マタイ7:13-14 『狭い門から入りなさい』 2008/06/15 松田健太郎牧師

マタイ 7:13~14
7:13 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

ヨハネ 14:6~7
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
14:7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」

Iヨハネ 1:8~2:2
1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
1:10 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。
2:1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。
2:2 この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。

ここしばらく、運動会などの行事が重なって、礼拝に来ることができない方が多いですね。
学校行事や町内会の行事は、容赦なく日曜日に重なります。
日本という国で生活していると、クリスチャンというのは本当に少数派なんだなぁという事を考えさせられるんです。
周りのほとんどの人たちが、聖書とは違う価値観の中で生きているわけです。
すると、信仰を持っている私たちまでも、「自分の信じていることは本当に正しいのだろうか。」なんて考えてしまう時があるかもしれませんね。

統計によると、世界の人口の3分の1がクリスチャンなんだそうです。
そう考えてみると、ずいぶんたくさんのクリスチャンがいるはずだなぁと思います。
でも実際には、この世界の価値観はちっとも聖書的になってはいません。
また、イエス様の価値観をもって生きている人は、やはり少ないのだなぁと思います。
あのブッシュ大統領がクリスチャンだということで、ショックを覚えた方も決して少なくはないと思うんですよね。

宗教的にはキリスト教という宗教に属してはいるという人は、確かに多いかもしれません。
けれど本当の意味で、イエス・キリストを救い主として、自分の主人として生きている人というのは統計に出ているよりはずっと少ないのではないでしょうか。
案外、日本のクリスチャン人口と大して変わらないかもしれませんね。

「狭い門から入りなさい。」とイエス様は言いました。
この「狭き門」という言葉は、クリスチャンでなくても、聖書を読んだ事がなくても、多くの人がどこかで聞いたことがあるような有名な言葉ですね。
しかし、これほど多く、間違えて使われている聖書の言葉も他にはないかもしれません。
私たちが“狭い門から入る”という事がどんな事なのか、今日は一緒に考えていきたいと思います。

① 狭き門から入る
神様の元へ至る道が“狭き門”であると聞くと、何だか不安になってしまう方もいらっしゃるかもしれませんね。
「え? 倍率は何倍ですか?」と聞きたくなってきます。
自分ではクリスチャンのつもりだけれど、神様への道が“狭き門”なのだとしたら自信がなくなってきたなんていう事もあるかもしれません。
それは、“狭き門”という言葉が一般的に使われるとき、競争が激しく、突破するのが困難なものという意味として使われるからですね。

天国へと至る道は、競争が激しい。
どれだけがんばっても、限られた人しか天国に入る事はできないんだ、と考えると「自分にはどうせムリなんじゃないか。」と悲観的になってしまうかもしれません。
でも、イエス様が言った「狭い道から入りなさい」と言うのは、倍率の高い難関を突破しなさいという事ではありません。
これは全て間違った御言葉の捕らえ方からきているのです。

みなさん、イエス様が言ったことを、頭の中でイメージしてみてください。
私たちは、ふたつの門の前に立たされています。
ひとつの門は広くて大きい門。
その先にはやはり広い道が続いています。
そしてもうひとつが、狭い門です。
その先にはやはり、狭くて細い小道が続いています。
多くの人たちは、そこに狭い門がある事に気づきもしないで、広い門を通っていきます。
そんな風に、誰もが疑いもなく広い門を通っていく中で、私たちはどちらの道を進めばいいのでしょうか。
「みんなが広い門を通るのだから、自分も広い門を通った方がいいんじゃないか。」
そう思われるかもしれませんね。

いまイエス様は、皆さんに決断を求めているのです。
「狭い門から入りなさい。」と。

イエス様はこの様に言われました。

ヨハネ 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

神様へと続く道はひとつしかなく、イエス様ご自身こそ、神様への道そのものなのだとイエス様は言いました。
しかしその道は誰もが通ろうとする王道ではなく、実は多くの人の目にはつかない、細くて狭い道です。
そしてその道へと通じる門は、多くの人が見落として気づかないほど小さくて、見つかりにくい門なのです。

すでにクリスチャンになられた方の中には、どうしてみんなクリスチャンになろうとしないのだろうと不思議に思われたことがあるかもしれませんね。
また、現在求道中の皆さんの中には、キリスト教が真実だと言うけれど、だったらどうしてクリスチャンである事が常識にはなっていないのかと思われるかもしれません。
それは、私達が罪によって縛られていて、むしろ神様から離れようとしてしまう性質を持っているからなんです。
だから多くの人たちは、広くて通るのが当たり前に思える滅びの道を選んでしまい、目の前にある命の道に気づきません。
「しかし、気をつけてよく見なさい。そこには狭い門があります。
その門は、誰に対しても開いている。
しかし、あなた達はそれを見つけて、そこを通らなければ命の道には入れないのだ。」
狭い門から入りなさいというのは、こういう事なのです。

だから皆さん、その門は狭く、道は細くても、そこに入る人数に制限はありません。
そこをくぐるための試験や条件もなく、誰でも、何人でも通る事ができる道です。
ただ、私たちはその道を選ばなければならない。
狭い門を選んでその道を進まなければ、私たちは天の御国に入る事ができません。
そしてどちらか一方を選ぶという事は、もう一方を捨て去るという事でもあるのです。
皆さんは、どちらの門を選択をするでしょうか。

