マタイ7:1-5 『さばいてはいけない』 2008/06/01 松田健太郎牧師
マタイ 7:1~5
7:1 さばいてはいけません。さばかれないためです。
7:2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
7:3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
7:4 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
7:5 偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。
ガラテヤ 6:1~5
6:1 兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
6:2 互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。
6:3 だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。
6:4 おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。
6:5 人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。
私達人間は、みな罪人です。
クリスチャンとなり、イエス様が十字架の上で流された血によってその罪が赦された後も、私達が罪人である事に変わりはありません。
だから、どれだけ信仰生活を深め、内側から変えられてからも、私達はまだまだ不完全ですし、だからこそ過ちも犯してしまいます。
皆さんは、何かを失敗してしまった時、どの様にアドバイスされたら素直に聞く事ができるでしょうか。
あるいは、「こうなるべきだ」とわかっていることだけれど、なかなか正す事ができないような事がある時、どの様に言われたら自分自身を正す勇気を持つ事ができるでしょうか。
「あなたはクリスチャンでしょう? 神様を愛しているはずのあなたが、一体どうしてそんな事をするのですか!? あなたはクリスチャンとして失格です!」と言われるのがいいでしょうか。
それとも、「ああ、いいんです、いいんです。あなたの罪はもう赦されているのですから。失敗しても仕方がないし、私たち罪人には当たり前の事ですよ。」
皆さんはどうですか?
僕だったら、どっちにしても困るなぁと思います。
前者の場合なら萎縮してしまうか、余計に反発してしまいそうですし、後者の方なら、変わる必要はないんだと思って罪の中にある自分で満足してしまうだろうと思います。
このふたつのアプローチは大げさに聞こえるかもしれませんが、案外このどちらかという牧師や信徒の方は決して少なくはありません。
相手をやっつけ、否定し、無理やり変えようとするか、相手を甘やかせ過ぎて、相手を間違えた状態のままにしてしまうか。
いずれにしても、問題が起こってしまうように思いますね。
私達は、バランスのとれた、聖書的な方法を学び、それをもって人に接したいものです。
① さばいてはいけません
「さばいてはいけません。」と、イエス様は言っています。
“さばく”という言葉は、普段あまり使わないかもしれませんね。
砂の砂漠でも、魚を捌くという意味でもありません。
“さばく”というのは、“裁く”という字を書きますが、法律的に決着をつける時に使う言葉です。
でもこの場合は、特に人のあら探しをする事や、批判する事、断罪をする事などを表しています。
そう考えてみると、私達は自分を中心とした価値観の中で他の人たちを見るとき、人をさばいてしまいがちなのではないでしょうか。
しかし、イエス様はそのような形での裁きを望んでいるわけではありませでした。
イエス様のそのままの言葉を、もう一度ちゃんと見てみましょう。
7:1 さばいてはいけません。さばかれないためです。
7:2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
人をさばいてはいけない。
それは、人をさばくことによって自分自身も「さばかれないため」だとイエス様は言っています。
私達は、人を裁けばお互いに裁きあい、結局互いを傷つけあうことになります。
しかし、私たちに主にあるもの同士がさばき合い、傷つけあうという結果が、本当に主の御心に適ったものでありうるでしょうか。
第二に、人をさばく事によって、自分が自分にさばかれる事が起こります。
うつになってしまう人の多くが、元気な時には人に対して批判的だった人たちです。
元気な時には何の問題もなく、どうしてできないのかと言って文句を言うくらいなのですが、自分にその体力や気力が失われてきた時、これまで他の人々に向けられていた批判の矛先が自分自身に向いてきます。
それまでは、さんざん批判をしてきた事なので、いざ自分が同じ状況に陥ってしまった時、自分自身を赦す事ができなくて、うつになってしまうんですね。
第三に、人をさばく事は、自分に対する神様のさばきを重くします。
私達が人をさばくという事は、私達が自分自身にそれだけの権威を認めているということになります。
聖書には、一般の信徒よりも教え導く立場にいるものの方が、より多くの責任を受ける事におなります。
私達が人を裁く時、私達は自分自身を、その様な立場に置くと言う事を意味しています。
イエス様が律法学者やパリサイ派の人々に対して厳しかったのも、彼らが人々に教え、導く働きの中にあったからです。
私達が、他人を厳しくさばこうとすればするほど、私達は他人からも、自分自身によっても、そして神様からも厳しい量りでさばかれる事になるのです。
② 目の梁をのぞく
さらに進んで考えてみてください。
そもそも私達は、人をさばく事ができるくらい、えらい存在なのでしょうか?
