ヨハネ11:1-44 『もしここにいてくださったなら』 2005/09/11
ヨハネによる福音書11:1~44
11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
11:2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
11:6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。
11:7 その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。
11:8 弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」
11:9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。」
11:10 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」
11:11 イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」
11:12 そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」
11:13 しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。
11:14 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。
11:15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」
11:16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」
11:17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。
11:18 ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。
11:19 大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。
11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。
11:21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
11:22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
11:24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
11:27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」
11:28 こう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、「先生が見えています。あなたを呼んでおられます。」とそっと言った。
11:29 マリヤはそれを聞くと、すぐ立ち上がって、イエスのところに行った。
11:30 さてイエスは、まだ村にはいらないで、マルタが出迎えた場所におられた。
11:31 マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。
11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
11:34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
11:35 イエスは涙を流された。
11:36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」 11:37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。
11:38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。
11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
11:40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
11:42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
11:43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
今日の話は大変長い箇所なので、本来ならばこの箇所を3週か4週に分けて、ゆっくりメッセージされる箇所ではないかと思います。
ですが、今回ヨハネによる福音書のシリーズからメッセージしているのは、この福音書をとにかく通しながらイエス様がどの様なお方かを見て行こうということが趣旨ですから、かなりポイントを絞ってお話していきたいと思います。
さて、長い箇所ですので3回に分けて朗読していただきましたが、大体の話の流れを把握していただけたでしょうか?
イエス様に、特に親しく交わりを持っていた家族があったんですね。
マルタとマリアという姉妹と、その兄弟であるラザロ。
イエス様はこの兄弟姉妹たちと、特に深い交わりを持っていました。
これは何もイエス様がこの兄弟達をひいきしていたという事ではなくて、イエス様が本当に落ち着く事ができると言うか、気の許せる家族だったということでしょう。
そのラザロが重い病に冒されてしまったのです。
イエス様が来て癒して下さればという願いを持って、マルタ達はイエス様に遣いの者を送りますが、イエス様はその知らせを聞いてからすぐに駆けつけるのではなく、2日もその地に留まります。
ユダヤ人からの迫害が始まっていましたから、イエス様にとってユダヤの地に戻って彼らに会いに来るには危険が伴いましたが、とはいえイエス様がようやく彼らのもとに来た時には、時すでに遅く、ラザロは死んでからもう4日も経っていたのです。
①
家族を失うということは、どれ程辛い事でしょうか。
ラザロが重い病に犯されて苦しんでいる時、今にも命が取り去られようとしている彼を見守るマルタやマリアも本当に辛かったろうと思います。
家族や親友を亡くされた方には、きっとその辛さ、悲しさが想像できるのではないでしょうか。
これは、ただ単に2000年前に遠くで起こった出来事ではないのです。
マルタとマリヤが経験したこの時の辛さ、苦しさ、悲しさは、現代に生きる私たちの誰もが、必ず経験する苦難です。
この不平等な世界に、唯一平等に、誰にでも持つことができるのは死の経験です。
誰もが、いつかは死にます。
そしてわたし達に家族がいる限りは、必ず家族との別れも経験する事になります。
わたし達が親しい交わりを持っている限りは、必ず親しい知人、友人との悲しい別れも、いつか経験する事になります。
こんな事がなかったら、どれ程いいでしょう。
病気だとか、家族の死だとか、そんなことはない方がいいでしょう。
しかし、決して避けることができないものでもあるのです。
私達は、普通に生活し、何事もない、平安な、平凡な毎日を過ごしている時にはいいのですが、病気になったり、死を目前にしたり、緊急の事態になったときに自分自身を問われます。
自分がこれまで何を頼りにして生きてきたか、何を土台にして生きてきたかに違いが出てくるのです。
イエス様はそれをたとえ話を用いて話してくれています。
ある人は、砂の上に家を建てました。そして他のある人は、岩の上に家を建てました。
どんな家にも風が吹きます。どんな家の上にも雨が降ります。
ある日そのふたつの家に強い雨が降り、風が吹いた時、不安定な砂の上に建てられた家は、砂が崩れて家が倒れてしまいました。
頑丈な岩の上に建てられた家は、同じ雨に打たれ、同じ風に吹かれても倒れませんでした。
聖書には、信仰を持ったらすべての悩みがなくなるとは約束されていません。
イエス様を信じたらすべての悩み苦しみがなくなったら、どれだけいいでしょう。
信仰を持ったら家内安全、無病息災、受験には合格、妊娠すれば安産、そのようであればどれだけ判りやすく、楽な人生でしょうか。
しかし、イエス様は信じれば苦難がなくなるとは言われなかったのです。
信じても、人生は同じように続きます。
苦難もあれば、試練もあります。
病気にもなれば、家族が亡くなったりもします。
しかし、キリストを土台にする者は倒れない! わたしを信じる者は倒れない! と、イエス様はお約束なさったのです。
雨が降っても、風が吹いても、わたしを信じるものは永遠に立つとイエス様ご自身が命をかけて、言ったのです。
皆さん、このキリストが私たちの土台です。
悩みがあっても大丈夫です。この岩なるキリストが私たちとともにおられるからです。
②
さて、イエス様が村に着いたと聞くと、マルタはイエス様を迎えに出ました。
イエス様を前にして、マルタの第一声はこのようなものでした。
11:21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
イエス様が村に着いたということを聞き、続いてマリヤが、イエス様を迎えに出て行きました。
そこでのひとこと。11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
奇しくもマルタとマリヤは、別々にイエス様の所に行き、同じ事を言っています。
これが彼女達の本音だという事がわかりますね。
しかしそれ以上に、この時の彼女達の気持ちもよく判りますよね。
イエス様は色々な所に行き、福音を告げ、奇蹟を起こし、それでもこの街に立ち寄った時には必ずこの家族のもとに立ち寄ってくつろいだのです。
その度ごとにイエス様のなしてきた奇蹟の数々を耳にしたでしょう。
あるいは、実際に目にしてきたでしょう。
噂では、目が見えない人の目を開き、歩けない人の足が癒され、38年間も病に冒された人が癒されるのを聞いてきたのです。
ラザロを看病している間、彼女達の心からいつも離れなかったのは、もしここにイエス様がいてくださったら・・・、もしイエス様が今来てくださったら、きっとこの病は癒されるだろうという確信、信仰でした。彼女達はそれを支えにして看病し、ラザロを励ましてきたのです。
それが彼女達の願いでした。
ラザロの命が絶える前にイエス様が来てくださることが、この姉妹の望みだったのです。
しかし。イエス様はついに現れてくれませんでした。
ようやくやってきたイエス様に彼女達は言ったのです。
「イエス様、ひと足遅かったです。手遅れでした。もしイエス様がここにいてくださっていれば、ラザロが死ぬ事はなかったでしょうに・・・。」
その気持ちが痛いほど伝わってきませんか?
