ヨハネ20:1-17 『なぜ泣いているのですか?』 2005/12/25 松田健太郎牧師
ヨハネによる福音書20:1~17
20:1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20:2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」
20:3 そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。
20:4 ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
20:5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中にはいらなかった。
20:6 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓にはいり、亜麻布が置いてあって、
20:7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
20:8 そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。
20:9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。
20:10 それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。
20:11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
20:12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。
20:13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
20:16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。
20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」
今日はクリスマスですね。
このクリスマスの時期に、主がイエス様の十字架と、復活ついて話すことを赦されたことを心から感謝します。
今日他の教会ではイエス様の降誕のことばかり話していると思うのですが、今この箇所を話す事になったのは主の御心だと心から思います。
さて先週のメッセージで、イエス様が十字架に掛けられて息をひきとるというところまでお話しすることができました。
その後、イエス様はアリマタヤのヨセフという人物に引き取られ、彼が所有していた墓穴に納められます。
イエス様が十字架に架けられて亡くなられたその日の夜には墓に葬られ、次の日が安息日、そしてその次の日が、3日目の朝。これがユダヤ式の3日3晩です。
ですから、3日とは言いますが、実際には36時間くらの間の出来事なのだとお考えください。
週の初め、今で言えば日曜日の朝、マグダラのマリヤという女性がイエス様の墓に行きます。
彼女もたくさんいる、イエス様の弟子のひとりでした。
悲しかったでしょう。悔しかったでしょう。
イエス様には生きていて欲しかった。もっと聖書の話を聞かせて欲しかった。
ご家族や大切な友人を亡くされた方なら、この時のマリヤの気持ちを想像するのはそれほど難しい事ではないでしょう。
もう話もできなくなってしまってから、もっと色んなことを話して置けばよかったと思ったりするわけですよ。
「聖書のお話は難しくて、分からない事もたくさんあったけど、もっとしっかり聞いておけばよかった」とか、色んな後悔がマリヤの上にはよぎっていただろうと思います。
だから、マリヤは最後のお別れを言いにいったんです。
そしてもちろん、香料を塗って、安置された遺体の最後の処理もしなければなりませんでした。
イエス様の遺体が安置されているはずの墓まで来ると、そこで彼女はイエス様の墓の扉が開いているのを見つけ、弟子たちを呼びに行きます。
その墓には、イエス様の遺体が無いことを、一番弟子のシモン・ペテロも、この福音書の著者であるヨハネも確認しました。
この時の様子をヨハネはこのように伝えています。
20:6 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓にはいり、亜麻布が置いてあって、
20:7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
イスラエルでは、遺体を埋葬する時に香油を全身に塗り、ミイラのように全身を亜麻布で巻いてしまいます。
その亜麻布だけが、墓には残されていました。
情景を思い描いてみて下さいね。
体を巻いていた亜麻布は、まるでそこからスルリと抜け出した様に、巻いてあったそのままの形で置かれてあったのです。
そして、頭に巻かれていた布だけが、少し離れた場所に置かれていました。
もし誰かが遺体を運ぶなら、グルグルに巻かれて、香油でガチガチになった亜麻布に巻かれたままの状態で運びますよ。しかし、そこにあったのは、巻かれていた亜麻布だけ。
一方で、墓の石は開けたままになっていました。
包まれた布から幽霊の様にスルリと抜け出せるなら、墓もそのまますり抜けてしまえばいいのに、これはしっかりと開け放ち、開けることはできたのに、閉めないでそのままにしておいたことになります。
マグダラのマリヤには、何が起こっているのか理解できていませんでした。
どうして、なぜ主の体がここにないのか、一体誰が持ち去ってしまったのか、まったく検討がついていなかったのです。
20:11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
マグダラのマリヤは、2日前に葬った遺体が誰かに盗まれてしまったと思ったのでしょう。そのひどい仕打ちと、イエス様との思い出にふけって泣いていていました。
昨年くらいにベストセラーになった『ダ・ビンチ・コード』という小説があり、そこでイエス様がこのマグダラのマリヤと結婚して子供がいたなどという話がありますが、皆さんはこのような話を本気に取って惑わされるようなことのないようにしてください。
この著者が歴史的文献として調べて、証拠として持ち出しているものはみんな、当時異端やカルトとされていたものばかりです。
モルモン書や、統一教会の本、大川隆法が書いた本で言われている事を、キリスト教徒が抹消してきた歴史的証拠であると主張するような事をしているわけです。
イエス様は、ご自分が何のために生まれてきたのであり、何をなすべきなのかということを誰よりもよく知っていましたから、結婚して子孫を残すという事はなかったはずです。
もしそのような事が本当にあったのだとしたら、別に隠すほどのことでもないのですから、聖書に書かれていたでしょう。
この本の著者が腹立たしいのは、小説だというならフィクションとしておけばいいものを、限りなく真実に近いとか、人類が今まで知らなかった真実などというかたちでこのことを紹介したことです。
このような説は、歴史上何度も流行してきて、その度に否定されてきたことだからです。
この様にマグダラのマリヤは、色々な人々の興味を引いて取り上げられることが多いですが、聖書を見ていれば彼女がどのような人物だったかを描いた箇所はほとんどなく、7つの悪霊をイエス様に追い出してもらったという意外には、復活のイエス様に最初に会った人物というだけに過ぎません。
そのマグダラのマリヤのもとにふたりの御使いが現れました。
御使いはマリヤに訊ねました。
20:13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
その時、彼女は背後に気配を感じたのでしょう。
20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
この時立っているのがイエス様だとわからなかったのはなぜだったでしょうか?
