ヨハネ12:20-36 『一粒の麦のように』 2005/09/18 松田健太郎牧師

ヨハネによる福音書12:20~36
12:20 さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。
12:21 この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ。
12:22 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。
12:23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。
12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
12:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。
12:27 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
12:28 父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」
12:29 そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ。」と言った。
12:30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。
12:31 今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。 12:32 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」
12:33 イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。
12:34 そこで、群衆はイエスに答えた。「私たちは、律法で、キリストはいつまでも生きておられると聞きましたが、どうしてあなたは、人の子は上げられなければならない、と言われるのですか。その人の子とはだれですか。」
12:35 イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。
12:36 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。

イエス様の旅は、早くも十字架に向けての秒読みを開始し始めました。
21章ある内の12章目からですから、ヨハネによる福音書では、なんと半分近くの章を用いて、十字架を語っています。
イエス様がなした事の意味を読み解いて行こうとするヨハネの福音書がこのような構成になっていることを見れば、イエス様にとっての十字架がどれほど大切なものだったのかが判ります。
さて、過ぎ越しの祭りの時に、何人かのギリシア人がイエス様を求めてやってきました。
礼拝のために上ってきた人たちの中にいた人々でしたから、旅の間にイエス様の噂を聞きつけたのでしょう。
あるいは、彼らも礼拝のためにやってきた、改宗者だったのかもしれません。
そのような訪問者を合図とするかの様に、イエス様はご自分の最後が近いということに気づき、ひとつの話を始めます。
今日はイエス様がなされたそのお話から、3つのポイントで話していきたいと思います。


私達は誰でも、持っていたものをなくすという経験をします。
どんなに家の中を整理整頓していたとしても、どれだけいつも注意深くしていたとしても、財布や鍵や、電車の切符をなくしてしまうということは誰にでもあるものです。
なん10億円という財産を、一夜にしてなくしてしまう人もいます。
また、若さというものは、どれだけがんばってお化粧してみても、毎年失われていくものですよね。
私たちが本当に大切だとか、尊い、かけがえのないと思っているものをなくす時には、本当に辛いものです。
弟子達にとって、イエス様は絶対的な存在であり、彼らの希望でした。
イエス様は目の見えない者に光を与え、足が動かない者に動く力を与え、死んだものに命を与えました。
弟子達が信じていたのは、神から送られたこのメシヤ、キリストが、彼らユダヤ人の王となり、世界を永遠に統べ治めるのだという夢であり、希望だったのです。
誇り高いユダヤ人が、ローマ帝国の支配下に置かれているというその屈辱的な状況から救い出してくれる王。戦争も貧困もない理想の国家を作ってくれる王の王こそが、このイエス様だと彼らは信じていたのでした。
しかし、イエス様はその様な形では王にはなりませんでした。
それどころではない、ローマ帝国に捕らえられ、十字架にかけられてしまったのです。
彼らにとっての人生の希望、夢そのものが失われたその時の衝撃はどれほどのものだったでしょうか。
神様の計画は、イエス様が文字通り王となってこの世界を治める事にはないということを、イエス様は知っていました。
イエス様は麦のたとえ話をもって、その事を話しています。

12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

食べようと思っていた麦が落ちて、食べられなくなってしまったら、私達は残念に感じてしまいます。でも一粒の麦は、食べるのであればただ単に一粒の麦であるにすぎません。
しかし麦が落ちて、種となって根を張り、芽を出すと、やがて何百という実をつけて私達は収穫するようになるのです。
イエス様が生きていれば、弟子達にもっと多くの御言葉を伝え、もっと多くの人々を癒すことができたでしょう。
しかし、イエス様に会うことができる人は限られているのです。
あるいは弟子達のもくろみの通り、イエス様がユダヤ人の王になっていたとしたら、ユダヤ人たちにとってはすばらしい国ができたかもしれません。
それでも地理的な限界、物理的な限界はあったでしょう。イエス様は世界にたった一人しかいないのですから、全ての国民の問題に、同時に答えることはできないのです。
イエス様が十字架にかけられることは、弟子達が師匠を失い、ユダヤ人たちは王を失うことを意味しています。
しかし、それによってもっと多くの人々が救われるのです。
弟子達だけではなく、ユダヤ人たちだけではなく、その時代の人々だけでもない。
全人類、過去から未来に至るまですべての人々に救いを与えるのが、神様の計画なのです。
一粒の麦であるイエス様は確かに尊い、かけがえのないものです。
しかし、それ以上のものとなるために、時にはかけがえがないと思っているものを手放さなければならない時があるのです。
神様がイエス様以上に尊いと思っていたもの、それは私たちです。
私たちを救うという目的のために、イエス様は一粒の麦となり、身代わりになってくださったということを、皆さん決して忘れないで下さい。


