでしょうか。
世の光になった私達は、どのような役目を果てしているのでしょうか。
それを自覚する事によって、イエス様が求めている事により近づく事ができるように、今日も共に御言葉の恵みを受け取っていきたいと思います。
① 反射の光
さて、イエス様は私達に向かい、「あなたがたは光である。」と言ったわけですが、それを言ったイエス様ご自身がまず光であるという事を私達は聖書の中で読んでいますね。
イエス様ご自身がこの様に言っています。
ヨハネ 8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
光には2種類の光があります。
発光体と反射体です、
太陽は自ら燃えて、光を放っている、これが発光体ですね。
一方で夜空の月は、太陽が見えていないので月自身が光っているように見えますが、太陽の光を受けて、反射して光っています。
月は、反射体ですね。
イエス様が光です。
イエス様はご自身の内側から光を放ち、この世界に希望をもたらせてくれました。
私達ひとりひとりの心の闇に、イエス様の光が届き、私達を罪の鎖から解放し、その愛で孤独を癒しました。
イエス様が私達と共に歩んでくださる時、私達はイエス様の光を反射して光る、月となるのです。
私達は時には満月に、時に三日月に、ある時は新月になりかねないということはありますが、私達の存在を通して光を輝かせてくださるのは、「私は世の光である。」といわれたイエス様なのです。
ですから、私達が意識して一生懸命光を放とうとする必要はありません。
私達が意識していなくても、光であるという自覚がなかったとしても、イエス様が私達を輝かせます。
私達がどんな闇の中にあっても、イエス様と共にいるなら、私達はその闇に輝く光となるのです。
私達は世の光であると言う時、光としてどんな働きをしなければならないかとか、光としてこの世の中で何ができるかと言う事を話し、考えてしまいがちです。
しかし、大切なのは私達の働きではありません。
私達ひとりひとりの存在自体が、神様にとって大切であり、尊くて、かけがえのないものなのです。
もちろんそれは、社会の中で何もしなくてもいいということではありませんが、私達の存在が世界の中にある限り、私達はイエス様の輝きを反射してこの世を照らす、世の光となっているのです。
② 目印として
夜行性の動物は、月を見て方向を判断します。
夏の夜になると、虫達が光のある方に集まってきますね。
それは、本来虫達は月に向かって飛んでいるつもりなのですが、月より明るい光を月と間違えて、その方向に飛んでいってしまうのです。
飛行機を霧の中で着陸させるときには、滑走路に点された明かりが頼りになります。
船が夜中に航行する時には、灯台の光を目印にして進みます。
光は、人々を導く目印となるのです。
私達が自らを覆い隠さず、イエス様の光を余すところなく受けて輝くなら、人々は光としての私達を目にします。
そのようにして輝く私達は、人々をイエス様に導く道しるべとなるのです。
イエス様の光を目いっぱい反射して、私達も輝きを増す事ができたら、きっと多くの人々をイエス様の元に導く事ができるのではないでしょうか。
③ 光は明るくする
もうひとつ違う面からもお話しましょう。
私達の周りには、つらい思いをして暗い気持ちになっている人たちがいます。
単調に続く毎日にうんざりして、うなだれている人たちがいます。
生きるためだけの人生に嫌気が差して、さまよっている人たちがいます。
多くの人々が、暗闇の中にいます。
私達が明かりを部屋に灯すとき、どうして明かりを灯すのかと言えば、暗くなってきた部屋を照らして明るくするためでしょう。
神様は暗闇に覆われているこの世界を照らし出すために、私達クリスチャンを社会の中に送っているのです。
私達クリスチャンは、私達が偶然にこの世界に生まれたのではなく、私達一人一人に目的が与えられて生かされているのだと言う事を知っています。
私達クリスチャンは、神様がその御子を犠牲にするほどに、私達を愛してくださっているのだという事を知っています。
たとえ誰も省みてくれなかったとしても、神様は決して私達を忘れてしまうことなく、いつでも共にいてくださることを知っています。
私達は、暗闇に包まれたこの世界に点された光です。
