ヨハネ18:28-40 『神の国の王』 2005/11/20 松田健太郎牧師

ヨハネによる福音書18:28~40
18:28 さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸にはいらなかった。
18:29 そこで、ピラトは彼らのところに出て来て言った。「あなたがたは、この人に対して何を告発するのですか。」
18:30 彼らはピラトに答えた。「もしこの人が悪いことをしていなかったら、私たちはこの人をあなたに引き渡しはしなかったでしょう。」
18:31 そこでピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい。」ユダヤ人たちは彼に言った。「私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません。」
18:32 これは、ご自分がどのような死に方をされるのかを示して話されたイエスのことばが成就するためであった。
18:33 そこで、ピラトはもう一度官邸にはいって、イエスを呼んで言った。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」
18:34 イエスは答えられた。「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」
18:35 ピラトは答えた。「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」
18:36 イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」
18:37 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。
18:38 ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。
18:39 しかし、過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」
18:40 すると彼らはみな、また大声をあげて、「この人ではない。バラバだ。」と言った。このバラバは強盗であった。

さて、いよいよイエス様が捕らえられるその時が来ました。
今日のメッセージの箇所までにいくつかの事が起こっていますので、状況をざっとお話いたしましょう。
裏切り者のユダがローマ兵たちと役人達を引き連れて弟子達の前に現れました。
ペテロは持っていた剣で、マルコスというひとりの兵士の耳を切り落としましたが、イエス様はペテロをいさめ、兵士の耳を癒し、兵士達に連れて行かれてしまいました。
その時弟子達は、そこで捕らえられることはなく、それぞれが散り散りになりました。
「私は例え死んでも、最後までイエス様に着いていく」と言っていたペテロは、人々に「お前もあのイエスの仲間ではないのか。」と問われた時、3度に渡って「私はあんな人のことは知らない。」と否定しました。
今読み進めているヨハネの福音書には載っていませんが、他の福音書を見ていくと、この後ユダが自殺してしまっている事が判ります。
その様な緊迫した出来事の中、イエス様がローマ帝国のユダヤ総督であるポンテオ・ピラト前に連れて来られました。
今日は3つの視点を通してこの箇所を一緒に読んでいきましょう。

① ポンテオ・ピラト
まずはここに登場するピラトの事から共に見ていきましょう。
ピラトという人は、ローマ皇帝に派遣された、この当時のユダヤ総督でした。
ヨセフスというユダヤ人歴史家の記述に寄れば、ピラト総督は当時、ユダヤ人からはかなり嫌われていた総督だったということがわかります。
ピラトはユダヤの文化や習慣、宗教観を嫌い、ローマの習慣を持ち込んでユダヤ人の反感を買いました。ピラトが総督として治めている間、何度も大きな暴動がこのユダヤ地区では起こっていたのです。
イエス様がピラトの元に連れてこられてきた時、ピラトは度重なるユダヤの暴動で、ユダヤ人からの信用も、皇帝からの信頼も失い始めていました。
もう失敗はできない。
今度ユダヤに暴動が起こったら、今の地位も、名誉も失う事になるだろう。
ピラトはその事をよく自覚していました。
ピラトにとってユダヤ人がナザレのイエスを連れてくるという自体は迷惑であり、面倒であり、トラブル以外の何でもなかったというのが、彼が感じていた事ではないでしょうか。
私達はこの時のピラトの態度から察する事ができます。

18:31a そこでピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい。」

これはあなた達ユダヤ人の問題なのでしょう。だったら、自分たちの律法に従って自分たちで勝手にその男を裁きなさい。
しかし、どうしてもこのイエスという人物を死刑にしなければならないと言うので、今度は被告であるナザレのイエスに質問をします。
「お前はユダヤ人の王なのか?」
イエス様は答えます。

18:34 イエスは答えられた。「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」

ピラト自身がそう思うのか、他の人がそう言うのを聞いただけなのかという事です。

18:35 ピラトは答えた。「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」

ピラトは政治的な一面でしか、この出来事を捕らえていませんでした。
ピラトにとっては、これは全てユダヤ人の問題であり、ユダヤ人の王と自称するこのナザレのイエスという男は、政治的な争いに負けて告発されたのだろうと、ピラトは考えていたのでしょう。
しかし、イエス様のいう国はこの世のものではなく、精神的なものを表しているのだということが判ると、このイエスという男がローマの治安や統制を乱したり、脅威になる恐れがあるとは考えられませんでした。
イエス様が「真理」という言葉を口にした時、「真理とは何だ。」と一笑に付し、まったく興味を示そうとはしませんでした。
この時にピラトが理解したのは、イエスという男をローマ法で裁く材料は何もないということでした。
しかしピラトは結局、十字架刑を決行します。
その様子は19章にも出てきますが、イエスを十字架にかけなければ、ユダヤ人の暴動が起こるのではないかと恐れたことがひとつ。そして、ユダヤの王を名乗るナザレのイエスはローマ皇帝に対する謀反を起こしたのであり、極刑に処さない事は皇帝に対する反逆だというユダヤ人の誘導に乗ってしまったからでした。

② ユダヤ人
ユダヤ人たちは、憎しみに支配されていました。
28節を見ると、彼らは過ぎ越しの食事が食べられなくならないように異邦人の官邸には入りませんでした。これは聖書には書かれていないのですが、彼らが聖書をもとにして作った律法の中に記されている事です。
彼らはこの様に宗教的な部分に対しては熱心に、また冷静に考える事ができていましたが、イエス様を死刑に処させるためには嘘の証言をするという律法違反には目をつぶり、バラバという強盗を牢獄から解き放つ事さえしてしまいました。
決定的なのは19章の15節です。

