ヨハネ19:17-30 『イエス様の使命』 2005/12/18 松田健太郎牧師

ヨハネによる福音書19:17~30
19:17 彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。
19:18 彼らはそこでイエスを十字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真中にしてであった。
19:19 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」と書いてあった。
19:20 それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。
19:21 そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。」と言った。
19:22 ピラトは答えた。「私の書いたことは私が書いたのです。」
19:23 さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。
19:24 そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。
19:25 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
19:26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。
19:27 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
19:28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
19:29 そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
19:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。

このクリスマスのシーズン、私達はイエス様がどのようにして地上に来たのかという話を耳にする機会をたくさん与えられています。
しかし私達は、なぜイエス様が地上にこられたかという事を考える必要があるのです。
イエス様は、私たちの病や怪我を癒すために地上にきたのでしょうか?
あるいは、私たちに道徳を教えるために地上にきたのでしょうか?
それとも、新しい宗教を創るために地上にきたのでしょうか?
今日の箇所を読んでいただければ、僕の言いたい事はもうわかりますね。
イエス様が地上に来たのは、十字架にかかるためだったんだということです。

すべての人はいつかは死ぬ事になっていますし、ある人の死が他の人にとって意味のあるものとなるということはあるかもしれませんが、死ぬ事が目的として産まれてきた人間は、おそらく歴史上イエス様しかいません。
もちろんイエス様が生きている間に話してきた事、してきたことは意味のある事ではありますが、究極的に言えば、それはイエス様が神の子であることを証明し、イエス様が十字架にかかるという事が私達にとってどのような意味があるのかということを示す事が目的だったのです。
だからイエス様の、救い主としての公生涯はたった3年しかありませんでしたし、それしか必要なかったのです。
人を癒したり、道徳を教える事が目的だったのだとしたら、イエス様はもっと若い頃からその働きをすればよかったし、33歳で死ぬのではなく、寿命ぎりぎりまで生きてもっと多くのことを私達に残していくべきだったでしょう。
全能の神様には、イエス様にその様な人生を送らせることも可能だったのですから。

2年ほど前に、メル・ギブソンというハリウッド俳優によって、『パッション』という映画が作られました。
この映画はイエス様が十字架にかけられる最後の24時間に内容をしぼった、イエス様についての映画でした。
十字架の意味を伝えるには説明が少なすぎましたが、私達クリスチャンがイエス様の十字架にもう一度目を向けるためには、大きな意味があった映画だったと思います。
イエス様の人生の全てが、十字架に集結しているのです。

① ユダヤ人の王
イエス様が架けられた十字架の上には、イエス様が十字架に架けられた罪状が掲げられていました。そこには、ヘブル語、ラテン語、ギリシア語で『ユダヤ人の王ナザレ人イエス』と書かれていました。
これは、ローマ帝国のユダヤ総督であるピラトの、ユダヤ人に対する皮肉と軽蔑を込めて、悪ふざけとして書かせたものです。
ユダヤ人たちはつい先ほどまで、カイザル(ローマ皇帝)しか王はいないと言い、イエスが王であることを否定したばかりだったからです。
「その罪状書きを取り除いてくれ。」「せめて、『ユダヤ人の王と名乗った・・・』と書いてくれ。」と彼らは再三頼みましたが、ピラトは私が書いたことはそのままにしておけと、聞く耳を持ちませんでした。
このようにして、人間の醜さが行わせた事ですが、私達はそこに絶対的な真理が隠されているのを見ます。
その真理とは、イエス様が旧約聖書に預言された、ユダヤ人の真の王であるということです。
それが、この当時この地域で使われていた3つ言語で書かれていたのです。
ヘブル語、ラテン語、ギリシア語で書かれていれば、広いローマ帝国に住む全ての人々が、この罪状書きの意味を理解する事ができたでしょう。
そして、イエス様はユダヤ人の王であるというだけに留まりません。
私達、全人類の王。神の国の王なのです。
イエス様は神様なのですから、この地上に来られる時、世界全土を支配する王として君臨し、世界の王座に鎮座して、私達にすべてを指図する事も出来たでしょう。
しかし、救い主としてイエス様が選んだのは、世界の国の王座ではなく、十字架の上でした。
宮殿に引きこもってふんぞり返っているのではなく、神であるイエス様は、私達の罪を贖うために自らが十字架に架かって下さったのです。

② 十字架を前にする人々
次に、十字架を前に、人々がどの様な態度を取ったのか、3種類の人々を紹介したいと思います。
一つ目は、ローマの兵士達です。
主が十字架につけられ、私達の罪を贖うための苦しみを受けられているとき、ローマの兵士達はイエス様に残された最後の財産である衣服を分け合っていました。

19:23 さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。 19:24 そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。

これが、キリストに対する世の態度です。
今、救いの業が目の前で完成しようとしているその時、その場にいても、彼らの目には真実は映りません。
イエス様が持っていた、つまらない衣服や下着に執着し、賭けに興じている様は、十字架の意味を知ろうともしないこの世の人々の態度と全く同じです。
先週のクリスマス礼拝のメッセージでも言いましたが、この国では、クリスマスになればイエス様の話を聞く機会はいくらでもあるのです。
それをきっかけに信仰を持ち、救いに入る事もできるでしょう。
しかし、クリスマス・プレゼントや、恋人とのデートに心を奪われてしまっていては、十字架を目の前にしても救いに気がつく事はできません。