② イエス様とともに歩む道
私たちがそれぞれの門の先をのぞき見るとき、広い道が栄えて平坦なのに比べて、狭い道はデコボコして厳しい道のりのように見えるかもしれません。
だから、たとえその道が誰かの目に留まっても、それが天の御国へと続く道だと聞かされていても、もしかしたらその道を選ぶことを躊躇するという事もあるのではないでしょうか。

ノンクリスチャンの方と話をしていると、たまにこの様に言われる事があるんです。
「あなたはクリスチャンなんですか。すごいですねぇ。
私のような人間は、とてもクリスチャンになれそうにはありません。」

確かに、罪のままに行く広い道はその道のりが楽で、それに比べると神様へと至る道のりは大変だと思えるでしょう。
しかし、イエス様はこの様にも言っているではありませんか。

マタイ 11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

“くびき”というのは、2頭の牛の肩にはめて、荷車に繋げて引かせるためのものですね。
牛2頭の力でひとつの荷車を引くわけです。
イエス様は、私たちが人生の中で負う重荷を、同じくびきを引いて助けてあげるよと言っているのです。
それどころではなく、重荷のほとんどを負担してくれているのは、実はイエス様です。
もちろん私たちはその道のりを共に進んでいくのであって、重荷がなくなるのでも、イエス様に任せっ放しになるのでもありません。
しかし、イエス様と共に歩む私達の人生は、ひとりで行く道のりよりもずっと楽なのです。

私たちが選んだ神様への道は、確かに細くて険しい道のりです。
でも、私たちはその道をひとりで行くのではない。
主が私達と共に歩んでくださり、私達を助け、励まし、力づけてくれるのだという事です。

狭き門の先に見える険しい道のりに躊躇している方がもしいらっしゃるなら、どうかその道のりがイエス様と共に歩む道なのだという事を知っていただきたいのです。
私達の天のお父様は、確かに厳しいところもあるけれど、困難の中をひとりで行かせる様な方ではありません。
イエス様とともに歩む道は、安易で平坦な道を行くよりもずっと楽しくて、喜びに満ちた道でもあるんですよ、という事なのです。

③ 狭き門をくぐるために
さて最後に、狭き門という言葉が表すもうひとつの面についても話しておかなければなりません。
少しはなしは変わりますが、みなさんは、茶室に入った事がありますか。
茶室の入り口は、「にじり口」と言って、とても小さいんですね。
どれくらい小さいかと言うと、武士であっても刀を預けて、頭を低くへりくだった姿勢で、にじり足になってなければ入る事ができないくらい、小さな入り口なのです。

この茶室を考案したと言われる千利休は、実は隠れキリシタンだったと言われています。
茶道の中には、聖書の価値観に基づいた多くの作法があり、この「にじり口」も狭き門を表して作られたものだと言われているんですね。
それが本当かどうかはともかくとして、ここから学ぶべき事があります。
私たちは、狭い門から入るためには、へりくだり、身を低くしなければならないという事です。

私たちはこれまでの人生を、自分王国の王様として生きてきました。
自分の人生の支配者は、自分である。
自分が、自分で、自分の力によって、自分のために生きる。
しかし実際には、自分の人生を思い通りにする事すら満足にできないのが私たちです。
世の中で成功者と呼ばれる人達は、うまく自分王国の王様になっているように見えるかもしれませんが、彼らにだって思い通りにできない事はいくらでもあります。
それもそのはず、当たり前のことですね。
だって私達は神様ではないのですから、そんな力なんて誰にもないのです。

私たちをこの世に存在させているのは、私達自身ではありません。
全知全能であり、あらゆるところに偏在し、そして何よりも私たちを愛してくれている、神様です。
神様こそが私達をここに存在させている。
神様こそが私達の支配者であり、王です。
私たちにとっての何よりの罪は、そんな神様を無視して、王座から追い出し、神様のいるべき場所を奪って自分が王様になったつもりでいる事です。
そのような自己中心が、さまざまな行いとしての罪を生み出しているのです。

狭き門をくぐるために必要なのは、私たちが主の前に、ひとりの小さな罪人でしかないという事を認め、主の前に身を低くし、自分が王であることをやめる事です。
そして、自分の心の中心にある王座から私たちが降り、そこにイエス様に座っていただく事です。
主が私の支配者であり、王であるという事を認め、その様に生きるとき、私達のクリスチャンとしての人生が始まります。

それは、確かに誰もが選ぶ道ではないでしょう。
多くの人は、いつまでも自分が王でありたいからです。
しかし、大きくなったまま歩む事ができる道は滅びの道なのだと、イエス様は言っています。

神様の恵みは水と同じです。
高いところから、低いところへと流れていきます。
みなさんは、多くの方たちがそうしているのに習い、自分が王である道を歩み続けて広い門をくぐりますか。
それとも、身分も、能力も、業績も、学歴も関係なく、身を低くするものに注がれる恵みをいっぱいに受けながら、狭い門をくぐって主と共に歩む道を選ぶのでしょうか。

その決断をまだしていない方がいるなら、今こそが決断のときかもしれません。
「狭い門から入りなさい。」というイエス様の言葉を信頼して、いまその門をくぐってみてはいかがでしょうか。
皆さんの歩む道が、主と共にありますように。

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