19:15 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」

ユダヤ人の歴史を思い出してみましょう。
かつてユダヤ人が王を持たなかった時代がありました。「我々にも王を」と呼び求めるユダヤ人達の声に、サムエルと言う預言者は、「神こそが我々の王だ。」と答えました。しかしそれでも王を求める民はサウルを王として選び、神様はダビデという偉大な王を与え、そこからイスラエルの王国が始まりました。

そして今、ユダヤ人はこのように叫ぶのです。
「カイザル(皇帝)こそが私達の王だ。」と。
イエス様に対する彼らの憎悪は、神様との約束を破らせ、反逆させ、大きな罪を起こさせる事になりました。
憎しみとはそれ程私たちの目を覆ってしまう、恐ろしいものなのです。
しかし何が彼らをそれほどまでに追詰め、憎しみを深めたのでしょうか?
それは皮肉にも、彼らの宗教的な正しさへの固執から来たものではないでしょうか。
彼らは、イエス様をユダヤ教に対する宗教的脅威としてしか見る事ができませんでした。
このイエスという男は我々の神を冒涜した。この男をのさばらせて置いたら、ユダヤ教の存亡に関わる。あるいは、司祭としての我々の立場はどうなってしまうのか。
そのような思いが、この様な憎しみを生んでしまいました。

ピラトが持っていた政治的な視点や、ユダヤ人たちの宗教的な視点は、今でも多くの人が持っているものです。
キリスト教というものを政治的な視点だけで見るならば、西洋人はキリスト教徒で、アラブ人はイスラム教徒、東洋人は仏教徒という見方になります。
そうするとキリスト教は、日本人である自分には関係のない事でしかありません。
あるいは宗教としての視点だけで見るなら、キリスト教は先祖代々守ってきた仏壇や神棚に対する脅威です。
その様な視点でしか見られない人にはイエス様を伝えれば伝えるほど、憎しみが返ってきてしまいます。

私達クリスチャンの中にも、その様な形でしか信仰を持っていない人たちがいます。
クリスチャンの家庭に生まれたから自分もクリスチャンだと思っている人や、他の宗教を否定し、キリスト教が正しいということを証明することに命をかけているような人たちです。
その様な人々が、キリスト教とはこういうものだと主張してしまうので、多くの人たちが更に混乱してしまうのです。
しかし、イエス様が伝える福音とはそのようなものではありません。
それでは、イエス様は何のために地上に来たと言っているのでしょうか。

③ イエス様

18:36 イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」
18:37 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。

イエス様は、真理の証しをするために生まれ、この世のものではない神の国の王となるためにこの世に来たのだというのが、イエス様の言葉です。
私達は、民族や、国籍や、経済的なものに支えられる国家としての国ではない形で神の国を理解し、宗教という概念的なものではなく、真理として、真実として聖書の御言葉を捉えるのでなければ、イエス様が何を私達に伝え、なぜこの世に生まれなければならなかったのかを理解する事はできません。

この聖書に書き記されている真理、真実とは何だったでしょうか?
それは、①この世界のもの全てが、偶然に出来たのではなく、神によって創造されたのだと言う事、②私たちの命はこの肉体と共に無くなってしまうのではなく、肉体が滅びても魂は永遠に生きるものとして作られたということ、③完全な形として創られた人間が、神ではなく、自分自身を中心に生きる道を選んだために神様との関係が断絶したということ、それが原罪というものであるということ、そしてその罪のために、私達は滅びの道を歩む事になったということ、④しかし神様は私達を見捨ててしまうのではなく、私たちの魂を救う事を約束しているということ、そして⑤その罪の赦しのために与えられたのが、イエス様なのです。
罪が赦されるということは、断絶してしまった神様との関係を、もう一度結ぶ事ができるということです。
私達は、神様が私たちのために与えた神の子であり、神様そのものでもあるイエス様を十字架にかけてしまった事によって人間の罪深さを思い知らされます。そして、イエス様の復活によって私たちの罪をなかった事として扱って下さる神様の愛を知る事ができるのです。
クリスチャンであれば、多少の理解が違っても、今話した事は誰もが知っている事でしょう。しかし問題は、私達がそれをどのように受け取っているかということなのです。
私達がこのことを、ただ理屈として知っているということに留まるのであれば、ピラトの様な政治的な視点や、ユダヤ人律法学者達の様な宗教的視点と何の変わりもありません。
私達は実体験として、救いを認識しているでしょうか?

イエス様は、信仰を持ち、聖霊によって生まれ変わるなら、神の国に入る事ができると言いました。
神の国とは、神が統治する完全な世界です。
私達は今この時、人間の罪によって不完全なものとなってしまったこの世界の中にあっても、心のうちに神の国を体験する事ができます。
愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制、そういったものを通して、私達は自分が神の国にいるかどうかを知る事が出来ます。
神の国に入った私達は、御言葉が私たちの内で広がり、30倍60倍、100倍の実を結ぶ事を経験します。
また神の国に入った私達は、どんな困難をも恐れる必要がありません。
それは、神の国の王であるイエス様が共にいて下さるからです。
イエス様がいつも共にいて下さる事を私達が心から信じ、そして主に信頼して全ての事を委ねるなら、私達は何も心配する事がないのです。
皆さんは神の国にいますか?
今、神の国にいるという実感がないのであれば、私達がしなければならないことはひとつです。それは、イエス様を私たちの心の王座に迎える事です。
イエス様を王とし、その声に聞き従うなら、私たちの人生は今とは全く違ったものになることでしょう。

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