2つ目は聖書の中には描かれていない、弟子達です。
弟子達は、イエス様の公生涯の3年間、共に飯を食い、共に歩き、共に語らってきました。
しかしイエス様が捕らえられるや、我先に逃げてしまって、イエス様が十字架にかけられる時には誰も側にはいませんでした。
これは、十字架と自分の罪に目を背ける態度です。
信仰を持つということにはいくつかの責任が伴いますし、生き方が変わっていくということも意味しています。それは、自分中心の人生から、神様が中心の人生に変わっていくからです。
信仰に伴う責任や変化が恐くて、なかなか信仰に入る事ができない人たちがいます。
しかし、十字架はそこにあるのです。
いつまでそのことから目を反らしていられるのでしょうか?
もし恐れから目をそらしてしまっている方がいらっしゃったら、勇気を出して飛び込んで見てはいかがでしょうか?
神様が中心の人生も悪くないものです。
神様は、私たちを心から愛してくださっている神様ですから、自分が中心でやって行こうとしていた時より、ずっと楽ですばらしい生き方がそこで待っているはずです。

3つ目は、女弟子達です。

19:25 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。

捕まる事を恐れて人前に出てこられなかった弟子達に対し、イエス様の母マリヤをはじめとした女弟子たちは、十字架の側にいました。
彼女達をそこにいさせたのは何だったでしょうか?
それは、愛です。
完全な愛は恐れを取り除くという不滅の事実を、そこに表しています。
私達はこの世の迫害を恐れない愛でイエス様を愛する事ができているでしょうか?
これはとても難しい事です。
しかし、イエス様が命をかけて私たちを愛して下さったのだから、私達もその愛に応えようではありませんか。

③ 勝利の最期
ユダヤ人の王になろうとした男の野望を考えた時、十字架に架けられたというその最期は、計画の失敗であり、敗北を意味しています。
統一協会の文鮮明は、イエスがこの時に失敗して十字架にかけられてしまったため、自分がメシヤとして再臨し、神の計画をまっとうするのだと言っています。
イスラム教典であるコーランには、預言者でしかないイエスが神と同一視されるという冒涜を犯したため、罰として十字架に架けられたのだと書かれています。
創価学会は、イエスが本当に真理と共にあったのであれば成功と繁栄の最期を迎えたはずであり、犯罪者として十字架にかけられたイエスには真理はありえないと教えています。
2000年前にも、多くの人々が、イエスの野望は打ち砕かれたのだ思っていました。
しかし、イエス様の最期の言葉はそれとは矛盾するものでした。

19:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。

「完了した。」というのが、イエス様の最期の言葉でした。
それは、この長い旅路が、今ここに終わったのだという思いと、救いが完成したという達成感とに輝いた言葉です。
アダムとエバが神様の愛ではなく、自分たちが神になろうとする罪を選んでから、神様は私達との失われた関係を取り戻したいと思っていました。
そういう意味では、イエス様のこの時の言葉は、33年間の苦しい生涯をようやく終えられるイエス様の安堵から出た言葉というよりは、何千年もかけてようやく完成を迎えようとしている救いの計画に対する、神様の歓喜の叫びだったのではないでしょうか。

十字架を通して、私達は神様の愛の大きさを知る事ができます。
十字架を通して、私達は神様の目にどれほど価値のある存在なのかを知る事が出来ます。
十字架を通して、私達は神様をもう恐れなくてもいいという事を知る事が出来ます。
十字架を通して、私達は神様が心を癒して下さる事を知る事ができます。
十字架を通して、私達はもう罪を償うための代償が必要ないことを知る事が出来ます。
十字架を通して、私達は死の呪いから解放された事を知る事ができます。

十字架の意味を知らなければ、イエス様の最期は敗北にしか見えません。
しかし、敗北に見えた十字架の上で、その時イエス様だけは知っていたのです。
その手には、勝利が握られていることを。

最後にひとつのお話をしてしめくくりたいと思います。

毎日池のそばを回って小学校に通っている男の子がいました。
冬になると、池は凍りついてしまいます。
そのために彼の父親は、決して池に近づかないようにと注意を与えていました。
しかし、彼はある日父親の忠告を無視し、氷の上を歩こうとして池に近づきました。
そして氷の上に足を乗せたとたん、氷が割れて彼は冷たい水の中に落ちてしまいました。
ところが、ちょうど、そこをひとりの年配の郵便配達人が通りかかりました。
子供が溺れかかっているのを見た彼は、急いで駆けつけ、腕を捕まえてその子を引き上げて助けてあげました。
男の子はその郵便配達人のおかげで一命を取り留めましたが、数週間寝込むはめになりました。
男の子はきっと叱られるだろうと思っていましたが、父親は彼を一切叱責しませんでした。
やがて彼が回復すると、父親はだまって彼をお墓に連れて行ったのです。
そこには、あの郵便配達人が眠っていました。
郵便配達人は、男の子を助けた代わりに、自分の命を失ってしまったのです。
このことを通して、男の子は知りました。
自分の命は、もはや自分自身に属するものではないことを。
彼は新しい命を受けました。
彼が今生きているのは、一人の人が命を捨ててくれたからだと知ったのです。

イエス様に頂いた命を、私達はどの様に生きるのでしょうか。

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