ヨハネ1:1-1:5 『闇の中に輝く光』 2005/6/19
ヨハネ1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
今日から皆さんと一緒にヨハネによる福音書を一緒にザッと学んでいきたいと思います。
ザッとと言うのは、週に1章くらいのペースで、あいだの節をどんどん飛ばしながら、とにかく読み進んでいくということを目指していくつもりにしています。
使徒ヨハネがこの福音書を書いた時、マタイ、マルコ、ルカ他の3つの福音書はすでに完成し、皆に読まれていました。
イエス様を述べ伝える福音書がもう3つも存在しているのに、30年以上を隔てた後にヨハネが自分で福音書を作ったのはなぜだったでしょうか?
ヨハネ自信はその目的について、この様に書いています。
20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。
この学びを通して、イエス様とは一体誰なのかを、皆さんによく理解していただければと思っています。
① 神のみことば
今日の箇所は、「初めに 」という言葉から始まっています。すべての初めにふさわしい箇所ですね。
ここで語られる初めとは、天地が創造されるよりも前、全ての根源においてという意味です。神様が天地を創造される以前、そもそもの初めに、「ことば」があったのだと、ヨハネは記しています。
言葉とはなんでしょうか。ことばとはコミュニケーションの手段として用いられるものです。私達は自分の意思を伝えるために言葉を使います。
罪によって霊的に死んでしまい、神様との直接的なコミュニケーションの手段を失ってしまった私達に対し、神様が意思を伝えるために用いたのがイエス様でした。
しかし、人間が創造されるよりも前、全てがまだ存在する前から、その言葉はあったというのですから、人とのコミュニケーションのためのものという意味には留まりません。
ここで私達には連想できるものがないでしょうか?
天地が創られる前にいたのは神様です。神様が「光よ。あれ。」と言ったとき、そこに光が現れたように、神様は言葉によって全てのものを創造しました。
全てを創造した神の言葉は、天地が創られる前から存在し、それは常に神様とともにあり、その言葉の本質は、神様そのものだったのだとヨハネは語っています。
この「ことば」こそイエス様であるというのです。
イエス様は天地の創造の前から存在し、創造の源なのです。この方は神様と共におられ、全てのものは神様が、イエス様という言葉を通して創ったのです。
今神様は、イエス様という言葉によって私達にご自身の愛を示し、イエス様という言葉によって天地を創造したように、私たちを新しく創造するのだということです。
② いのちのことば
「この方にいのちがあった。」と次に書かれています。この命という言葉を考えていきましょう。
聖書には3種類の命が記されています。
ひとつには、私達が普通に使う、“肉体の命”。
次に、アダムがエデンの園で善悪の知識の実を食べた時に失い、それ以来全人類が神様との関係を断たれてしまったもの、これが“霊的命”です。
そして3つ目は、私達が救いを得たときに受ける“永遠の命”です。
ここで書かれているいのちは、この3つの命を総括したものです。
神の言葉であるイエス様は、私達と同じ肉体を持って生を受け、アダムの罪によって失われていた霊的命を生まれながら持つ唯一の人であり、それゆえに永遠の命が約束されていました。
それだけではありません。
私達がこの神の言葉に触れ、この命の源に接する時、失われていた霊的な命が私たちの中にも生まれ、永遠の命を受けることができるようになるのです。
皆さんの中に、今この3つの命が生きているでしょうか?
皆さんが霊の命をまだ受けていないなら、肉体と精神の力だけではいつかはくたびれ果ててしまいます。早く霊的命を自分の中に招き、神様からの力で生きる事をお勧めします。
でもクリスチャンの中には、新しい命を得たというのになぜか生気が感じられない様な人たちがいるんですよね。
イエス様は別の場所でこのように言っています。
ヨハネ 4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
いのちというのは、活力でもあります。
私達がイエス様から与えられる、聖霊という水を飲むなら、私たちの内で霊の泉となり、私達は永遠の命を源泉とした命の水に満たされるはずなのです。
皆さんの内に湧き出てくる命を感じることができますか?
クリスチャンになったのにまだその命の満たしを感じたことがないからといって、それは救われていないという事ではありません。
それは聖霊を実感することができていないというだけのことです。
まずは祈りつつ、神様に近づく事に意識を集中する所から始めて見てください。やがて必ずそれを実感できる時が来ると思います。
以前は感じていた命の満たしを、最近は感じられなくなってきたという方は、霊ではなく肉の力に頼って生きようとしているかもしれません。
私達が霊的命を得たとき、私達は神様との生きた関係の中に招き入れられたのです。
ならば私達は自分の力、肉の力に頼るのではなく、霊を通して与えられる神様の力によって生きていく必要があるのです。
このことに関しては、また別の機会に詳しく話していきたいと思います。
③ 闇の中に輝く光
さて、言葉と命ということに関して話を進めてきましたが、これから3つ目のポイントです。3つ目のキーワードは、光です。
私たちの心の中には闇があります。
この罪の闇というものは、犯罪というわかり易い形の罪だけで成り立っているのではありません。この世界を創造した神様から離れてしまう事によって、自分が何をしたらいいのか、どこに向かって人生を歩んで行ったら良いのかが判らなくなってしまっているのです。
その結果として、犯罪や、姦淫という行いは起こってくるのです。
この闇の中で、私達はただ立ち尽くすしかないのでしょうか?
ヨハネは4節の後半でこの様に言っています。
「このいのちは人の光であった。」
神の言葉であるイエス・キリスト。イエス様は神様と共にあり、神様そのものでもありました。
イエス様の中にある、命、この場合には特に霊的命こそが、闇の中の光となるのです。
光は、闇の中に輝いています。
ある人たちはこの様に言います。
光は、闇がなければ存在する事ができない。
光がなければ、そこは一面の闇だ。
だから闇の方が力があるんだというのです。
周りを見渡して見てください。あの人だって誤魔化してるじゃないですか。
こんな小さな嘘なんか、誰だってついてることだよ。
これくらいの事は浮気の内には入らない、入らない。
みんなやってるじゃん?
神様なんか、誰も信じてないじゃない?
しかし、そこには一条の光が輝いているのです。
それは、今にも消えそうな細々とした光ではありません。
私たちの心の闇を切り裂く、十字架の輝きです。
5節の後半で、ヨハネはこの様に宣言しています。
「やみは、これに打ち勝たなかった。」
メッセージの前に歌った賛美の歌詞を思い出して下さい。
詩篇119:105「あなたのみことばは、わが足のともし火。
あなたのみことばは、わが道の光。」
これは、詩篇119篇の105節に書かれている御言葉です。
ここに書かれている“みことば”とは、聖書に書かれた御言葉だと考えて間違いないでしょう。しかし、この御言葉の中にイエス様の面影を抱く時、私達は神様のことをよりいっそう深く理解することができるようになるのです。
先ほど歌った賛美、「あなたの御言葉」を、もう一度共に賛美しましょう。