それは、イエス様の生きた姿を見るなどということがありうるとは想像していなかったからです。
マグダラのマリヤの心を占めていたのは亡骸がなくなって、最後の別れを言う事もできなくなった空虚な墓でした。
そこにあるのは、彼女の先生、イエス様が死んでしまったというその悲しみと絶望です。
彼女の涙が、目の前に立っているイエス様を見えなくしていました。
彼女の絶望が、彼女の心を闇へと向けてしまっていました。
今、目の前に立っているのに・・・。
そんなマリヤをからかうかのように、イエス様は言います。
20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
イエス様は「なぜ泣いているのですか? 」と訊ねました。
それは、イエス様に会って喜ぶべき時なのに、マリヤが泣いているからです。
マリヤは、自分が泣いている理由を聞かれたのだと思い、園の管理人だと思ってイエス様に言います。
「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言って下さい。そうすれば私が引き取ります。」
勘違いもさるものですが、マリヤはイエス様の遺体を引き取って、いったいどうするつもりだったのでしょうね?
そんなことも判らなくなってしまうほど、マリヤはパニック状態に陥っていたのでしょう。
その時、イエス様は優しく、マリヤに声をかけました。
20:16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。
イエス様に声をかけられて、初めてマリヤにはそれがイエス様である事がわかりました。
ここにはギリシア語で書かれた原文を見なければ判らない部分があります。
それは、この時イエス様はマリヤを、「マリヤム」とアラム語の発音で呼んだということです。
今まで「健ちゃん、健ちゃん」って呼ばれてたのに、突然「松田健太郎先生」って声をかけられても、誰だかわからないじゃないですか?
しかし、あの聞きなれた声、聞きなれた言い回し、聞きなれたなまりで、イエス様はマリヤを呼んだのです。
マリヤも思わず、アラム語で(なぜか聖書には『ヘブル語で』と書いてありますが。)「ラボニ(先生)」と応えました。
このラボニというアラム語には、もうひとつ意味があります。
それは、神様を表す「主」という意味です。
マリヤは呼びなれた「先生」という言葉で応えたのかもしれませんが、そこには「主よ」という、イエス様を神として認めた信仰告白が含まれていました。
マリヤは「主よ。」というと、跪いてイエス様にすがり付きました。
20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」
「わたしにすがりついてはいけません。」とイエス様は言いました。
それは、今がまだその時ではないからです。
イエス様が父なる神のもとに行った後、つまり私達が死んで天に引き上げられる時になって初めて、私達はゆっくりと、安心してイエス様にすがりつく事ができます。
イエス様はまだその時ではない。今は、兄弟達の所に行って、蘇ったイエス様がこれから天の父なる神のもとに行くということを告げなさい。それは、人類の罪によって死ななければならない体を持った私達にも、新しい命が与えられたという証しです。まずはこの福音をみんなに告げ知らせなさい。とイエス様は言ったのです。
私達はいつまでも、目の前にある悲劇や、苦難にばかり目をやってはいないでしょうか?
いつまでも後ろ向きの姿勢のままでいると、私達は主が共におられるという事実を見失ってしまいます。
マリヤはイエス様が十字架に架けられて死ぬのを見た後、墓が空っぽになっているのを見て嘆きました。
墓にイエス様の遺体があることを当たり前だと思っていたからです。
それでは、もしあの時イエス様の遺体があったら、彼女は喜ぶことが出来たのでしょうか?
私達が崇めるのは、2000年前に死んで、いなくなってしまった人ではありません。
イエス様は今も生きて、私達と共にいて下さいます。
私達はいつまで泣いているのでしょうか?
目を上げて見てください。
そこに、イエス様がいます。