ヨハネ 1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった
イエス様の光は、闇を追いやり、打ち砕く力があるのです。
イエス様の光には、どんな闇の力も勝つことができない。
私達を輝かせているのは、そのような力を持った光なのです。
本当に暗闇に囚われてしまっている人たちは光がまぶしすぎて、煩わしいものに感じられるかもしれません。
しかし本来は、誰もが光を求めるものだと思います。
そう考えてみれば、私達はキリストにある光ですから、私達が集まる教会ほど明るいところはない。
こんなに素晴らしい、気持ちのいいところはない、となるはずです。
ところがですね、多くの人々が心の闇に光を当てる事を望んで教会に行ってみると、なんだか今の自分よりもっと暗かったりしてしまうのです。
大変残念な事ですが、日本の教会の礼拝に始めて出席した多くの人たちが、キリスト教の教会は①かたい、②くらい、③わからない、と異口同音に言います。
伝統が持つ素晴らしさ、良さというものもあるでしょうが、私たち自身が伝統や宗教としてのキリスト教に固執し、その陰に隠れてしまうと、むしろイエス様の輝きを失ってしまう事にもなりかねないのかもしれません。
私達、西葛西国際キリスト教会は、堅いとか暗いとかいう印象を持たれる事はないでしょうが、私達はイエス様の光をいっぱいに反射して輝き、江戸川区に点された光として存在していたいものです。
④ 山の上にある町のように
マタイ 5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
私達が光を点すのは、道しるべであったり、部屋を明るくするために着けるのです。
明かりをつけておいて、わざわざそれを壁で隠してしまう人は普通いません。
このように、私達は与えられているイエス様の光を、惜しみなく外に輝かせるべきです。
カトリックの教会には、自分の清さを保つためにこの世の社会から離れて修道僧となる人たちがいます。
またプロテスタントの教会にも、社会との交わりを一切絶って、教会でしか交わる事をしないクリスチャンがいます。
信仰の違う人と同じ場所にいなければ、価値観の違いに煩わされる必要はありません。
変な誘惑を受けて、信仰から外れてしまう事もないのかもしれません。
しかし、私達クリスチャンに与えられている役割は、世界の中にあって、イエス様の輝きを知らしめることです。
社会との関係を絶ってしまったら、私達が輝く意味がどこにあるでしょうか。
この箇所で書かれている“あなたがたの光”とは、私達のうちに生きておられるキリストの輝きということです。
もうひとつ、ここで私達が間違えてしまいがちなのは、イエス様の光によって輝くのではなく、自分自身の力で自分を輝かせようとしてしまうことなのです。
私達は、私達クリスチャンがいかに偉大であり、清く、道徳的に優れているかということばかりを見せようとはしていないでしょうか?
あるいはクリスチャンに与えられた賜物のすごさによって、クリスチャンがいかに素晴らしいかを見せようとはしていないでしょうか?
私達のすごさをどれだけ知らしめたからと言って、そこに神様の栄光が表される事はありません。
私達は誰も、敬虔なクリスチャンの仮面をかぶって人と接する必要はありません。
私達自身が欠点も、罪も、あやまちも隠したままで人と接し続けるのなら、私達は自分自身を否定し続けながら生きなければならない事になります。
クリスチャンの生き方とは、その様なものではありません。
嫌だけど証にならないからとか、伝道のために仕方がないのでするような良い行いを見ても、人々は何の感銘も受けないでしょう。
私達はむしろ、弱点さらけ出した上で、こんな私をも救ってくださる神様の偉大さを、皆さんに知っていただければいいのです。
そして、しなければならないからではなく、神様を愛するからこそ、辛くても喜んでする事ができる働きの中に、人々はイエス様の光を見るのです。
喜びのないところに光はありません。
私達がまず主の愛に触れ、喜びに満たされるからこそ、私達の内に主の栄光はより大きく反射して、輝くのではないでしょうか。
皆さんの中に、主の栄光が大いに現れますように。