ヨハネ10:1-18 『主は羊飼い』 2005/09/04 松田健太郎牧師

ヨハネによる福音書10:1~18
イエス様はたとえ話を用いて、沢山の事を私たちに話してくれました。
いつかイエス様のたとえ話に焦点を当てて、たとえ話のシリーズとしてメッセージをしていきたいと思っていますが、今日の箇所はヨハネの中では珍しく、たとえ話を取り上げています。
ヨハネが書いた福音書は他の3つの福音書と違い、イエス様の周りで起こったことを闇雲に書き進んでいくのではなく、イエス様とは誰なのかということに焦点を当てて書かれています。
その中で記載された数少ないたとえ話ですから、このたとえ話を通してイエス様がご自分の存在にどのような意味があるのかということを伝えようとしたのだと言う事がわかります。
それでは、もう一度一緒に見ていきましょう。

10:1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
10:2 しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。
10:3 門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
10:4 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
10:5 しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」

皆さんの中で、このたとえ話がどのような形で映像として浮かんでいるでしょうか?
羊飼いが羊牧のために囲ってある土地があるわけですね。
イスラエル地方の牧場は、狼や、ライオンから羊を守るために石で築いた塀で囲われています。普通に柵を乗り越えるようにしては入ってこられないようになっているわけですね。
羊飼いが囲いの中に入ってくるときには、門をくぐって入ってきます。
しかし、その門をくぐらないで、無理やり塀を乗り越えて入ってくるのは、盗人や強盗なのだと言う事です。門から入ろうとしても、門番に止められたりして入ることができないから塀を乗り越えてくるわけですよね。門番は羊飼いと羊のためにしか、門を開かないからです。
さて、羊飼いは羊にエサを食べさせたり運動をさせるため、囲いの中から出します。
その間は羊飼いが野獣や強盗から羊達を守るわけです。羊飼いの武器は石投げ機や杖と棍棒です。
旧約聖書ではダビデが、石投げ機でライオンや熊を追い払ったといいますから、かなりの威力もあったのでしょう。実際に、ダビデはその石投げ機で身長が3メートルもある巨人ゴリアテを倒しています。
また、羊飼い達は羊を正しい方向に導くために歌うような大きな声で羊達に語り掛けました。
羊達はその声を覚えていて、その羊飼い以外の者がどれだけその声を真似ても、決してそれについていく事はなかったといいます。
イスラエルの人々にとって羊飼いが、何度も神様の愛を描写するのに使われるほどに慕われていたのは、羊飼いの羊に対する接し方です。
彼らは心から羊達を愛し、一匹一匹に名前をつけ、時には命をかけて羊達を守りました。
羊達と同じ所に寝泊りする羊飼いも、少なくはなかったというほどです。

さて、イエス様はこの話の中で何を伝えようとしていたのでしょうか?
そこにいる人々にはイエス様の話しの意図する所がわからなかったので、イエス様はこのたとえ話を解き明かし、意味を明確にしていきます。

10:6 イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。
10:7 そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
10:8 わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
10:10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

私達は内にある罪のために、神様との関係は断絶されています。
私たちと、断絶されている神様を結ぶのは、門です。
だれでもイエス様を信じてこの門から入るなら、豊かな命を与えられます。イエス様は、信じる者達が神様に近づくための新しい生ける道です。
それによって人々が救われ、神様を知り、命を与えられ、すべての霊的な必要を満たされるのです。
しかし、門を通るのではなく、囲いを乗り越えてこようとする盗人や強盗がいます。
彼らが羊を盗むのは、羊飼いの代わりに自分が可愛がるためではありません。
彼らは羊を売りさばいたり、殺して食べてしまったり、自分たちの利益のために羊を盗むのです。盗人や強盗にとって大切なのは羊達ではなく、自分たちだからです。
イエス様がここで言う、「わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗でした」と言うのは、パリサイ人や律法学者達、また歴史的に何度も現れえては人々を惑わせてきた偽預言者たちのことです。
彼らは、羊である人々を養おうとはしませんでした。
パリサイ派の人々や律法学者がしたことは、結局は自分たちの清さを強調し、律法の枠組みに入らない人々を裁き、おとしめ、神様の救いから追い出そうとすることでした。
偽預言者たちは人々を騙し、搾取し、栄光を自分のものとしました。
私達はちゃんと羊飼いの声に聞き従ってついていっているでしょうか?
それとも、盗人や強盗の声に惑わされて、道に迷ってしまってはいないでしょうか?
羊達は羊飼いの声を聞き分け、他の人々の声に惑わされる事はありませんでした。愚かな家畜として知られる羊でさえ、羊飼いの声を聞き分けて、それに聞き従うのです。
私達は羊飼いであるイエス様の声を見失うことなく、いつも聞き従っていきたいものです。


