マタイ7:24-29 『揺るがない生活』 2008/06/29 松田健太郎牧師

マタイ 7:24~29
7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
7:28 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。
7:29 というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。

いま、多くの日本人が将来に不安を抱えているようです。
多くの若い人たちは格差社会の中で生きていく自信を持つことができず、未来に展望を持つ事ができなくなっています。
ある程度の年齢になっても、健康保険や年金の問題で、老後を生活することができるのか不安だという方も少なくありません。
自分の将来に見通しが立たないという状況は、私達に不安をもたらすのだろうと思います。
現代の社会には心の問題で苦しんでいる人たちもたくさんいますが、すべての心の問題の根源は、この不安という気持ちから起こっているそうです。

逆に言えば、日本の社会で多くの人たちは安定を求めているのです。
経済的な安定、社会的な安定、精神的な安定、いろいろな安定があると思いますが、みんんな、自分の人生の安定を望んでいるんですね。

今日の聖書箇所でイエス様は、安定した揺るがない人生とはどのようなものかということについてお話しています。
しばらく続いてきた山上の説教の話は、ここで終わりとなります。
ですから、最後を飾るこの重要な御言葉を、今日は一緒に味わっていきたいと思います。

① 岩の上の家、砂の上の家
イエス様はまず、ふたつのタイプの人たちを家に例えて、安定の話をしています。
ふたつのタイプとは、イエス様の言葉を聞いてそれを実行に移す人と、移さない人。
それによって、安定するかどうかが決まるのだと、イエス様は言うのです。
まずは、イエス様の言葉を行う人から見てみましょう。

7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。

私たちが第一に知っておかなければならないのは、イエス様に従う人生は苦難のない人生ではないという事です。
私たちがクリスチャンになり、洗礼を受けたらもう悪いことは何も起こらず、人生すばらしい事ばかりになってくるというのは、聖書に書かれている事ではありません。
クリスチャンであろうとなかろうと、この世の苦労から完全に開放されるという事ではないということです。
だから、信仰を持っていようとも、人生の中に大きな嵐が来る事は当然の様にありますね。
私たちに問われているのは、嵐の中で私たちがどんな状態になるのかという事です。

御言葉を聞いて実際に行う人は、強い風や雨、嵐が来て洪水になってもびくともしない岩の上に建てられた家のようだとイエス様は言います。
もちろん、不安や心配がまったくないというわけではないでしょうが、御言葉に聞き従って生きているなら、私たちがつぶれてしまう事はないと、イエス様は保障してくださっているのです。

その一方で、御言葉に聞いても聞くだけで終わりという人たちもいます。

7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」

日曜日の礼拝に行けば、なんとなく満たされた気持ちになるのだけれど、週の真ん中、水曜日くらいには燃料切れのようにボロボロになってしまっているという事はないでしょうか。
あるいは、調子のいい時は神様が近くにいるような気持ちになるけれど、嵐が起こると「やっぱり神様は、私を愛していない。」なんて事になってしまうとかもしれません。
そんな風に倒れてしまうのは、私たちが御言葉を聞いていても、行わないからだとイエス様は言っているのです。

日曜日に教会に行き、メッセージを聞いたり、賛美を一緒に歌ったり、あるいは主にある家族の中で交わりの時を持てば、確かに心が安心して、何となく大丈夫のような気がするかもしれません。
でも、そのように感情が動かされる事だけで満足してしまっていたら、自分自身の中で何かが変わるという事はないのではないでしょうか。

私たちは料理番組を見れば、料理人になれるというわけではありません。
環境問題をテーマとして映画を観たら、環境問題がなくなるのでもありません。
私たちが御言葉を聞いても、それだけに満足してしまい、それを行動に移すのでなければ、私たちの信仰は砂の上に作られた家と同じなのです。

私たちは教会に行くという、ただそれだけによって何かが変わるわけではありません。
私たちは聖書を勉強する、ということによって何かがかわるわけではありません。
私たちは賛美の中で、感情的になることによって何かが変わるのではありません。
私たちは、形式だけの礼典によって何かが変わるわけではありません。
私たちはメッセージの中で笑い、感動することによって何かが変わるのではありません。
私たちは他のクリスチャンとの交わりによって、何かが変わるのでもありません。
もちろんそういった事もそれぞれ大切なことですが、私たちは主の御言葉に聞いて、それを実際に行うことによって変わっていくのです。

② 聞いて行う
では、イエス様の御言葉を、聞いて行うというのは具体的にどうする事なのでしょうか。
まず何を置いても必要なのは、これは先週お話したことでもありますが、イエス・キリストの名によって救いを受け取る事です。
そのために簡単に言うと3つの事が必要だと先週はお話しました。
第一に、自分の中に罪があるという事を認めること。
第二に、イエス様が十字架で流された血と、私たちのために捧げられた命によって、私たちの罪は贖われ、赦されたという事を信じること。
そして第三に、命をかけて私たちを救ってくださったイエス様を、自分の主とする事です。
この三つのことを通して受けることができる救いを全ての人が受け取るということを、神様は求めています。
それを実際に、自分の事として受け取ることが、御言葉を聞いて行う事です。
これが全ての始まりであり、ここを通らなければ、何も始まりません。