2番目のポイントは、イエス様がされたその覚悟を、私たちの中に適用して行こうということです。 イエス様はこの様に言っています。

12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
12:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。

ここは理解が少し難しい所だと思います。
結論を先に言うなら、ここでイエス様は、あなたも人のために犠牲になりなさいといっているのではないということです。
それを踏まえた上で、イエス様がもう少し具体的に説明して下さっている所を見てみましょう。

ルカ 14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。
14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。

14:33 そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。

イエス様はかなり厳しい事を言われていますね。
あの愛のお方であるイエス様が、無条件の赦しを説いたイエス様が、ご自分の弟子としての条件に関してはなぜこれ程厳しい条件を持ち出したのか。
皆さんにはこの様な事ができるでしょうか?
イエス様のために家族を憎み、自分の命までも憎み、全財産を捨て、自分の十字架を負ってイエス様についていきたいという人はいますか?
これは、そのまま家族を捨てなさいとか、自分の命を憎みなさいとか、全財産を捨ててしまいなさいと言っている訳ではありません。
これは、心構えの事を言っているのです。
自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎むだけの覚悟がなければ、全財産を投げ捨てるほどの意思がなければ、自分の十字架、つまり罪の責任を自ら背負うだけの思いがなければ、私についてくることなどできない。
しかし、私たちが背負った十字架につけられるのは私たちではありません。
私たちがかからなければいけないはずの十字架に、イエス様が、身代わりとして架かって下さるのです。

ヨハネ12:25に戻りましょう。イエス様は、「12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」と言いました。
私たちが自分の命を憎むほどに思って、あるいは全てを失う覚悟をもってイエス様に従うなら、私達がそれを失う事はないのです。
また、マタイによる福音書の中でこの様に言っています。

マタイ 6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

旧約聖書でアブラハムは、イサクを生贄として捧げるように神様に言われましたが、信仰を持ってそれに従った時、イサクを失う事はありませんでした。
その信仰によって、アブラハムは子孫にいたるまで大きな祝福を受けたのです。

私達は色々なものに価値を置いています。
皆さんの一番大切なものは何でしょうか?
財産でしょうか、家族でしょうか、マイホームでしょうか、自分の美しさでしょうか、趣味でしょうか、仕事でしょうか、それとも平凡な幸せでしょうか?
皆さんの一番大切なものを、神様に捧げる覚悟はできていますか?
すべての物の一番上に、神様を置く事はできているでしょうか?
もしできているなら、その思いは一粒の麦のように、大きな祝福となって皆さんのもとに帰ってきます。


この後、イエス様は心の騒ぎを覚えます。
それは、これから人類の罪を背負い、十字架につかなければならないということと、それまでに待っている多くの試練に対する恐れからでした。
この時にイエス様がされる祈りと告白は、他の福音書で記されているゲッセマネの祈りのようです。この祈りを通して、イエス様は十字架を避けるのではなく、これに向かい、神様の栄光が現される事を望みます。
その時、天から声が聞こえたのです。

12:28b「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」

イエス様が求める時、父なる神様はいつでもその呼びかけに答え、栄光の御技を現わしてこられました。そしてもう一度現わされるという主の栄光とは、十字架による人類の救済。罪の贖いなのです。
この声を通して、人々は神様とイエス様がいかに近い存在なのかということを知ることができるはずでした。
しかし天からの声を耳にしても、殆どの人々はそれを信じることも、理解する事もできませんでした。
表面的な現象にとらわれる人々には、それは雷の音としてしか聞こえず、霊的な事を信じる人々でさえ、それが神様の声だということを信じることができず、御使いがイエス様に話しかけたのだという理解に留まりました。

これ程多くの事が起こっても、イエス様がこれから十字架にかかっていくのだということをどれだけ伝えても、弟子達にも、その場に居合わせた人々にも、そのことがまったく理解できませんでした。

信仰を持っていないと、それは暗闇の中を歩いているような状態です。
今目の前で起こっていることも、何が起きているのか判らなくなってしまいます。
そこで私たちの光となり、道を照らして下さるのがイエス様です。
イエス様は、この様に言っています。

12:35 イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。
12:36 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。

皆さんは、光の中を歩いているでしょうか、それとも今は闇の中でしょうか。
光がある間に、光であるイエス様を信じてください。
私達は、いつかチャンスがなくなってしまうんだという事をなかなか考えようとしません。しかし、いつか私たちに悔い改めたくてもそれが許されなくなる時がきます。
いつか光がなくなるときが来ます。
それは死という闇が襲ってくる時かもしれません。
光を信じてください。光の子となるために。

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