わたし達も同じように感じる事がないでしょうか?
もしイエス様がいて下さったら、すべての問題が解決する。
もしイエス様がいて下さったら、こんなに苦しい目にあわなくても済んだだろうに。
もしイエス様がわたし達とともにいて下さったら、家庭がこんなに崩壊してしまうようなことはなかったろうに。
もしイエス様がこの会社にして下さったら、こんなに酷い職場環境にはならなかったろうに。
もしイエス様がこの国にいて下さったら、もっと多くの人々が救われ、物質的にも、精神的にも豊かな国になるだろうに。
そんな皆さんに朗報があります。
聖書はこの様に言っているのです。
マタイ28:20b「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
これが福音です。
イエス様が、今、この時にも、世の終わりにいたるまでわたし達とともにいて下さるというのが、イエス様のされた約束なのです。
皆さんにそれが見えるかどうかとか、感じるかどうか、というのは問題ではありません。
皆さんの信仰が薄いから、イエス様が遠くなっているような気がするというのは、まったく問題にはなりません。
イエス様は、今のあなたの信仰がどうであろうと、気分が優れていようと悪かろうと、罪を犯した後だろうとなんだろうと、今、この時、あなたとともにいます。
そして、世の終わりまで、決して離れる事はないということです。
聖書の中で、神様ご自身が、わたし達にそのように約束して下さっているのです。
私たちが苦難の中にあるとき、試練に合う時、知人ではない、友人ではない、牧師ではない、信仰の先輩ではない、そこにイエス様がともにおられるのだということを覚えていて下さい。
③
「もしここにいてくださったなら・・・」というのがマルタとマリヤ、そして私たち人間が、神様に対して感じていたことでした。
今度はイエス様が、私たちに対して「もし」という言葉を使いました。
11:40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
私達は、自分が期待した願いや祈りが叶えられないと、がっかりして傷ついてしまいます。
それが嫌だから、恐いから、あまり大きなことは祈らない、祈りたくないと言う人もいるかもしれません。
しかし神様は、わたし達が願った時必ずその通りに叶えて下さる方ではありません。
私たちの計画の通りに、わたし達が注文したとおりに、その願いを聞いてくださるのが神様ではないのです。
私たちが主体ではありません。私たちの計画ではないのです。
神様の計画によってすべては起こり、わたし達がそれに合わせていくということです。
「あなたが願うなら」とは、イエス様は言いませんでした。
「もし、あなたが信じるなら」とイエス様は言ったのです。
この時もマルタやマリアが願ったこととは違う計画が用意されていました。そしてそれは、彼らが期待していたよりもずっと大きく、驚くような奇蹟だったのです。
イエス様はラザロの遺体が安置されている墓の岩扉を開けるように言いました。
ラザロは死後4日間も経っていて、もう臭くなっていることが予想されました。
みんな戸惑ったでしょう。
しかしイエス様に言われたとおり岩の扉を開きました。
11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
11:42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
11:43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
心臓停止している人の心臓が蘇生したのではありません。
病に冒され、死亡を確認されてから4日も経った、もう臭くなってしまっているような状態になったラザロが、生き返って出てきたのです。
イエス様の癒しとは、ただの手かざしによるヒーリングパワーではないということが判ります。
そこにあるのは創造者の力です。
物質の原理を超越し、時間をも越えた力がそこに働いているのです。
この様な力が神の栄光です。人にできるようなものではありません。
この時生き返ったラザロは、何十年か後にまた死ぬ事になったでしょう。この時ラザロに与えられたのは復活の命、永遠の命ではなかったからです。
しかし、この時に死人を生き返らせたイエス様は、後の世に、私たちを復活させるのだと約束しています。ですから、私達はもう、死を恐れる必要がありません。
やがてイエス様が真っ先に復活し、私たちの墓に向かい、「出てきなさい。」と宣言する日が来ます。
そのためにイエス様ご自身が犠牲として十字架にかかり、私たちの罪を贖って下さったのです。
だから私達は、イエス様を信じて、約束の日を待とうではありませんか。
涙は喜びへと変えられていきます。
問題があっても、必ず乗り越える事ができます。
蘇りの主が、あなた方とともにいられますから。