次に出てくるのが、聖書の言葉を実践していくという事です。
イエス様が私たちに伝えたことのひとつひとつは、実行不可能な理想論でも、抽象的な思想でもなく、私たちが目指していく具体的なゴールです。
そして、それを「いい言葉だなあ。」と思っているだけでなく、実際に行動していく事が、私たちの土台を建て上げ、揺らぐことのない人生を作り上げていくのです。

大切なのはこの順番です。
イエス様を通した神様との関係を築いてから、御言葉の実践に移ります。
主との関係なしに行いだけを追求しても、それが私達の土台となる事は絶対にありません。
それは何となく良いことをしているという自己満足にはなるかもしれませんが、大体は義務となって負担を増やすだけです。

しかし、多くの方はイエス様との関係を無視して行いだけをしようとします。
残念ながら、すでに神様との関係をもっているはずのクリスチャンにさえ、時としてその傾向が見られます。
主が愛してくださるから、私たちは喜んで神様を愛し、隣人を愛する事ができるのです。
主の助けがあるから、私たちは自分が受けることではなく、与えることを喜びとしていくことができるのです。
その経験の中心には神様がいてくださいますから、主の言葉に従えば従うほど、神様との関係がさらに深まっていきます。
それが、私たちにとっての土台となっていくのです。

ひとつの言葉を紹介したいのですが、聖書の中にあるこの言葉は、よく間違った捕らえられ方をしていますね。

マタイ 6:19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
6:21 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。

この言葉は、この世の宝は全部がまんして、善行を積んで徳を高めなさいというような理解として考えられがちです。
良い行いをする程、天国に行ってからいい所に住めるなんて話を聞いた事がないですか?
でもそれは人間的な寓話から来た思想で、聖書的な教えではないのではないでしょうか。
聖書は、聖書の中の価値観をもって解釈されるべきですね。

この聖書箇所が伝えているのは、どれだけ蓄えてもやがてなくなってしまうような宝を求めるのではなく、天の御国を自分の宝としなさいという事です。
私たちの心は、自分が宝だと思うものを大切にしようと思うからですね。

全てをがまんして、涙を飲み込みながらよい行いをするという事が私たちの土台を築くのではありません。
私たちが主の言葉を聞くことを宝として、喜んで受け取り、従っていくという事が私たちにとっての土台を作っていくのです。
やがて滅びるものを自分の土台とするのではなく、永遠に続く宝をこそ、私たちの土台としていきたいですね。

③ 岩の上に家を建てること
今日の聖書箇所はマタイによる福音書ですが、ルカによる福音書の中にも似たような言葉が残されています。
これは、イエス様の言葉を記録した人が違えば記憶も違うので、少し言い回しが違いますが、同じ言葉をそれぞれの著者が記録したものです。
これを、平行箇所という言い方をします。
ルカによる福音書の中にある、今日の聖句の平行箇所を少し見てみましょう。

ルカ 6:46 なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。
6:47 わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。
6:48 その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。
6:49 聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」

建物を建てるとき、たくさんの時間と技術を尽くしてその建物の基礎が作られます。
基礎は地面に埋まっていて見えない部分ですが、場合によっては本体以上に時間や技術、労力がかかる工事となります。

土台なしに家を建てれば、ぱっと見た感じ、何が悪いかはわからないかもしれません。
労力も少なく、もっと安く、早く、地盤を選ぶ必要もないですから場所を選ぶ必要もなく、労力をデザインに費やした、きれいいで立派な家を建てることができるかもしれません。

しかし、どんな場所にも雨が降り、風が吹き付けることがあります。
家自体が頑丈に作られていれば、雨風ぐらいはしのげるかもしれません。
しかし、やがてそれが嵐となって、川が氾濫し土石流が押し寄せると、砂の上に建てられた家は元も子もないでしょう。

地面を深く掘り下げて岩の上に建てられた家は、安全性をよく確認して造られた家です。
雨風をしのぐだけでなく、時には激しい風雪にさらされて傷んでくることはあっても、川が氾濫して洪水が押し寄せても家自体が倒壊してなくなるという事はない。

でも岩を掘って土台を作らなければなりませんから、そのような頑丈な家を建てるのは、大変な労力と時間がかかるのです。
資金も必要だし、簡単に大きくて立派な家を建てることはできません。
同じ労力と時間を費やしても、土台なしに建てられた家に比べると外見に費やすことができる余裕は少ないだろうと思います。

私たちの人生も、それと同じです。
揺らがない人生、揺らがない信仰を建てあげるのは、それなりの苦労が伴うし時間がかかるのです。
手っ取り早く、結果だけを求めようとすれば、何となく見栄えのよい、立派なクリスチャンに見えるかもしれませんが、それは土台なしに家を建てるようなものです。
焦らず、神様の導きと関係を大切にしながら、少しずつ自分の家を大きくしていったらよいのではないでしょうか。
私たちにとって何よりも大切なのは、今私たちが決して動かない神様という土台の上に建てられているという事実なのですから。

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