イエス様がその事を、おもしろおかしく話してくれています。
7:3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
7:4 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
梁というのは、柱と柱を繋いで補強するような、大きな角材ですね。
イエス様はこう言うんです。
「あなた達は人の弱点や失敗を目ざとくて、小さな事で鬼の首をとったように大騒ぎたててばかりいる。『あなたの目にはちりがついていますよ。』と言ってそんな小さなほこりの事を一生懸命に言うけれど、自分の目にはそんなに大きな梁が入っているのに、どうしてそれに気づこうともしないんだ。」
まるでマンガか掛け合い漫才のように、おおげさでおかしな展開です。
しかし、それほどまでに明確に、私達は自分の失敗や罪は棚に上げるけれど、他の人の小さな間違いにばかり気が行ってしまうものなのかもしれませんね。
私達はまず、自分の目を罪という大きな梁がふさいでいるのだという事を自覚しなければなりません。
私達は他人の問題に口を突っ込む前に、まず自分自身の問題に取り組まなければならないのではないでしょうか。
冒頭でも言いましたが、私達は罪人です。
誰一人、自分に罪はない、何の過ちもした事がない、自分の人生には何一つ失敗はないなどと誇れる人はいないはずです。
だいいち、人を裁こうとする人は、実は自己防衛本能が過剰に働いるために攻撃的になっていたりしているのですから、すねに傷のひとつやふたつは持っていたりするものですよね。
私達はまずそれを解決するべきです。
そもそも、さばくのは私達の仕事ではなく、神様のなさる事のはずです。
私達はまず、自分自身が主の前に悔い改め、捕らわれている罪から解放されるということを考えるべきではないのでしょうか。
私達が神様の領域の事に関わろうとするのは、それ自体が大きな罪です。
③ 兄弟の過ちを正す
さて、どんな事に関しても言えることですが、この事に関しても極端に考えて潔癖になってしまう事は避けなければなりません。
“さばいてはいけない。”と言うとですね、人がどんな悪い事をしていようと、それは口出ししてはいけないというように考えてしまう方が必ずいるんですね。
あるいは、ちょっと注意されただけで「この人は私のことを裁きました!」と大騒ぎする人が必ずいたりするものです。
私達がさばかないという事は、人の罪を大目にみて、誤りを正さないという事とは、まったく違う事です。
イエス様は、「すべては当人の責任に任せて、世界の罪をそのまま放置しておくべきだ」と言っているのではないのです。
ガラテヤ 6:1 兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
誰かが明確な罪を犯している場合、明らかに間違った方向に進んでいる場合、私達はそれをその方に教えてあげるべきです。
でも、“私達はその言い方に気をつけるべきだ”という事ですね。
まるで鬼の首でも取ったような勢いで、「ほら見たことか、あなたは間違っている。」と言うのは、それ自体が自己義認、自己中心から来た罪なんだと言うことが言いたいのです。
私達は、柔和な心をもって、その間違いを正してあげなければなりません。
マタイ 5:5 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
と表現されたあのように、心優しく、へりくだった者として人と接する事。
自分の意見を主張するのではなく、相手の立場に立って理解を深めながら、共に学び成長していく精神を忘れてはなりません。
それはちょうど、イエス様が私たちにしてくださるように、その様に教え、諭すという事でもあるでしょう。
それは、どうしたらそんな風にできますか?
どうやって柔和な心をもって、人を諭す事ができるのでしょう。
それは、私たち自身がどれだけの間違いをし、罪を犯し、そして赦されてきたのかという事を自覚する事です。
イエス様が別のところで、この様なたとえ話をしています。
マタイ 18:23 このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
18:24 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
18:25 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
18:26 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。
18:27 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
18:28 ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。
18:29 彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。
18:30 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。
18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
18:32 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
18:34 こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。
18:35 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」
私たち日本人は、自分に罪があるなんていう事は認めたくないという方が多い民族です。
いや、本当は誰だって、何人だってそうですよね。
自分はこれまでの人生、特に法に触れるような事もなく、誰かに大きな迷惑をかけるのではなく、目立たないながらも平凡な一市民として生きてきた。
特に神様に謝るような事は何もない。
そのように考える方もいらっしゃるのかもしれません。
もし、皆さんが本当に素晴らしい聖人のような方で、これまでひとつの間違いも起こさずに生きてきたのだとしたら、僕に言える事は何もありません。
でも、もし皆さんが自分の中にある罪を自覚していらっしゃるなら、誰にも言えないしその事を思い出すだけで胸が痛むような罪を抱えているなら、それを神様の前に持ってきて欲しいのです。
あるいは、もっと聖書を読むべきだと思うのだけれど、もっと祈って神様との時間を過ごすべきだと判っているけれど、なかなかそれができないと言う方。
あるいは、何度離れようとしてもなかなか離れる事ができない、自分では悪いとはわかっているのにそこに捕らわれてしまう何かを抱えていると言う方は、その罪を主の御前に告白してください。
いま、その罪はすべて赦されています。
イエス様が私達のために血を流し、私達のために投げ出したその命によって、皆さんのその罪はすべて赦されました。
それが、私たちに与えられている赦しなのです。
私達が自覚して、主の前に差し出した罪が多ければ多いほど、大きければ大きいほど、私達が受けた赦しは大きく、私達が受けた恵みは大きいのです。
主がその罪を、赦してくださったと言うのなら、私達はどうして他の人たちの罪を糾弾する事ができるでしょう。
その罪を裁くことができるのは、主、ただおひとりではありませんか。
皆さんの中で、それでもやはり赦せない誰かがいるのだとしたら、どうかその事も主の前に告白し、差し出してください。
主は、その罪をも赦してくださいます。
今日は、これから聖餐式がありますが、その前に少し時間をとって、自分の罪を主の前に告白し、悔い改めるための時間をもちたちと思います。
その事を通して、より大きな恵を皆さんが受け取り、さらに柔和さが加えられていきますように、その様な時間となる事を心からお祈りいたします。