マタイ5:4 『悲しむものは幸いです』 2007/01/21 松田健太郎牧師

マタイ 5:4 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。

みなさん、悲しみの経験はありますでしょうか?
生きているなら、思い返せばいくつも悲しい経験というものはあるものだろうと思います。
中には、悲しみはすぐに忘れ去るという人や、苦労を苦労として受けとならないというようなポジティブな方もいらっしゃるでしょうが、それでも辛く悲しい経験というものは、少なからずあるのではないでしょうか。

辛く、苦しい経験をしているときには、どんな慰めもむなしくて、心に響かない。
いや、むしろ慰めが苦痛を増すので、聞きたくもないという気分になるということもあります。
そういう大きな悲しみを経験している人にとっては、「悲しむ人は幸いだ。」というイエス様の言葉は、なんだか心にそぐわない。
この言葉がひどくキレイ事に聞こえてきて、イエス様という方は、本当の悲しみなど経験した事がないのではないだろうかという思いにまでなってくるかもしれません。

幸福になるために悲しみを避けよう、逃れよう、どうしたら悲しみなんて経験しない素晴らしい人生が送れるかと私達は考えます。
悲しんでいる人が、幸いであるはずがない。
悲しんでいるなら、それは不幸である証拠ではないか。

しかしイエス様が言ったのは、「もう悲しまなくてもいいよ。」とか、「悲しんでいる人たちは、不幸なのではないよ。」と消極的に言ったのではありませんでした。
むしろ「悲しむ人たちは、なんと幸いなことでしょうか。」と、言明しているのです。

本当に悲しんでいる人たちは幸いなのでしょうか?
どうして悲しんでいる人たちが幸いなのでしょうか?
そして悲しむとは、一体何を悲しんでいるということなのでしょうか?

今日は、「悲しむ者は幸いです」という、山上の説教2番目の幸いを通して、神様からの恵みを受けとっていきましょう。

① 悲しむのが当たり前
「悲しむ」ということに関して考えた時、何でもカンでも悲しむ、ネガティブな状態が幸いだと言っているのではないということはわかっていただけるだろうと思います。
イエス様が言っているのは、「悲観主義者は幸いです。」ということではないですね。
しかし、自分から悲しみを探そうと求めるまでもなく、この世界が悲しみに満ちている事は確かです。

みなさん、神様が創ったこの世界に、こんなに「悲しみ」が存在するのはなぜなのですか?
神様は私たちを愛するために創ったのではないのですか?
私達が悲しみ、苦しむためではなく、喜び、楽しむために創造されたのではなかったのでしょうか?

悲しみが存在するのは、神様が創造したこの世界に、私達が罪を持ち込んだからです。
私達が神様から離れ、自分自身を神として、自分が正しいと感じる事を正しい事にして、自分が何を得るかを中心に、自分勝手な生き方をする。
この罪というもののために、私達は自分自身を傷つけ、周りの人々を傷つけ、他の人々の罪に傷つけられて、悲しみという結果が生まれます。
また、私達が罪を自覚するために経験しなければならなくなった苦しみが、そのまま悲しみに繋がっているのです。

そう考えると、私達が生きていて悲しむということは、当たり前のことです。
目にごみが入ったら、涙がでるのと同じです。
私達が自分の人生に責任を持って生きているなら、私達は悲しみます。
私達がこの世でまじめに生きようとしているなら、私達は悲しむのです。

でも、私達罪人は、この悲しみから逃避しようとするんですね。
日本人は占いが大好きです。
罪の結果である悲しみから逃れるために、私達はあの手この手を使って努力します。
今日のラッキーカラーを身につけてみたり、
運勢が低迷期に入っているので、人との接触を避けてみたり、
掃除やお買い物をして運気を上げてみたり、
あらゆる手を尽くして、自分の罪の責任を回避しようとしています。

気持ちはわかりますよ。
誰だって、悲しみを経験しないですむなら、そんな楽な事はないですから。
しかし、罪の結果である表面的な悲しみばかりに目がいってしまうのが問題なのです。
私達が罪の結果から逃れることしか考えないのなら、私達は決して解決にたどり着けず、新たな罪を重ねる事にしかなりません。

私達は、罪の結果によって悲しむのではなく、罪そのものを悲しむべきです。
私達は罪の結果から逃れるのではなく、罪そのものから離れるべきなのです。
私達がしがみついている罪こそが、私たちを苦しめ、悲しませるものであり、私たちを滅びへと誘(いざな)うものだからです。
しかし、ほとんどの人々は自分の中にある罪を見ようとせず、罪を否定しています。
罪のために滅びようとしている事にも気づかず、悲しむべき部分で悲しめない。
そしてノアの時代の大洪水が起こる前のように、人々は飲んだり、食べたり、めとったり、嫁いだりして自分をごまかし、偽りの喜びの中で酔いしれているのです。

私達の心の内に、罪に対する悲しみはあるでしょうか?
自分自身の罪を悲しみ、家族や、隣人たちを蝕んでいる罪を悲しみ、嘆くという心が私達の内にはあるでしょうか?