イエス様は私たちの羊飼いです。
そればかりではありません。イエス様はよき羊飼いだとご自分の事を言いました。

10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
10:12 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
10:13 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。

良い羊飼いとは、羊のために命を捨てる羊飼いです。
雇われた羊飼いは、羊の価値を自分が貰っている給料で量ります。
自分のいのちと給料を天秤でかけたとき、給料を選ぶという人はいないでしょう。
良い羊飼いは、同じところで寝泊りするほど、羊を愛しています。
良い羊飼いにとって、羊とは命にも代えがたい大切な家族なのです。
今まで宗教指導者たちの誰が、私たちのために自分の命を犠牲にしてくれたでしょうか?
これはいないのが当然なのです。
なぜなら、わたし達人類の所有者ということができるのは、唯一私たちをお作りなった神様であり、イエス様以外の人々にその責任もなければ、そこまでする理由もないからです。
一方でイエス様は私たちをどの様に見てくださっているでしょうか?

10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。

天の父なる神様がイエス様を知っているように、イエス様が私たちを知っているとイエス様は言います。
これは、驚くべき事ではないでしょうか?
羊飼いであるイエス様にとって、私達はただの羊の群れではないのです。
父と子の親密な交わりと同等の親しさをもって、イエス様は私たちを見てくださっています。
イエス様が知っていると言う時、それは知識として、松田健太郎という人間がいるんだということではありません。
僕という人間がいつ、どこで生まれ、何が好きで何が嫌いか、僕がどの様な人間なのか、それは知り合いという程度の関係ですらなく、家族の親しい交わりです。
私達はどうでしょうか?
イエス様は、わたし達もイエス様をその様に知っていると言い、信じてくれています。
わたし達にとって、イエス様とはどの様な方なのでしょうか?
イエス様とは、2000年前に生まれ、十字架で死んだ、歴史上偉大な宗教家でしかないのでしょうか?
それとも今、生きて、わたし達とともにいて下さるお方として、皆さんは感じていらっしゃるでしょうか?
聖書の知識や、キリスト教の教理にどれだけ詳しくなったとしても、イエス様を個人的に知っているのでなければ何の意味もありません。
イエス様を個人的に知るためにもっとも有効な手段は、聖書の御言葉を通して語りかけて下さるイエス様の声に耳を済ませることと、祈りを通して私たちの想いを知っていただくというコミュニケーションをとるということです。
コミュニケーションのない人間関係に発展はないからです。
皆さんのイエス様とのコミュニケーションが、今どのような状態なのか、もう一度見直して見てはいかがでしょうか?


今日の箇所からもうひとつ、この御言葉を通して、神様がどのようにわたし達に接して下さるのかを考えていきたいと思います。
10章の最初の2節をもう一度見てみましょう。

10:1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
10:2 しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。

わたし達がここから知ることが出来るのは、神様は私たちの意志や思いを乗り越えて、私たちの中に無理に入って来ようとする事はしないのだということです。
わたし達が自分の中にイエス様を迎え入れようとせず、囲いの外に追いやるのであれば、イエス様は盗人や強盗のように囲いを乗り越えて入ってくることはしません。
私たちがイエス様を羊飼いとして受け入れ、認識を持ち、柵の中に入っていただくときにはじめてイエス様は私たちの中に入ってこられるわけです。
イエス様は私たちの自由を尊重しているということなのですが、それは同時に、わたし達が救いに入るかどうかということの責任が自分自身にあるのだということでもあります。
イエス様は私たちの罪のために十字架にかかり、私たちの罪を贖って下さいました。
しかし、それをわたし達に押し付ける事もしないということです。
わたし達がそれを受け入れないのであれば、私たちの罪は贖われることはありません。
わたし達が受け入れないのだから仕方が無いのです。
でもだからといって、それを受け入れない人たちには罪がないということにもならなければ、裁きがないということにもならないということも私達は知らなければなりません。
だから、わたし達が囲いの中に閉じこもり、門を閉めてあけないという状況は、イエス様にとっても辛い事なのです。
イエス様はそれで私たちを見捨ててしまうということはなく、わたし達が心の扉を開くその瞬間まで、その門の前でいつまでも待っています。
少し場面は違いますが、黙示録ではイエス様が心待ちにして、わたし達が扉を開くのを待っている様子が描かれています。

黙示録 3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

もし、まだイエス様を救い主として受け入れていない方がいらっしゃるのであれば、イエス様は今、この時も、あなたの心の門の前で、あなたが扉を開けるのを待っています。
どうか、今日、その心の扉を開いてみてはいかがでしょうか?

最後に、主を私たちの羊飼いとして生きる生き方をする人がどのような生涯を送ることができるのか、神様に最も愛された人物として知られるダビデ王が書いた詩篇を一緒に読んで締めくくりたいと思います。

詩篇 23篇
23:1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

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