罪があるから悲しむという、当然の反応をする事ができる人は幸いです。
その人は、悲しみを他人や環境のせいにすることができません。
問題の原因が、自分の内側にあるということを知ることができるからです。

② 悲しみは慰められる
とは言え、悲しみが悲しみのままで終わるのであれば、それはもう絶望でしかありません。
私たちに与えられている幸いは、悲しむ者に対する慰めの中にあります。

悲しみの中にいる者は幸いです。その人は慰められるでしょう。
他人からの慰めを拒むほどに悲しんでいる人たちは幸いです。彼らは、慰められる。

イエス様が使った「慰める」という言葉には、「招き入れて、肩に手を置いて、そばに立って、激励を与える」という意味が含まれています。
私達が信仰を持ったときに与えられたという聖霊は、この「慰める」という言葉と同じ語源なのです。
三位一体の神様が、いつでもどんな時でも私たちと共にいて、私たちをみもとに招き入れ、肩に手を置き、そばに立って、激励を与え続けます。
悲しむ人々は、聖霊によって慰められる。

その慰めが、どこか他人事のような憐みでしかなかったら、私達はそこから慰められることなどないかもしれません。
しかし、イエス様は私達以上に苦しみと悲しみを知っている方なのです。

イザヤ 53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

私達が受ける最大の慰めがここにあります。
神様は、ただ単に「可愛そうに」という言葉で慰めるのではなく、私達の経験する痛み、苦しみ、悲しみを知って下さっているのです。
神様は、罪の結果である悲しみを経験する必要などまったくありません。
神様は、私達のために、それをしてくださったのです。
そして、それだけではありません。
私達の罪の最大の裁きを、神様ご自身が引き受け、贖って下さったのです。

主イエス・キリストの十字架の贖い。
これが私達の慰めです。

罪の結果である表面的な悲しみに注目して、そこから逃れる事ばかりを考えているなら、私達はこのような慰めを受けることはできません。
私達が悲しみの原因が罪にあることに気づいても、自分の努力によって罪から抜け出そうとし続けるのなら、私達はやはり慰めを受けることができません。
本当の悲しみを知るものだけが、本当の慰めを受け、本当の幸いを知ることができます。
そして自分自身の心の貧しさを知り、神様に委ねる人だけが、本当の幸いを受け取る事ができるのです。

③ 慰められたものは人を慰める事ができる
最後に、もう一箇所聖書箇所を開いてみましょう。

IIコリント 7:10 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
7:11 ご覧なさい。神のみこころに添ったその悲しみが、あなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせたことでしょう。また、弁明、憤り、恐れ、慕う心、熱意を起こさせ、処罰を断行させたことでしょう。あの問題について、あなたがたは、自分たちがすべての点で潔白であることを証明したのです。

ヨーロッパのことわざに、「病気をしたことのない人を友達に持ってはならない」というものがあります。
それは、苦しみを知らない人は、人を慰める事を知らないからです。
アラブのことわざはこの様に言っています。
「晴天が続けば、世界は砂漠になる。」
私達の人生には、確かに陽が差す晴天が必要です。
しかし、陽が照るだけでは、私達の心は砂漠になってしまうのです。
砂漠はすべての潤いを奪い、自分の心を殺し、他人の心も殺します。

では、悲しみがあればそれでいいのでしょうか?
悲しみは人を変化させます。
ある人は悲しみの後に優しくなりますが、ある人は苦々しい人格を身に着けます。
同じように悲しみを経験しても、慰めを受けることがなければ、私達はその悲しみを幸いにする事はできないのです。

IIコリント 1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
1:5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。

悲しみを知り、慰めを知る人は、自分の周りに入るほかの人を慰める事ができます。
これもまた、私たちに与えられている特権です。私達の周りには、耐えられない悲しみの中で苦しんでいる人たちがいます。
悲しみに打ちのめされ、自分自身と、生きるということをいつ投げ出してしまおうかと戦い続けいている人たちがいます。

その様な人たちに慰めを届ける事ができるとしたら、なんと幸いなことでしょうか?
それは、私達が悲しみの中で慰めを経験しているからこそできる事なのです。

「悲しむ者は幸いです。その人たちは、慰めを得るからです。」

私達クリスチャンだけに与えられている幸いがあります。
皆さんが、ただ単にクリスチャンになったというだけでなく、心からその幸いを味わう事ができる、神の国の一員になることができることを心からお祈りします。

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